第19話 医官さん、変態さん

 恋をするのと、人を愛するというのは似ているようでやはり違う。恋は盲目で、愛は許容することではないだろうか。

 それは男女が同意のもとに肌を合わせた瞬間から、変化し始めるような気がする。心と身体が一致したと感じると、より親密に、より濃密にその触れ合いも変化する。


「あの……私、大丈夫ですよね?」


 次の週末も、ひよりは東の自宅に来ていた。


「大丈夫だ。全ての数値は正常とされる範囲内にある。もともと、この数値は厳しく設定されているから安心していいよ。ただし……」

「ただし?」

「今後、脂質は上がってくると予想される。コレステロール値も経過観察だ。少し、運動をした方がいいな」

「あー、同じことを言われましたぁ……。でも、一人だと続かなくて」

「エスカレーターを階段に代えるだけでも違うぞ。でも、ひよりはこのままでいいだろう」

「え?」


 ひよりは東に言われて、会社で受けた健康診断の結果を見せているところだ。本気で東はひよりの健康管理をするようだ。


「毎週、僕と過ごせばいいんだよ。食事面も運動面もバランスがいいだろ?」

「食事は分かりますけど、運動面って……」


 ひよりが首をかしげると、東は爽やかな笑顔でこう言った。


「自衛隊式の筋トレを教えてあげるよ。なに、大丈夫だ。簡単だからね。ああ、いきなり筋トレはきついな。ならば、自衛隊体操からだな。あれはいいぞ!」


 そう言うと東は立ち上がり、ひよりに触りの部分だけだと言い、自衛隊体操の動画を見せた。


(いやいやいやいや……ぜんぜん普通の体操じゃないし!)


 それはひよりが知っている体操ではなかった。

 無駄に腕を振り、足を上げ、知らぬ者が見たら滑稽に思えるような動きもある。ガッツポーズから勢いつけて、グルンと腰をひと回し。太ももを上げ下げ、上げ下げ、ジャンプも決して軽くない。


(む、無理ぃ!)


「あの! あまり、筋肉ムキムキにはなりたくないですけど……」

「そうか。ならば、夜の運動を工夫するしかないな。むしろこちらの方が効果があるかもしれん。快楽の中での運動は脳にも筋肉にもいいからな」

「えっ、夜の運動って。ちょっと! 何を言ってるんですかっ」


 夜の営みがトレーニングと並んでしまうとは思わなかった。しかし、正直なところあの日の彼の攻め方は、ひよりが経験したことがないくらいの快感と疲労が襲った。

 しかも、本人いわくまだ、手加減をしているらしい。


「それはさておき。ここからは真面目な話だ」

「はい」

「医師として聞く。ひよりの月経は毎月のあるかな? その時に強い痛みや、我慢できないほどの体の負担はある?」


 東を包む空気が一瞬にして変わった。それは彼氏としての顔ではなく、医者の顔だった。


(お医者さんの、顔だ……)


「セクハラだと思うかもしれないが、これは大事な事だよ。最近の若い女性は月経周期に無頓着だ。それが、自衛官でも同じことが起きている。月経は本当に女性の健康を左右する。ホルモンのバランスが崩れると精神にも支障をきたす。子供を産むためだけの問題じゃないんだ」

「ときどき、重い日があってしんどいです。何ヶ月かに一回だけど、会社を休む事もあります。でも周期は、だいたい同じです」

「なるほど。休む日もあるのか……あまり続くのなら婦人科の受診をすすめるが、貧血も影響するらしいからね。よし、鉄分のことも意識した食事にするか」

「女性自衛官さんたちは、休めるのでしょうか。その、生理痛がひどい時は」


 ふと、ひよりは思った。

 自衛隊では、男女区別なく過酷な訓練をしている。求められる能力に応えるために、彼女たちは無理をしているのではないかと考えたのだ。


「もちろん、そういった休暇はある。ただ、どうしても自分に厳しくしてしまって、悪化する者もいるね。まだまだ自衛隊は男社会だから、彼女たちは足を引っ張らないようにと無理をしていると感じる時があるね」

「そうですよね。でもそれ、絶対によくない」

「しかし、自衛官は規則正しい生活をしているから、逆に改善された人もいるよ。訓練も男性とは別だし、女性の医官もいるから大丈夫だろう。ところで、ひより」

「はい」


 医者の顔をしていた東の空気が変わった。今度は甘ったるい空気を纏っている。けれど、男になる時のギラギラしたものとは違う。


(あれ、今度はなんだろう)


