第21話 安達さん家
東の自宅で目覚めたひよりは、不思議な気分だった。
他人のベッドにも関わらず、いつのまにか自分のベッドよりもぐっすり眠れていたからだ。
「このベッドお高いんだろうなぁ。寝返っても軋まないし、マットの硬さもちょうどいい。それにいつもシーツがパリッとしてる。気持ちいいー。いい匂い……あっ」
ひよりは気づいてしまった。自分にとってこの部屋はとても心地がいい。もしかしたら我が家よりもそれは優っているかもしれない。
ひよりはゴロンと転がった。
ふわりと動く空気はまるで東のようだ。優しくて、咎めることなく、そのままのひよりを受け止めてくれる。
この部屋は東そのものなのだ。
「あーん、会いたくなっちゃったー!」
だらだらすればするほど、東が恋しくなる。これではいけないと、ひよりは飛び起きてリビングのドアを開けた。
「顔を洗って、気合いを入れろ! 今日は安達先生に自衛隊のことを教えてもらうんだから。そうだ、安達さんの奥さんには自衛官の彼女の心構えとか、聞いちゃう。よしっ」
顔を洗って髪を整えた。
キッチンに目をやると「おはよう、ひより」と、今にも東が出てきそうだ。彼氏がキッチンから出てくるのがデフォルトであるとは如何なものか。
ひよりは朝食を作るために冷蔵庫を開けた。
◇
「ようこそ、ひよりさん。さあ、どうぞ。あなたー! いらしたわよー」
「おじゃまします」
午前十時を少し回った頃、ひよりは安達の家のインターホンを鳴らした。安達の妻が最初にひよりを迎え入れてくれた。
第一印象は、
(元気で明るいお母さん……て、感じ)
部屋の間取りは同じなはずなのに、住む人が変わればまるで違って見える。東の部屋が洗練されたシティホテルの一室に例えるなら、安達の部屋は木の温もりを思わせるコテージかなにかのよう。
リビングに入ると例の強面、安達が待っていた。
「ようこそ我が家へ。緊張しているね。先ずはお茶でも淹れるかな」
「あの、和菓子と焙じ茶を買ってきました。よろしければ」
「ありがとうございます。気を遣わせてしまいましたね。おお、ここのお菓子は美味しいんですよ。お供に焙じ茶ですか」
「すみませんっ。その、ここの焙じ茶しか思い浮かびませんで」
ひよりは焦った。安達が得意とするスイーツとお茶の分野に、おこがましくも自分の好みを押し付けてしまったからだ。ここは大人しく、お菓子だけにしておくべきだったと一瞬後悔が襲う。
「この組み合わせはね、最高ですよ!」
なんと安達は、頬骨を高く上げながら親指を上に突き立てた。グッドという意味だ。
「さ、最高……あ、ありがとうございます」
まさかのお褒めの言葉に、思わずひよりも親指を突き立てながら頭を下げた。そんなひよりを見て安達は太い声で笑った。
「ふはははは。こりゃ、参った」
「あらまぁ。うちの人、こんなに笑ったの久しぶりよ。ひよりさん、すごい。娘でも無理よ」
「えっ、そんな」
「茶を淹れてくる」
安達は肩を揺らしながらキッチンに消えていった。
そういえば、前に東の部屋で食事をした時、安達は声を出して笑うことはなかった。ときどき頬をあげるものの、静かに皆を見ているだけだった気がする。
(きっと、ご自分の家だからよ……)
「奥様とご一緒だからではないですか? 他の自衛官さんたちの前では、頼もしい上司さんだなって思いました」
「あはは。確かにあの人はそうかも。外では常に自衛官なのよ。休みだからって気を抜いてられない。どこで誰が見ているか知れないって。自衛官って、他の公務員より少し特殊でしょう? 今はまだいいけど、昔は風当たりが強かったから」
「いつも、自衛官でいなければならないんですね」
「そうなの。自衛官は辞めても自衛官だった事がつきまとうわ。死ぬまで、自衛官なのよ」
「そうなんですね……」
国に仕える公務員は何十万人といる。警察や消防もその一人だ。しかし、自衛隊となると少し事情が変わる。
第二次世界大戦後に、日本は「戦争の放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」を憲法9条に定めたが、自衛権までは放棄していないと解釈した。そこで、専守防衛に基づいて自衛隊が結成されたという経緯がかる。あくまでも、外部から攻撃があった場合のためのものだ。
そのため、戦争を放棄した日本は、わざわざ不要な組織を税金で無駄に作っただの、憲法違反だの、人殺し集団だのと、いわれのない罵声を浴びせられることがあった。
今は自衛隊のあり方が見直され、昔ほどではなくなったものの、よく思わない人たちはまだ多い。
当然ひよりも、自衛隊という存在は知っていた。しかし、知っていただけで、彼らに対する意識はそれ以上でもそれ以下でもなかった。
