第16話 Daylight【デイライト】 その4

『人を見る眼』


 それは人の顔見る――正確には視線を交わすだけで、その人物の性格や魂の本質を探る事の出来る、ある種の恐ろしさをもった理解の力である。


 この超能力の実態が何なのかは、良く分かっていない。


 宇宙にも進出した人類が次のステージへ進化する過程で身につけた能力なのか、あるいは、もっと、他に何か原因があるのか。

 上星市にはこの特殊な能力を遺伝として代々受け継いでいた一族もいたが、それはまた特別なケースだろう。

 基本的には子孫に引き継がず、裁のように原因不明の条件下で目覚める一代限りの超能力であると、この能力の存在を知る者には認知されていた。


 だからこそ、礼美は戦慄していた。


(こんな……こんな、バカなことがあるか!)


 ごく限られた地域で目覚める裁とは違い、人を見る眼は世界中で観測されてはいるが、これを身につける確率は裁能力保持者として目覚めるよりもずっと低いと言って良い。

 ましてや、裁に目覚めたその日のうちに追加でこの超能力にも目覚める確率など、ほとんど天文学的な数字過ぎて、まともに信じるのは無理だ。


 だが、それは今、礼美の目の前にる。


「礼美さん。教えて欲しいんだ。あなたの、を」

「黙れ!」


 礼美は存の頬を打った。


(化け物か、こいつ。いったい、何者なんだ?)


 危機感である。

 もはや間違いようもないと、礼美は確信した。

 存は、『人を見る眼』を持っているのだ。

 それも、突然に使い始めた。

 裁に目覚めたばかりと言うさっきのイメージと、乃原が持っていた人間の本質を探る特殊能力にも目覚めたと言う想像が礼美の中で混ざり合い、現実味を帯びて襲い来る。


(……冗談じゃない!)


 礼美は、強い敵意を持って存の目を見返した。

 拒絶しようとしたのである。

 だが、存の視線がその敵意の線と混ざり合った瞬間、存の目には新しい涙が浮かんだ。

 そして存は感情をそのまま口に出すようにして、言うのだ。


「こんなにも傷ついているあなたを、どうして誰も助けなかったんだ。優しい誰かが手を差し伸べていれば、あなたは……!」

「黙れと言っているぞ! いい加減に……!」

「嫌だ!」


 存は叫ぶ。

 存は、自分に何が起きているのかは分からなかったが、突然に頭に入り込んで来た他人の事、それも恐るべき敵であるはずの空志度 礼美と言う人間の事を考えていた。

 考えられたのは、そればかりだった。

 知ろうとしたわけではないし、知りたいと願ったわけでもない。

 だけれど、知ってしまえば仕方が無かった。


 彼女の苦しみ。

 勝利を求めて、殺戮を求めて、他人を支配することを求めて……でも、それは表面上、そう思わなければを保てなかったと言う、悲しい理由があるからなのだ。

 裁と言う特異な能力があったために生き延びた――生き残ることしか出来なかった迷い人。

 どうすれば良いのかもわからず、逃げ場も無く、閉じたな穴の中でのたうち回っている人間の苦しみは、勝手に存の心の中で巨大に膨れ上がり、ついには爆発した。


 涙で――。言葉で――。

 それらは存の中から溢れ出た。


「本当はあなただって気づいているはずなんだ。今のあなたに、自分らしい部分なんて一つも残ってないって。どうして、そんなになるまで、ボロボロになって……!」

「それ以上、余計な事を喋れば殺す! 殺すからな!」

「違う! あなたは、さっき僕のことを殺さないと言った。殺したくないと考えているからだ。何故だかわからないけれど、僕にはわかるんだ。本当のあなたは、人を殺せるような人じゃないんだ!」

「こ、この……!」


 礼美は、歯をギリギリと食いしばった。


(ふざけるな! 今さら、私に何が出来るって言うんだ!)


