第12話 掴まれたのは胃袋だけじゃなかった

 休憩室の片隅に、平謝りするひよりと、腹を抱えて笑う東。そして、どう反応したら良いか困り果てる若い隊員が立っていた。

 ひよりから変質者だと指をさされた隊員は、もちろん変質者ではない。


「本当に申し訳ありませんでした。私、皆さんの事情を知らなくて、勝手にそういう人たちだと思い込んでしまいました」

「いやいや、謝らないでください。一般公開の日に買った自分たちが悪いんです。誤解されても仕方のないことなので」

「ほんとだよな。別に明日でもよかったんだもんな。いつもより多めに残ってたからつい」

「いえ、お二人は何も悪くないです。私の方が、お邪魔している立場なんですから」


 若い隊員がなぜメイク落としシートを買ったのか。それは、戦闘訓練などの時に体に草を巻き付けたり、顔には迷彩柄のドーランを塗って、野山に潜んだりする。そのドーランを落とすために、メイク落としシートが必要だったというわけだ。


「山籠りすると水が使えないんで、メイク落としシートはほんと便利なんですよね。あはは」


 では、ストッキングはどうしてだろう。

 本来は彼らが言っていたように使い捨てで構わない。しかし、男性はストッキングを穿かないので買わざる得ない。実はそのストッキングで、隊員が毎日履いている黒いブーツを磨いていたのだ。


「毎日訓練が終わった後、このブーツを磨くために使ってたんですよ。いろいろ試したんですが、ストッキングの生地が最高なんです。光るまで磨いておかないと、めちゃくちゃ叱られるので」


 隊員たちは「顔が映るくらい磨け!」そう言われ続けていた。磨きが甘いと服装検査でこっ酷く叱られ、怒鳴られる。

 自衛官たるもの身なりは完璧でなければならないのだ。


「じゃあ……東さんも? メイク落としにストッキング、使うんですか」


 腹を抱えて笑っていた東は目尻を押さえながら、ひよりの方を向いた。そして、「うん」と頷いた。


「陸上自衛隊の自衛官なら、ほとんどの人間が使った事があると思うよ。自衛隊専用があればいいんだけどね、そこまでの予算はない。たどり着いた先がこれだった。笑っちゃうよな。けど、やっぱり民間のものは素晴らしい」

「なんだか色々と大変なんですね。そっかぁ、メイク落としとストッキング……私、女装しか思いつきませんでした」


 ひよりのやっちゃったという顔を見て、東は思わず口元を歪めた。


「まあ、実際にそういった趣味のやつもいるしな」

「え、ええ!」

「自衛官だって人間だ。いろんな奴がいる。それに、趣味の世界までは口出しできないからね」

「趣味で女装! お二人はされるんですか!」

「いやいやいやいや……」


 突然話を振られた隊員は、手を横にフリフリしながら否定した。


「ですよね、あはは。失礼しました」


 ひよりの反応を見る限り、「先日の宴会でやりました!」とは絶対に言えない。趣味ではなくノリでやった宴会芸でも、やっぱり彼らは、かっこいい自衛官だと思われたいのだ。


「すまない。時間を取らせたな。午後も頑張ってくれ」

「はい! では、我々はこれで」


 若い隊員二人は機敏な動きで美しい礼をして、ひよりたちのもとから去っていった。



 ◇



 バス乗り場にやって来ると、何台かのバスが発車待ちをしていた。


「東さん。今日はありがとうございました。安達さんにもよろしくお伝えください」

「確かに伝えておく」


 ひよりは東に感謝を述べながら、頭を下げた。

 ひよりは若い隊員たちから刺激を受けたのか、礼儀正しく振る舞った。

 ゆっくりと頭をあげた時にふと思い出す。東の左胸に付いている徽章の事を。


「あ、ほんとだ。安達さんのと同じですね」

「ん? ああ、これのこと?」


 ビリと、マジックテープが離れる音がしたかと思うと、その徽章はひよりの手のひらにあった。


「えっ、と、取れた……」

「戦闘服につける時は縫い付けるか、こんな風にマジックテープで付けるんだ。ピンだと外れたり、刺さったりして危ないからね。制服につけるときは金属製の徽章でピンでつけているよ」

