第15話 大人の知恵熱ということで
恋人になった途端にダウンしたひよりは、翌朝になっても熱は下がらなかった。
幸い東は年休を取っていたため、終日ひよりの看病にあたるつもりでいた。
そして、ここで例のメイク落としシートのお世話にもなる。
「会社には電話したのか?」
「今、したところです。せっかくのお休みなのに、ごめんなさい」
「ならよかった。はい、これでさっぱりするといい」
「ありがとうございます。あっ、メイク落としシート……」
(持ってるんだ! しかもこれ、いいやつだし)
「充実した休日になりそうで、僕としては有難いんだが……。さて、一晩じゃ熱が下がらなかったね」
「でも、ちゃんと眠れたんですよ。寝苦しいとかはなくて。風邪じゃないんですかね」
感冒で発熱をした時は、体が怠く息苦しくて辛かった記憶がある。それがなかったのは、東が夜中に様子を見にきて、冷却枕を交換してくれたお陰かもしれない。だとしても、熱が下がっていなければ、目覚めた時に感じる不快感は残るはずだ。
「喉、見せて。あーって、声を出してごらん」
「あーっ」
「うーん。赤くもない、腫れてもいない。やはり、ストレスか」
「ストレス?」
ひよりにとって無縁なのではないかと思われる言葉だった。確かに仕事は楽とは言えない。けれど、嫌だとか辞めたいとか思ったことはない。人間関係もうまくいっていると思っている。
「ストレス性高体温症というんだけどね。普段の生活や仕事で蓄積した疲労や、いつも以上に緊張したり、環境の変化などで引き起こすことがある」
「それって、知恵熱ですか」
「知恵熱と言う人もいるけれど、医学的にはそのような病気はない。大人であればなおさらにね。ひより、申し訳なかった」
「え? どうして東さんが謝るんですか。おかしいですよ」
「東さん、か……」
「あ、八雲さん。すみません、まだ慣れなくて」
東はひよりに自衛隊というものを知って欲しかった。だから日をおかずに仲間もいる食事に誘い、駐屯地の行事に招待した。しかし、自衛隊に免疫のないひよりにとっては、知ることそのものがストレスだったのだ。
「いや、仕方がないさ。ゆっくり慣れてくれたらいい。僕はひよりに自衛隊というものを押し付け過ぎたようだ。出会ってから今日までを急ぎ過ぎたのかもしれない。すまない」
東は本当に申し訳なさそうに、ベッドに横になるひよりに頭を下げた。そんな東の行動に、ひよりは驚いて起き上がる。
「私は最初、東さんをヤクザだと勘違いしました。そんなヤクザさんに二日酔いを看病されて、大変なことになったと思ったし、ランチに誘われて困惑もしました。そういうのがストレスと言われたらそうだと思います。でもそれは、自分の勘違いのせいです」
「勘違いさせていることに気づかなかったのは、僕の責任だ」
「そんなのに責任なんてないです。八雲さんはいつも紳士で誠実でした。ヤクザなのに、好きになったらどうしようって。私は自分に、八雲さんのことを好きになったらダメだって、言い聞かせてたんです。だって、ヤクザだと思っていたから。でも、好きになりそうな自分がいて……それが、ストレスだったのかな」
「ひよりは優しすぎる」
「昨日の駐屯地の行事も、とても刺激的でした。知らなかったことが恥ずかしかったし、知ることができて心から良かったと思いました。そうですね、やっぱり八雲さんが言うように、ストレスからきた熱かもしれないです」
東まはなんとも言えない表情のまま、俯いた。大きな男が、すっかり小さくなってしまった。ひよりはそんな東が、ちょっぴり哀れに見えた。
(だから、八雲さんが落ち込むことじゃないんだってば……なんだか、その姿、可哀想になっちゃう)
ひよりはベッドから起き上がり、床にぺたんと座った。東と同じ高さになると、大きな東の手を両手で持ち上げた。
「ひより?」