 しかし……存の、真っ直ぐにぶつかることしか出来ない愚直さに、礼美は混乱状態に陥っていた。


 記憶のフラッシュバックである。

 突然に甦って来た自分の過去を振り払うことが出来なかった。

 かつては目の前の少年のように、自分も、暖かな光の中にいたと言うことを。


(自分らしさだと? クソくらえだ! 私は、勝利者なんだ。敗北者だった自分は死んだんだ! もう、二度と戻るものか!)


 ――――――――


 ――『敗北者だった自分』。


 いや、この女がこのドス黒い闇の世界に足を踏み入れる前、敗北者と呼ばれるにはあまりにも幸福過ぎた。

 女はこの存少年のように純粋で、むしろ、世界は優しさで満ちていると信じていたのだ。


 空志渡 礼美。


 上星市近隣の町で生を受け、生まれつき裁能力保持者だった彼女だったが、幸運にも、彼女の両親は彼女の恐るべき才能を世間から隠そうとはした物の、愛すべき家族として接した。

 これは非常に珍しい例ではある。

 通常なら、その異端さによって迫害を受けるか、家から追い出されて捨てられるのか、そのどちらかであったからだ。

 その下に生まれた妹と弟も彼女を慕い、まだ小さな実体しか持たなかったとは言え、異形のブレイキングハイドを認めてもなお、生涯を誓い合った親友もいて……全てが幸福だった。


 だが、その親友は礼美が高校生の時に姿を消した。

 突然の、原因不明の失踪だった。


(妙だ。あの子が、私に何も言わずにどこかへ行くはずが無い。だとしたら、これは……!)


 当然、礼美はその親友を探すために探し回った。

 その親友の家が父子家庭で、母親はとうの昔に出奔し、その父親もろくでもないことは知っていた物の、突然に失踪する原因は思い当たらない。

 例え理由があったとしても、何でも話せた仲の自分に、何も言わないはずがないのだ。

 ともすれば、これは自発的な失踪ではなく、何者かによる拉致、誘拐の類いではないかと思い始める。


 そして、探し回ったその結果、原因は、やはり人為的な失踪であることが判明した。

 灯台下暗し……犯人は意外にも、その親友の父親だったのだ。


 今でも礼美は思い出す。

 多少強引ながらも状況的な証拠を揃え、警察に行くと問い詰めた時のその男の、決定的な発言を。


「いい加減うるさいんだよ! 自分の娘をどうしようと親の勝手だろうが!」


 外面だけは良い、へらへらと笑っていた男の本性が顔を出して、礼美に凄む。

 そしてついに男はその攻撃性をむき出しにした。

 鍵をかけて、礼美を決して外に逃げないようにすると「お前も行方不明になってもらう」と言ったのだ。


「あの子を、どこにやった!」


 礼美は、怖れている自分を奮い立たせようと、親友の行方を聞く。

 だが、男は簡単に言うのだ。


「仕事だよ。遠くの町で、仕事をさせることにしたんだ。へへ、今までも、散々、ベッドの上で俺の相手をさせたけどなぁ。あいつは売れっ子になると思うぜ? 女のお前から見てもどうだ? 男好きする良い尻もしてただろ? 仕事は今夜からって言ってたなぁ。稼いだ金は、俺の元に送金されることになってるんだ」


 ベット、父親の相手、仕事。

 理解が追い付いた時、礼美の顔は真っ青だった。


 それは、親友が自分を裏切っていたと言う情報でもあったのだ。

 なぜ、親友はこの愚劣な父親の事を自分に言ってくれなかったのか。

 どうして相談してくれなかったのか。

 生涯を誓い、どんな悩みも打ち明け合える間柄だったと思っていたのは自分だけだったのか。


 いや、大切に想いあえる親友だからこそ、知られたくなかったのかもしれない。

 知らせたくなかったのかもしれない。

 だけれど、どうして話してくれなかったと言う憤りと、その親友の悩みを一切見抜けなかった自分に対する悲しみがあった。


 同時に、許せなかった。

 自分の大切な人を傷つけたこの非道な大人に対する怒りだ。

 礼美の感情は爆発し、気がつくとその顔面を全力で殴っていた。


「何で! 何でお前が、あの子の親なんだ! あんな、良い子の!」


 激昂していた礼美だったが、彼女自身、ブレイキングハイドを禁忌として扱っていたため、攻撃には使わなかった。

 触手の先に付いている発声器官の存在も、姿を消す能力があることも当時の礼美は気づいておらず、礼美自身が、自分の意志で動く異形の悪霊のような存在を恐れていたからである。