「なるほど。これ、もらうのめちゃくちゃ大変なんですよね。私には想像つきません。本当にお疲れ様でした」

「ひよりさんは、今のままでいて欲しいな。私の大変さよりも、あなたの感性を大事にしてほしい」

「私の感性なんて、ごく一般的ですよ。むしろ、知らなすぎると思います。もっと、お勉強してっ」

「ひよりさん」

「はい」

「ごく一般公的なあなたを守るのが、私の使命です。そうだな、それでも知りたいというのなら、私が教えてあげますよ。自衛隊ってやつをね」

「是非、お願いします」

「当然ながら、その組織にいる私のことも知ってもらうことになるけど、いいの?」

「私、東さんの事もっと知りたいです。自衛隊のお医者さんの事とか、この徽章の事とか。いっぱい知りたいです」


 ひよりは手のひらの徽章を見つめた。

 自分にはこんな風に形に残るような資格がない。怠けていたわけではないけれど、何かの目標に向かって身も心もそれに捧げた事がない。

 安達が言っていたように、東もまた戦うことのできる自衛官なのだ。人の命を救うために、誰よりも強くなければならない。ひよりは、そんなふうに誰かのために、自分を追い込んだことなんてない。

 だから知りたかった。医官である東の全てを。


「じゃあ、続きは夜に。これ以上話していたら、職務規定に反してしまう」

「すみません! お仕事の途中なのに」

「このまま、職務放棄したい気分だ。ひよりさんを連れて、ここから飛び出したいね」

「それは!」

「大丈夫。そんなことはしないよ。その代わり、ここを出た後は、他の男を見ないでくれるかな。私のことだけを考えていてほしい。今夜、楽しみにしているからね」

「えっ……あ、はいっ」


 ひよりは目の前のバスに飛び乗った。東はそのバスが発車するまでひよりを見ていた。ひよりはそんな東の顔を、窓の向こうに感じていても顔を上げて見ることができなかった。

 胸が、ドキドキして止まないから。


(どうしよう。私の心臓、壊れてしまうっ)




 ◇



 バスを降りて電車に乗った。それから徒歩で家路につく。その間もひよりは東の事で頭の中がいっぱいだった。

 背が高くて、端正な顔立ちの料理が得意な医官さん。しかも、自衛隊という組織に属した戦う男。彼が着るのは白衣ではなく、迷彩戦闘服だ。医療器具の傍には、敵から身を守るための武器がある。

 なのにとても優しい表情で、いつも自分に接してくれる。いや、自分だけでない。思えば出会った時から、東は誰にでも優しかった。


 気がつくとひよりは、住まいであるマンションに帰ってきていた。頭の中は東で溢れていても、体は習慣を覚えている。ひよりは鍵を開け、部屋に入るとソファーに座った。


「はぁ……」


 口から漏れるのは熱い吐息。朝家を出る時に閉めたままのカーテンを、ぼんやり眺めてはまたため息をつく。


「はぁ……」


 東はひよりより随分と年上だ。確かに年上の男を思わせるように、どんな時も落ち着いていた。ただ、ひよりの勘違いには盛大に笑った。

 お腹を押さえて笑う姿までも、なぜかかっこいいと思えた。東を通して自衛隊という組織に触れると、どう考えても彼らは強くて優しいヒーローにしか見えなかった。

 あんなに怖いと思っていた安達でさえ、ひよりは心を許したのだ。


(なんで、私、ヤクザだなんて思ったんだろう……)


 ただ、これだけは言える。


「東さんに女装癖があっても、別にいいよね。いろんな人がいるんだもん。でも、東さんが女装したら私は困るな。きっと私より美人になってしまう」


 いや、恐らく東に女装癖はない。

 それでもいいと思えるようになったひよりは、胃袋だけでなく心までも東に掴まれてしまったのだ。

 気づけばひよりは、手のひらにある東の徽章をやんわりと握っていた。


「ああっ、徽章っ、持って帰ってきちゃった! それにディナー! どうしよう。何を着ていけばいいかな。ワンピース! 確か、会社のパーティーで着たのがあったはずっ」


 弾かれたようにひよりは立ち上がった。そして、クローゼットを全開にした。

 東に恥をかかせてはいけない。せめて今より、少しでも大人の女性になりたい。周りから見てもお似合いのカップルだと思われたい。


「……え? 私、東さんの彼女になりたいの? それって、それって!」


 ひよりは心臓を鷲掴みにするように両手で胸を押さえた。心臓がドキドキというよりも、ズキズキに近い勢いで鳴り始めた。

 東の隣に自分が立つこと。そして、東にとって特別な存在になること。それを自分以外の誰かに置き換えてみると、掻きむしりたくなるほど苦しくなった。


「ええ……どうしよう」


 ひよりは脱力して、ストンッとフローリングにヘタリ込んだ。


「私、本当に東さんのこと、好きになっちゃった……」


 恋する乙女のできあがり!

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