「私、そのストレスの中で、八雲さんの顔を見たら安心したんです。それはヤクザだって勘違いしていた時からです。それから、この手はたくさんの人の命を救う手でしょ? なのに、あんなに美味しいお料理も作っちゃうんです。大きくて暖かくて繊細で、私にはないものばかり。昨夜なんて、すごくドキドキしちゃったし」
ひよりは東の手を撫でていた。なんでもできるこの手は、自分だけのものではない。
ひよりは思った。世間からかけ離れた世界で、国民のために働く彼らのほうが、ストレスは大きいのではないかと。
「私のストレスなんて小さなものです。それに、八雲さんと恋人になったから、そのうち解消されると思うんです。あ、やっぱりこれって知恵熱ですよね。私に限っては、大人の知恵熱だったんですね。あははは」
ひよりの優しさに、戦える医官は白旗を上げるしかない。その優しさに、応えられる男にならなければと思ったことだろう。
「ひより、抱きしめても?」
「はい」
東はひよりに断りを入れて抱き寄せた。冷たいフローリングにひよりの体が触れないように、自分の膝の上に乗せた。
東の大きな体に包み込まれたひよりは、目を閉じてその胸に頭を預ける。
(本当に、落ち着く。八雲さんの側にいると、安心するの……)
東はまだ体温の高いひよりの背中を、優しく撫でた。
「ひより、何か食べるか? ……ひより?」
すーっ、すーっと寝息が聞こえる。ひよりは東の腕の中で、穏やかな顔をして眠っていた。
◇
ひよりが目を覚ましたのは、お昼が近くなった頃だ。寝返りをうった拍子に目が覚めたのだ。
(はっ、メイク! 落ちてる……! あのまま寝ちゃったから、八雲さんが落としてくれたんだ。なんてことをさせてるのよー。私のばかー)
悶えながら、今度は反対側に寝返りをうった。するとひよりの視線の先に、東の背中が見える。
東は胡座をかいて下を向いたまま、何かの作業をしているようだ。東の腕が右へ左へと忙しい。
ひよりは邪魔になってはいけないと、音を立てないようにベッドから降りた。そして、静かに東の背後に迫る。
そこで目に入ったもの、それは。
「アイロンっ」
「うおっ!」
唐突に声をかけられた東は、驚いてアイロンを持った腕をビクッと揺らした。しかし、ひよりはお構い無しに質問責めに入る。
「クリーニングに出さずに、自分でアイロンかけるんですか!」
「そうだよ」
「えっ、あの迷彩の服もアイロン必要なんですか⁉︎ というか、パリッパリ!」
ワイシャツだけでなく、戦闘服にまでアイロンをかけることにひよりは驚いた。ズボンにいたってはプレスして縦の線がくっきりと入っている。
「すごい。これ、プロの技ですよ。ねぇ、ここにも線を入れなきゃダメなんですか?」
「もちろんだよ。着た時にとがってないとお叱りを受ける」
服の袖に、ズボンと同じようにしっかりと折りが入っているのだ。ひよりはその折りを指でつつく。
「本当だ! とんがってる!」
自衛官は身なりのことを最も煩く言われる。アイロンのかけ方、靴の磨き方、袖の折り方、帽子のかぶり方、敬礼の仕方。全部が統一されている。
「私、こんなにきちんとアイロンかれられない。もしかして、お裁縫もできるんですか!」
ひよりは興奮気味に東に詰め寄った。心の中で、まさかそれはないだろうと思いながら。
「裁縫は基礎程度だな。入隊して一番はじめにするのが、自分の名前を制服や作業服に縫い付けることだ。針と糸なんて触ったこともない野郎たちが、ミリ単位で指定された位置に名前を縫うんだよ」
「縫い付けるんですか、名前を?」
「うん。硬い生地に絶対に取れないように縫う。名札をピンで止めると、訓練中に取れたり、ピンが刺さったりして危ないからだな」
「ああ、なるほど!」
ひよりは自分の知らない世界の話に目を輝かせていた。東がいうには、自衛官はなんでも自分でできなければならないらしい。アイロンがけや裁縫だけではない。掃除洗濯、整理整頓は基本中の基本だ。自衛官は守ったり、助けることが仕事。戦地で他に頼ることは、絶対に許されないのだ。
「僕は営外者だからあれだけど、独身の営内者はもっとすごいぞ。ベッドメイキング、毛布の畳み方はどの部屋を覗いても同じ方向、同じ角度、同じ厚さに統一されている」
営内の隊舎で暮らすのは独身の隊員で、一部屋におよそ三〜五人が暮らす。狭い部屋で寝起きするため、整理整頓は必須なのだ。また、いつなん時に出動が要請されるかわからない。それらに即対応できるように、厳しい規則のもとで生活をしている。
「学校の寮みたいですね。一日のスケジュールとか決まってるんですよね」
「休みの日以外は団体行動だね。六時に起床して、点呼、掃除、朝食、身辺整理して、それぞれ課業へ向かう。八時十五分の国旗掲揚を見守って、課業開始だ。消灯はだいたい十時かな。部隊で多少の違いはある」
「かぎょう……?」
「ああ、仕事と言う意味だよ。それには訓練も含まれている」
東のように幹部クラスになると、独身でも営外で暮らすことが許される。とはいえ、住居にできる地域は限られており、家族持ちの隊員のほとんどは官舎に住んでいる。最近は民間のマンションの借り上げなどもあるため、昔よりは暮らしやすいようだ。それでも、二十四時間、いつ招集されてもよいように駐屯地周辺に住む。帰省や旅行などで、駐屯地から一定の距離を離れるときは、必ず届出が必要だ。
「そっか……営内生活だと自由が少ないんですね」
「そうでもないぞ。現に休日は外で羽を伸ばしてる。若い奴らは出たくて仕方がないんだろ。体の手入れをしっかりしろと言っても聞かない。門限ギリギリまで遊んでいる」
「あ、あの雨の日ですね」
「そうそう。食えるだけ、飲めるだけ、買えるだけ……だからいつも残弾なし。街で部下にあったら大惨事だ」
「えっ、う、撃たれる……とか?」
「え? いや、違う違う。あははは、そうか、誤解はそこからか!」
ひよりが首を傾げているのを見て、東はさらに笑った。
東はこのとき、初めて理解した。ひよりは自衛官特有の用語を聞いて、ヤクザの集まりだと勘違いしたのだと。
「え? どういう事ですか?」
「ごめん、ごめん。そうだよな、分かんないよな。あのね、残弾なしってのは手持ちのお金がないってことさ。上官は部下にご馳走するのが当たり前だから、財布が空になるまでたかられるって意味だ」
「そうなんですね! いざという時のために、拳銃を持ってるのかと思いました!」
「ぐはははは」
アイロンがけをすっかり忘れて、東は笑った。ひよりの素直な反応、擦れていない心に東は脱帽だ。
「そんなに笑うと、顎、外れちゃいますよ?」
本気で心配するひよりを見て、東はさらに大笑いする。
東二等陸佐を、こんなに笑わせた女性はかつていない。近寄って来るたいていの女性は、自衛隊に興味があるか、制服好きだったり、親が自衛官だったりする。
ここまで知識が真っ新な女性は、ひよりが初めてだった。
「ひより、元気になったら次の休みはデートをしようか。駐屯地以外で、ひよりが行きたいところに行こう」
「いいんですか? 嬉しい。一緒に街を歩きたいです」
「了解した。ところでひより、体調はどうかな?」
東はすっと手を伸ばし、ひよりの額に触れた。心配していた熱はすっかり下がっているようだ。
「下がったな」
「はい。よく眠れたので、もう大丈夫です」
「熱が長引くかと思っていたが、本当によかった」
東はひよりを引き寄せて、触れるだけのキスをした。ひよりは恥ずかしさのあまりに手で顔を隠してしまう。東はそんなひよりが可愛くて、その手の甲にもキスをした。
「八雲さんってば」
「うん?」
「もーうっ……」
――グルル……
「やだ! お腹、鳴っちゃった」
「くそっ。ひより、可愛いすぎるだろー」
お腹が盛大に鳴ったせいで、色気がどこかに飛んでいってしまった。けれど、東はそんなことは気にしない。
「よし、昼飯だ!」
自分が作った料理を、美味しそうに食べるひよりの顔に、今のところは満足している。
大人の時間はもう少し先だろう。
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