第7話 太平洋戦争の真実③
1945年(昭和20年)3月、米軍の侵攻は猛追を極め、遂には日本国領土である南島の沖縄本島にまで及んでしまった。もはや沖縄まで来れば、日本本土も目と鼻の先である。本土上陸を阻止すべく、日本はあの凄惨な沖縄戦線へと突入した。
沖縄戦線がこれまでの戦いと圧倒的に違った事は、撤退が簡単に許される状況でなかった事である。撤退、それすなわちは、米軍の本土上陸を簡単に許す事に繋がり、敗戦色をより強める事に繋がる。もう一つの凄惨極める違いは、戦地の直ぐそこに、我が国の同胞とも言える国民が居を構えていた事である。
想像して欲しい。諸君は危険地帯に行かなければならないとして、愛すべき大切な家族を連れて行けるだろうか?守るべき者がいる場所で、戦えるだろうか?
もっと悲しい事は、当時の大日本帝国の国民には、
何とも極端なものの考え様だろうか。武士道を批判する気など更々ないが、事、命の事に限って言わせていただければ、この世に生を受けて自らの "出生の本懐" も遂げずに命を断つと言う考え方自体が、現代を生きる我々には、到底理解し難い思想と言える。
にも関わらず、我々のご先祖は、中には不本意であっただろう方々もいたであろうが、そちらの道を選択した。せざるを得なかったとも言えるだろう。それらは数々の書籍、映像などの媒体を通して、"ひめゆり学徒隊の悲劇" などと紹介されている。戦争とは無縁であった沖縄の女学生が、沖縄戦線により、将来の夢も希望もあったであろうはずなのに、崖から投身したと言う、今では到底考えられない事実である。
さて、そんな凄惨極める沖縄戦線の裏側にも、また一つの悲劇の物語がある事を読者諸君はご存知だろうか?我が国民であれば、当然の如く認知されているだろうが、この沖縄戦線の終盤に差し掛かり、大日本帝国軍は、もはや
では何故にそのような暴挙とも思える作戦を決行するに至ったのか。それは私が既に述べた事である。ミッドウェー海戦の喪失なのだ。ミッドウェー海戦で失ったものは、何も戦闘機(ゼロ戦)だけではなかった。大日本帝国海軍の誇れるパイロットたちも、海の
枕崎基地を出立した未熟なパイロットを載せた世界最高峰の鉄の塊は、沖縄本島を牛耳ろうとする米軍空母へ向け、突進していった。もちろん米軍とて、黙って攻撃を受けるはずなど、あろうはずもない。迎撃機や空母から放たれるミサイルが、サバンナのスコールの如く降り注いだ。熟練したパイロットであれば、それらを涼しい顔で避けては、反撃のミサイルを放った事であろう。しかし未熟な彼らにそんな
申し訳ないが、あくまで想像の域を越えないが、恐らく彼らは、「我が命を東シナの海に散らす事で、自分の大切なものを守れる」と信じて疑わなかったのではないだろうか?
何とも多くの狂信的な国民を抱えた国であろうか?それは僅か百年にも満たない以前に、この国が面していた事実である事を、決して忘れて欲しくはない。
ここで余談を許して欲しい。神風特別攻撃隊以前にも、海軍に特別攻撃隊なるものがあった、余り知られてはいない事実だ。
当時の戦闘は当に陸の取り合いをする為の、海上戦であった事は先に述べさせていただいた。そんな中、目に見える大型空母は、屈強ではあったが、直ぐに認知される分、不利でもあった。そんな時に活躍したのが、まだエコー技術が乏しかった時代の潜水艦である。陸上に例えれば、地面の中を自由自在に動き回り、敵を殲滅せしめる。当時としては画期的な兵器であった。それを海軍は特別攻撃隊 "回天" として爆弾を積み込んだ潜水艦が、敵空母の船底に向けて放った。当初は威力増大であった作戦であるが、アメリカの技術革新は速く、エコー技術を進歩させ、これを封じてしまった。それ故、歴史の闇に葬られた事実となってしまったのだ。
海中から大空へ、この無謀なる作戦は、海軍から海軍飛行部隊へと、悲劇のバトンが受け継がれていった。
次回は終戦を決定付けた原子爆弾投下へ至った経緯と、二発目の長崎にまで投下させてしまった日本政府の失策を声高に述べていきたいと思う。
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