 ころころと変わる東の空気に、ひよりは戸惑う。


「月曜日から出張なんだ。だから、いいよね」

「出張? どちらにって、聞いてもいいんですか。というか、なにがいいよねなんですかっ」

「防衛医大で講義なんだ。しばらくひよりに会えないから、補給させてくれ」

「わぁ、すごい。教壇に立つんですね八雲さん! え、しばらくってどれくらいですか」

「とにかく、第一弾補給開始」

「えっ、えっ、まっ……」


 補給開始の言葉とともに、ひよりは東に抱きかかえられてしまった。抵抗するまもなく、あっという間に東に攫われて大きなベッドの上に着地した。決して乱暴ではなく、羽根が舞い降りるように柔らだ。


「コンナアカルイウチカラ……」

「暗ければいいの?」

「そりゃ、そうですよね。お日様の光が差し込んでる時間帯からは、さすがにひけます」

「では本番は日が暮れてから」

「あの!」

「補給だと言っただろう。暴れるな。二週間も不在にするんだぞ」


 東はひよりを懐に抱き込んで横になった。東は後ろから、ひよりの首元に顔を寄せる。その愛らしいうなじや、華奢な肩にこれ見よがしにキスを落とす。


「八雲さんったら、くすぐったいです」

「なんだ、こうして欲しいのか」

「ひゃーっ、や、やめっ……うはははは」


 ぼんやり生えかけた顎髭が、容赦なくひよりを襲った。やめてほしいと足掻いてみるが、この自衛官はいつの間にか足も手も組み込んでおり、ひよりがどんなに足掻いても、指の一本すらこの男に向けられない。


「しぬっ、しんじゃうー! あーひゃひゃひゃ」

「心配だなぁ。この程度でなんの抵抗もできんとは……」


 ひよりの抱腹絶倒をよそに、東はまったく他の心配をしていた。


 ――不在の間、どうしたもんか。まさか連れて行くわけにもいかんしなぁ。


「ギブ、ギブ、ギブアップです。ひぃ、あはは、や、八雲さ」

「おお、すまんすまん。どれ、腹筋は鍛えられたかな」

「やーっ、撫でないでぇ」


 もう、なにをされても擽ったくて仕方がない。

 この後ひよりは、疲れ果てて昼寝をしてしまうのであった。




『安達さんですか。東です。休みのところすみません。実は……』


 なにやら東は、ひよりが昼寝をしている間に作戦会議だ。いったいどんな話を安達陸曹長としているのか。



 ◇



「ひより。自衛隊のこと学びたいって言っていたよね?」

「はい。あ、駐屯地の行事があるんですか?」

「いや、先生を紹介するよ。ひよりもよく知ってる人だから安心して。週末空いてる日あるかな」


 東がそんなことを言い出したのは日曜日の夕方。ひよりがそろそろ自宅に帰ろうかと、荷物をまとめていた時だった。


「だいたいは空いてますよ。独身の友達がいなくなっちゃって、遊べなくなっちゃったんで」

「そうか。じゃあ、先方に連絡しておく。決まったらメッセージか電話をするよ」

「はい。え? 二週間も出張なのに、荷物それだけですか? 少なすぎせんか」

「そうかなぁ」


 ひよりが東の部屋に泊まりにくるたった一泊でも、肩から下げる大きめのバッグが必要だ。なのに東は二週間も出張だと言っているのに、ひよりのバッグと変わらない。


「私のバッグと変わらない!」

「三日分の着替えがあれば洗濯でやりくりできるからな。ああ、圧縮袋のお陰だよ。一日分の着替えをワンセットにしておけば、かなり楽だ」

「なるほど。一日分をワンセットかぁ」

「山に入る時は、カバンなんて広げられない。我々が背負う背嚢はいのうの中には着替えだけじゃなく、水や緊急時の食料、それにもろもろの装備が入ってるからね」

「え、重そう……」

「まあ、三、四十キロくらいだろ」

「めちゃくちゃ重いじゃないですか!」


 どうりで無限の体力があるわけだ。そんなことをひよりは考えた。


(自衛官の彼女さんや奥さんたちは、さぞかし鍛えられてるのよね……)


 いったい、何を鍛えられているというのか……。


「そうだ、ひより。これ、渡しておくよ」

「合鍵っ。え、いいの!」

「いつでもここに来ていいからね。僕が不在の時でも遠慮なく匂いを残していってくれ」

「においって!」

「どうしたんだろうな。僕はひよりの匂い無くしては、やっていけなくなってしまったようだ」

「ちょっと何言ってるんですかっ。変態ですよ」

「ほほう。この、二等陸佐に向かって変態呼ばわりか。なかなかの度胸じゃないか」

「やだやだ。ダメですからっ……ちょーっとー」

「観念するんだな」



 変態呼ばわりが気にくわないを理由に、帰宅準備の整ったひよりを、またしても美味しくいただいた。


 ひより、頑張れ!

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