第14話 デザートをいただく覚悟

 ひよりが東の自宅に来たのはこれで三回目。

 男性の一人暮らしとは信じがたいくらい、掃除が行き届いている。玄関に靴が出たままなんて当たり前の光景なのに、この家は一足も出ていない。


(私の部屋より、綺麗なのよ……)


「お邪魔します」


 ひよりは脱いだ靴を素早く揃えた。


「ひよりさんは、好きにしていいからね。自由に寛いでよ。すぐに準備するから」

「あの、手伝います」

「今夜は僕のおもてなしなんだから、気にしないで」

「では、お言葉に甘えさせていただきます」


 ひよりはソファーに腰を下ろした。


 東はかしこまった状態のひよりを見て、小さくため息をついた。そろそろ遠慮という垣根を取っ払いたいと思っていたからだ。


「ひよりさん、もしかして緊張してる?」

「えっ、そんなことは」


 そんなことは大ありだった。

 つい今しがた恋人という関係になったのだ。そういう関係になって、初めて東の自宅を訪れた。

 こう見えてもひよりは男性との交際は初めてではない。東は結婚を前提での付き合いたいと言ってくれた。ということは、だ。


「そう? それならいいんだけど」


(私、今日どんな下着つけてたっけ……一応、夕方にシャワーを浴びてるけど。大丈夫、よね)


 大人のお付き合い。

 夜に彼の部屋で二人きり。

 相手は肉体派の自衛官(医官)。


(久しぶりすぎて、自信がないよ)


 なんの自信がないかはさておき、ひよりとしては諸々の覚悟を決めようとしているところだった。


(まだキスもしてないけど! 東さんと……キス。うわぁー、どうしよう、どうしよう、恥ずかしい)


 意識し始めると止まらない。

 キッチンに立つ東の背中を見ているだけで、胸がドキドキ、手のひらはポカポカ、顔は火照って暑い。


「おまたせ。レモンチーズケーキとプチシュークリーム。口に合うといいんだけどね」

「えっ、これ。全部手作りですか!」

「うん。お菓子づくりは楽しいよ。シュークリームなんて、手術している気分になってしまってね」


 あははと笑う東の表情にひよりは釘付けだ。

 それに、大きく逞しい体でこんなに小さな可愛らしいお菓子を作るなんて、ギャップどころの話ではない。


「私なんて食べるだけで……」

「ひよりさんは食べるだけでいいんだよ。僕が望んでいるいることなんだから。さあ、食べよう」

「いただきます」


 飲み物は安達陸曹長が置いていったらしい、国産の紅茶だ。輸入された紅茶に比べると、渋みや苦みが少なく優しい味わいなのだとか。


「おいしーい! シュークリームもチーズケーキも、しつこくない甘さで、ずっと食べていられます。それにこの紅茶、味が優しいですね」

「へぇ、分かるんだね。これ、安達さんのおすすめの紅茶なんだけど、鹿児島県産の茶葉を使った国産品なんだ。後味もさっぱりしていて、とても美味しいよ」

「国産の紅茶があるんですね」

「最近増えたみたいだね。お茶の産地では紅茶も烏龍茶も作っていたりするらしいよ」

「そうなんですね。ふふ、美味しい。あっという間に食べちゃう」

「本当にひよりは美味しそうに食べるね」

「だって、美味しいから……ぇっ」


 ひよりは気付いてしまった。東はひよりさんから、ひよりに呼び方を変えていたのだ。


「ひよりは、僕の名前を覚えているかな?」

「東、さん」

「うん。東は名字だね。じゃあ、名前は?」

八雲やくもさん」


 忘れてなんかない。東の名前はとても印象深かった。ザ、和名でいにしえを思わせる名前だからだ。


「うん。これからは名前で呼んでくれると嬉しいな。いずれひよりも、東になるんだから」

「っ……」


 ひよりの喉からはひゅっと、情けない音が漏れた。やっと恋人になったばかりなのに、東はもう結婚を視野に入れている。

 ひよりがあれこれ考えていると、体が少し傾いた。東がひよりの隣に座ったからだ。ぎこちなく東の方を振り向くと、東は優しく笑った。


「お腹は満足したかな?」

「はい、とても」

「それは良かった。ああ、ここ付いてる」


 ひよりの唇の端っこに、カスタードクリームが付いている。それを東は親指の腹でそっと拭った。


「あっ……ぁぁ」


 東は拭ったその指をペロリと舐めてしまった。


「うん。美味い」


 ひよりは思わず目を瞑る。東の色気ある仕草の破壊力に、ひよりは耐えられなくなっていた。


(色気ぇ……ダメ。私、のぼせちゃう)


 こんなことを言ったら馬鹿にされるかもしれないが、東の仕草にあてられたひよりは鼻血がでそうだと思っていた。

 そんなひよりの気持ちなど知らない東は、色気という圧をかけていく。


「そんな可愛い反応をされると、我慢がきかなくなりそうだ」

「我慢って」

「僕も美味しそうなデザートを、食べたくなるなと思ってね」


 そういえば東は、デザートを食べていない。ひよりが美味しいと食べる姿を、嬉しそうに見ていただけだ。


「私だけ食べちゃったから。あの、持ってきますね。我慢なんてしないで、東さんも食べてください」


 立ち上がろうとしたところで、東はひよりの手を取り行く手を阻んだ。


「ひより」

「はい」


 ひよりはそのまま引き寄せられて、またソファーに座ってしまう。


「じゃあ、遠慮なくいただくよ」

「は、はい?……ん、んっ‼︎」


(油断した!)


 ひよりはソファーの背もたれに体を預けたまま、そう心の中で叫んだ。

 東は、カスタードクリームの甘い余韻が残るひよりの唇を、ためらうことなく奪ったからだ。


「ふ……ぅ」


 唇が重なった時間はほんの僅かだった。東の唇はひよりの唇を撫で、かすかに顔の角度を変えたかと思うと開いた隙間を狙って、熱い塊をひよりの口内に進入させた。


「ん、ふっ」


 ひよりは、反射的に東のシャツの胸元を掴んだ。思わぬ展開の早さにひよりは驚いていた。

 男の人とキスをすることは初めてではないのに、初めてなのかと錯覚するほど、弱々しい受け身っぷりに、ひよりは焦った。


(待って待って待って。まだ、心構えができてな――)


「ひより」


 キスが終わったら、今度は耳元で名前を甘く囁かれる。囁かれたと思ったら、耳たぶを甘噛みされた。


「やっ、ん、あんっ」


 全身がぞくぞくとして、微力な電気がジンジンと首から広がっていった。このままでは変になってしまう。ひよりはとにかく東を遠ざけたかった。

 胸を押し返そうと手を出すと、待っていましたと東に手を重ねられてしまう。一ミリもそれらしい抵抗を許してもらえない。


(ぜんぜん敵わないよ……)


 ひよりが動くと東のよいように態勢を持ち込まれる。気づけばソファーの上に押し倒され、ガッチガチにホールドされていた。


「ごめんね、ひより。あまりにも美味しすぎて、物足りなくなった」

「ま、まさか。デザートは僕だよ召し上がれ! なんて、言わないですよね」

「……え?」


 ここに来る前、タクシーの中で勝手にひよりが妄想していたことだ。これからという時に、そんな言葉を投げかけられた東は、また思考回路が混線した。


「私にはとてもじゃないですけど、こんな大きなデザートは食べ切れませんっ」


 とってもいい雰囲氣。

 色気たっぷりの東の攻撃。

「さあ、これから美味しくいただくよ」東はそう告げてから、身包み剥ぐつもりでいた。


 予定が狂った東は、目をパチクリさせて、しばらく時を止めていた。



 ◇



 あのあと、東はひよりを抱き起こし、乱れた髪や服を整えた。ひよりは今、東の膝の上に横抱きにされている。東はというと、目下のところひよりを観察中だ。


「あのっ、八雲さん」

「うん?」

「この体勢はちょっと。下ろしてください」

「ちょっとじっとしてくれないか。ひよりを観察しているところだから」

「でもっ」

「こんなに僕を振り回すのはひよりが初めて。僕はひよりの頭の中が見たいけど、残念ながら脳外科は専門外だ。この素直でいい子は、どうやったらそんな斜め上路線を選ぶんだろうね」

「斜め上……?」


 東は目尻を下げたまま、うんと頷いた。


「そこが、たまらなく可愛いし、目が離せない。僕以外の人間にもそうであるなら大変だな。これは早急に手を打たなければならない。さあて、どうしたものか」

「あっ、八雲さん。私、大事な徽章を持ったままだったんです。お返ししないと!」

「おっと待った」

「ひゃっ」


 ひよりは何か理由をつけて東から離れようとした。嫌で離れたいのではない。東の手の中にいると、自分が自分ではなくなってしまいそうで少し怖かったのだ。


「今は徽章よりひよりのことだ。取り敢えず今夜は泊まって行きなさい。このまま帰すわけにはいかない」

「どうしてですか。明日は仕事もありますしっ」


 東はひよりの背中を撫でたり、首を触ったりしていてひよりの言葉に耳を貸してくれない。それどころか足首を触ったり手首を掴む。


「仕事に関しては明朝、考えればいい。まったく、どうして黙っていたんだ?」

「え? 何がですか」


 東はそのままひよりを抱き上げて、寝室に向かった。「待って、待って」と騒ぐひよりを東は無視したままだ。


「あのっ、まだ早くないですか。シャワーも浴びたいし。心の準備とか、八雲さんっ」

「ひより、大人しくするんだ。熱があるじゃないか」

「熱? え! 熱っ」


 原因は不明。

 ひよりまさかの発熱。


 ひよりは別の意味で、東から着ているものを剥がされる。代わりに東の大きなティーシャツを着せられた。


「熱中症か? しかし、安達さんと冷房の入った部屋にいたはずだ。水分が足りなかったのか。それとももともと体調がすぐれなかったのか……食欲はあったよね」


 東は手際よくひよりの脇に体温計を挟んだ。しばらくして電子音が鳴って、取り出す。


「あの、熱ありましたか?」

「うーん……七度八分。ギリギリ微熱といったところだ。これから上がるかもしれない。喉は痛くない?」

「ぜんぜん、痛くないです」

「そう。目、見せて」


 そのあと東はリンパはどうだ、脈をみせろ。しばらくはああじゃない、こうじゃないと一人診察に没頭する。


(あ、でもちょっと寒いかも……)


 ひよりはぶるっと、身震いをした。


「もう一回、体温を測ります。きっと、上がってるんじゃないか」

「え……」


 案の定、体温は先ほどよりあがり三十八度三分と表示された。ひよりは、本格的な風邪をひいてしまったのか。

 しかし、東は体温計をみたあとも「うーん……」と考えている。


「あの、うつしたらいけないので、帰ります」

「ダメだね。私は医者だよ。帰すわけないだろう。大方の見当はついているけど、確定ではないから様子を見る。分かったね」

「は、はい」


 ひよりは冷却枕を頭に敷いてもらい目を閉じた。確かにさっきより体が熱い。自分でも気づかなかった体調の変化を、東は気づいてくれた。一人帰宅後に発熱したら、きっと自分では何もできない。


「ありがとう、ございます」

「気にしなくていい。僕がついているから、安心しておやすみ」


 デザートひよりを食べ損ねた東は、すっかり医師の顔になっていた。

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