幸い、自衛隊に助けられるような災害にもあっていない。駐屯地なんてどこにあるのかも知らなかった。大人になったというのに、自衛隊がどこで何をしているのか、知ろうともしなかった。いや、単に頭の中になかっただけだ。
そう、あの日、東と出会うまでは。
「自衛官って、想像していたより存在が重たいの。結婚した当初はね、税金で生かされてるんだから慎ましく生きろと言われていたわ。国民の血税だから一円も無駄にするなと、内部からも言われいてね。贅沢なんて怖くてできなかった」
「そんなに、ですか……」
「あの頃は、ね。今はそんなことないのよ? 自衛隊が近くにいると安心するって言われることもあるの。あとは、マニアさん? 増えたわよねぇ」
「マニア、ですか」
「そうなの。自衛官より詳しいのよ。鉄オタさんの自衛隊版って言ったらわかるかしら。戦車なんて、見ただけで年式まで当てちゃうんですって」
「うわぁ」
そういえば、ひよりは自衛隊マニアを知らない。駐屯地の記念行事では、特別席で観覧したせいもあり、彼らを見ていない。東と安達にしっかりとガードされていたのが効いていた。
推しの認識帽(部隊の帽子)を被っていたり、とてつもなく大きなレンズのカメラを持っていたり、やたら隊員に質問してみたり、あかの他人に基地の歴史から活動内容まで詳しく話したがる者もいる。
「男性だけじゃないのよ。女性でも大きなカメラで戦闘機を撮影したり、中にはお子さんが全身ミリタリーファッションをしていたり。昔とずいぶん変わったわ。あまり見なくなったもの、自衛隊反対のノボリ」
「じゃあ、昔よりは活動しやすくなったのでしょうか……」
「うーん……そこは、あの人に聞かないと分からないかな」
「彼が出張から帰ってきたら聞いてみます」
「東さんはまだ若いから、どうだろう。せっかくだからうちの人に聞いたらいいじゃないっ。私も聞いてみたいわ。だって、家ではそういうこと話してくれないから。ある意味、今日は楽しみにしていたの。ひよりさん、ありがとう」
「いえ、そんな! こちらこそありがとうございます」
ひよりが安達の妻と話していると「お待たせしたね」と、安達がお茶を運んできた。オレンジの香りがする、紅茶だった。
「ひよりさんのお土産は、午後のおやつに出します。実は昼ごろに、うちの若い連中もくるんですよ。大丈夫ですか」
「もちろん大丈夫です。あの、前にお会いした、衛生隊の方々ですか?」
「いえ、今回は通信隊の若者です。いろいろな部隊がありますが、まずは行儀がよい者から」
「お行儀……」
「あらやだっ。そんな言い方したらひよりさんが怖がるでしょう。ちょっと元気がいいだけだから、大丈夫よ」
安達が至極真面目な顔で言うので、ひよりは一瞬困惑した。それを見た安達の妻が助け舟を出す。
自衛隊にはいろいろな部隊があるし、様々な人材が集まる。行儀が良い悪いはさておき、とにかくいろいろなタイプの人間がいるのだ。
「ひよりさんの許容範囲は、衛生隊と通信隊がギリギリではないかと思ったんだがね。さて、ひよりさんの知りたい部隊や任務はあるかな?」
「えっと……」
ひよりは、いつか東に見せてもらったレンジャー徽章の事を思い出していた。
胸に輝くダイヤモンドと、それを囲む月桂冠の徽章だ。
「レンジャーのことを、知りたいです」
「まさかレンジャーという言葉が出るとは思わなかったな。そうですね、東二佐もお持ちですから知っておくに越したことはないでしょう」
安達はおもむろに立ち上がると、本棚の上段からビデオテープを取り出した。今どきなかなか見ない、黒いテープだ。
「残念ながら東ニ佐は映っていませんが、レンジャー訓練の様子を撮ったものです。これをお見せしましょう」
「いいんですか!」
「入隊希望者にも見せているものですから問題ありません。ただ、少々お目を汚すかもしれませんが」
「大丈夫です!」
レンジャーとはなんなのか、なんの下調べもしていないひより。身体能力が高い選ばれし者たちという、漠然としたイメージしかなかった。
この後に再生される映像に、ひよりは何を思うのか。
「ひよりさん、普通科からの方がよくない? 演習とか、それか防衛省の広報動画とか。レンジャーはちょっと、刺激が強すぎると思うのよ。ねぇ、あなた」
安達の妻の心配そうな顔に、ひよりは迷った。しかし、東も受けたこの訓練は絶対に観たいと思っている。
「観たいです。彼も受けた、レンジャー訓練を」
「分かりました」
そして、静かにテープは再生を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます