第二部

第16話 目指せ大人のデート

 すっかり体調が戻ったひよりは、一生懸命に仕事をした。

 社内の提出物が揃わなくても、おじさんの字が汚くて読めなくてもイライラしなくなった。


(私、ちょっと成長したかも?)


 東と付き合うようになってから、ひよりは少しだけ変わった。

 その付き合い方が、今までの恋人とは少し違っていたからかもしれない。

 まず、毎晩電話をしたり、頻繁にメッセージでやりとりすることがない。「おはよう」と「おやすみ」はあるものの、余程のことがない限りはそれでおしまいだ。

 まるで、生存確認をしているように淡白だった。けれど、ひよりに不満はなかった。


(小さなことは気にしない。だって、命の危険はないんだから)


 物事を比べるのに、つい、命を出してしまうのも東をはじめとする自衛官の影響かもしれない。


「西くん、ごめん。これ、いま出しても間に合うかな」

「え、ああっ。先週で締め切りの! とにかく部長にお願いしてみます。たぶん、大丈夫かと」

「ありがとう! 次からは締め切り守るんで、本当にごめん!」


 勿論どうにもならないこともある。期限厳守は社会人として当たり前だ。今までなら、締め切ってますからと冷たくあしらっていただろう。しかし、ひよりは自分は総務部で、現場で闘う彼らの後方支援をしているんだ。そう思えばこそ、できる限りは受けてあげたいと思うようになった。


(支え合いって、大切よね!)


 自衛隊はどんなことも隊内で完結させる。それを見たからこそ、そんな風に思えたのかもしれない。



 ◇



 そして、待ちに待ったデートの日がやってきた。

 天気は曇ったり晴れたり、時々雨が降る予報だった。ひよりはバッグに折りたたみ傘とカーディガンを入れて、ローヒールのパンプスを履いて家を出た。

 季節は本格的な夏まであと少し、というところまできていた。


 待ち合わせの場所は、市内中心部にある鉄道の駅の改札口。街が動き始める午前十時に、中央改札口の前で会うことになっている。

 ひよりは電車から降りて改札に向かった。通勤ラッシュほどではないにしても、それなりに人は多かった。

 ホームを降りて通路を右に回ると改札が下に見える。その改札の向こうに、背の高い男性がひよりに向かって手を挙げた。


「八雲さんっ」


 嬉しくなったひよりは、リズムよく階段を駆け下り、ICカードをタッチして改札口を飛び出した。前から来る人をスレスレで避け、つんのめりそうになりながら、ひよりは東の前に駆け込んだ。


「ひより、危なかったよ。どうして走った」

「だって、八雲さんが見えたから。早かったですね! 絶対に私のほうが先だと思ってたのに」


 背の高い東を見上げるひよりは、頬を赤らめながらも満面の笑みを見せていた。

 そんな可愛らしい顔を向けられた東は、抱きしめたいのを我慢して、ひよりの頭に手を乗せた。


「ははっ。自衛官はね、五分前行動が体にすり込まれているんだよ。約束の時間より遅くなるなんてことはないね」

「さすがー。私も見習います」

「可愛い彼女を待つ時の気分は実にいい。多少の遅刻は歓迎する。じゃあ、行こうか」

「はいっ」

「ひより」

「はい? あっ」


 差し出された東の手を、ひよりは殆ど反射的に握った。出された東の手が右手だったからかはさておき、ひよりが出した手も右手だった。人通りの多い中央改札口で、ふたりは握手を交わしていたのだ。

「初めまして、宜しくお願いします」きっと周りからはそう見えたかもしれない。

 しかし、そうじゃない!


「いやいや......」


 東は思わず反対の手で額を押えた。

 さすがにこの展開は予想していないし、今更こうする思考は持ち合わせていない。斜め上だと思ってはいたが、こんな突き上がり方があるだろうか。東は眩暈にも似た症状に襲われ、思わず目を瞑った。

 東は悩んだ。こう見えてもそこそこに経験がある。自衛官として、医官として人に恥じる部分などない。

 女性に対しても恨みを買うような付き合いはして来なかったはずだ。確かに若い頃に比べると、勢いだけでがっつくことはできなくなったが、その分相手を思いやることができているだろう。相手に気持ちを尽くすことに、手など抜いていない。

 少なくともひよりに対しては、今まで以上に大事にしたいと思っている。


「それがどうして、こうなった......」


 屈託のない笑みを向けられれば向けられるほど、男はうなだれるしかない。

 これでも一応、街を歩けば女性が振り向くほどの色男なのだ。


「八雲さん。行きましょう!」


 東の気も知らず、ひよりは手を解いて外を指さす。

 東は諦めの境地にも似た感情で「行くか」とため息交じりに答えた。この娘は簡単じゃないんだと、普通の女性とは違うんだと言い聞かせながら。


 ひよりはというと東と街を歩けるのが嬉しかった。ひよりにとって、東は自慢の彼氏だ。制服姿はもとより、東は私服姿も完ぺきだった。普段が制服の職業の人は私服がダサいんだと、友達が言っていたからだ。

 もちろんそれだけではない。年上の何事にも動じない落ち着いた雰囲気は、ひよりの精神の安定にも繋がっていた。

 東にはまだ届いていないが、ひよりの脳内は「好き」で溢れているのだ。


「ひより、手を繋いでおこうか。君は僕の予測を簡単に突破する傾向にあるからね」

「いいんですか、手を繋いでも」

「いいに決まっているだろう。さっきだって」

「あっ、八雲さんあの人たち」

「ん?」


 なんとかひよりと手を繋いだ東は、ひよりが言うあの人たちに目を向けた。

 見れば数人の青年が待ち合わせて、どこかに遊びに行こうとしている。

 しかし、彼らはあまりにも分かりやすかった。このひよりが気づくくらいだ。それは少し不憫にも見える。


 今どきの若者にしては、少々問題がある。

 ほぼ丸坊主に近い髪型、背筋がしっかり伸びた姿勢、黒色の耐G腕時計をつけている。そして健康的に焼けた肌、歩き始めの一歩は左足で、奇妙なくらい全員の歩幅が同じであった。


「普通科の若造だ」

「普通科?」

「陸上自衛隊でいちばん人員の多い職種だよ。地上戦になったときの主力部隊だ」

「戦う人たちですね」

「だから、ほぼ坊主なんだよ。格闘に持ち込まれた時に髪を掴まれないようにだそうだ。相手に少しの弱点も与えてはならないからだ」

「八雲さんは医官さんだから、髪型は自由なんですよね?」

「自由とまではいかないな。髪型は配属される部隊で多少異なるが、共通してあるのは男子は髪が耳にかかってはならない。髪の長い女子は後ろでひとつに結ぶとかだな。たまに染めてる奴もいるから、昔よりは緩くなっているかもな」

「そうなんですね。学校の校則と違って、理にかなってるから納得です」

「納得いただけてなにより。それより、ひより。あいつらに見つからないよう離れるぞ」

「え、どうしてですか」

「せっかくのデートなのに、弾切れは避けたい」

「確かに!」


 せっかくの休日だ。羽を伸ばしているところに、上官になんて会いたくないだろう。それに、知った顔がいては大変だ。食べ盛りの若い普通科の男たちは、東の財布を食い尽くすに決まっている。


「僕はね、ひよりの可愛い顔だけを見ていたんだよ。分かるね」

「もう……恥ずかしいこと言わないでください」

「恥ずかしいとは失礼だな。恋人なんだから当たり前だろう」

「そうですけど、やっぱり恥ずかしい」


 ひよりは顔を真っ赤にして東から目を逸らした。

 東は口を開くと必ず甘い言葉を吐く。嬉しいけれど、どう答えたらよいか分からない。ただ、恥ずかしいと言ってもじもじするしかないのだ。


(可愛いなんて言われる年齢じゃないよっ。そりゃ、八雲さんから見たら十も年下だけど)


 ひよりは、そろそろ本気で大人の女性になりたいと思っている。三十路は目前に迫ってきている。それまでに、八雲の隣にいても、恥じることなく振る舞える女になりたいのだ。


(脱! ケツの青い女!)


 どうも東といると、気持ちが幼くなってしまう気がする。それがひよりの最近の悩みでもある。


(今日こそ、いい女になる。落ち着いて、はしゃがないのよ……今夜はきっと!)


 ちょっと力んでしまうのは、ひよりにとって東のようなタイプの男性は初めてだから。

 今まで付き合った数少ない男性は、同級生か同期の男性。それも学生気分が抜けていなかった数年前のことだ。


「八雲さん。映画が観たいです。いいですか」

「映画か……しばらく観ていないな。いいよ。行こうか」

「よかった」


 今度はひよりから手を伸ばした。そして、東の左腕に自分の腕を絡ませる。東はどんな顔をしているのか、ひよりは確かめようとチラリと見上げた。

 東はにっこり、紳士的な笑顔をひよりに返した。その笑顔の爽やかなこと。


(やだ、その笑顔……素敵すぎる)


 この、逞しい腕は今日だけはひより個人のもの。そう思うと、胸がドキドキしてキュッと苦しくなる。


「楽しみだよ、映画」

「はい。私もです」


 やっと恋人らしいシルエットになりましたとさ。

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