 恐れていたから今まで積極的に使ったことも無かったし、だからこそ、ブレイキングハイドの攻撃性も知らなかったと言って良い。

 だが、そのせいで礼美は返り討ちに遭ってしまった。


「クソガキが! なめんじゃねぇぞ!」


 裁を使わなければ裁能力保持者も普通の女の子なのだ。

 顔面を殴り返されて吹っ飛んだ礼美は、男の部屋にあった椅子をなぎ倒しながら転んだ。


「う……」


 頭がフラフラした。

 でも、負けるわけにはいかない。

 気絶しそうになる自分を必死に奮い、立ち上がった。

 が、ダメだった。

 顔を上げた瞬間、間を詰めていた男の全力な殴打が再び顔面に入り、倒れた。

 もう、立ち上がれなかった。


「いきなり殴りやがって、生意気なガキが! ……チッ、色気のないパンツ履きやがって」


 その声が聞こえた瞬間、自分の脚が掴まれるのが分かった。


「……! な、に」


 男の手が強引にスカートに入り、自分の下着を脱がしにかかったのを感じて、礼美は脚をバタつかせようとした。が、肝心の脚が掴まれているとなっては、抵抗はほとんど形にならない。

 本来なら下着で隠されている自分の肌に、ハァハァとした男の息がかかった瞬間、礼美は絶望した。


「や、め! やめろ! あっ!」


 強引に脚が開かされ、男の舌が自分を汚し始める感覚が伝わると、もはやほとんど動けなくなった。

 怖かったのだ。

 自然と涙が溢れ、もはやされるがままに震えることしか出来ない。

 そもそも、人を傷つけることをなんとも思わない大人相手に、何か出来ると思う方が間違いだったのだ。


 そんな礼美を指して、男は「お前敗北者だ」と言った。


「あいつと同じ仕事をしてもらうぞ。お前の人生はもう、終わりだ。手始めに俺が教えてやるぜ。屈服する女の悦びって奴をなぁ!」


 その言葉の意味、この男がこれから自分に何をしようとしているのかも、すぐに分かった。

 なす術もなく服を脱がされ、裸になった体を良いように嬲られて、男がベルトの金具を外す音が聞こえた。


 そして――


 覆い被さっていた男の獣のような息づかいと、自分の胸にしたたり落ちた男のよだれを感じた時、礼美は自分を抑える事が出来なかった。

 力とは、それを持つ者が脅かされた時、不意に暴発することがある。

 その時の礼美が爆発させたのは、自分の命と貞操が奪われることへの防衛本能と、そして、大切にしていた物を奪ったこの男への衝動的かつ原始的な感情であった。


 殺意である。


 礼美の中で生まれて初めて芽生えた明確なそれは激しく燃え、爆発し、精神力の発露である裁――ブレイキングハイドの攻撃性として体現された。

 瞬間。

 今まさに少女の中に押し入ろうと照準を定めていた男の後頭部に、ブレイキングハイドの細剣が深々と突き刺さった。

 血が弾けて飛び、流れる。

 男は、まさか、自分が逆に刺されることになるとは思ってもおらず、顔に驚愕の表情を貼り付けたまま絶命した。


 それが礼美の、最初の殺人だった。


「……」


 意識をしっかりと保ち、呼吸を落ち着かせた礼美は、その死体の前に立ち尽くす。

 そして、胃の中の物を全て吐き出してしまった。

 今受けていた仕打ちと、殺人を犯してしまったと言う怖れと、グロテスクな死体と血の匂い……緊張していた体が弛緩を始め、胃は痙攣し続ける。

 そして全てを吐ききった後、礼美が思ったのは、親友を探す手がかりが失われたと言う、失敗に対しての後悔だった。

 もう、親友がどこに売られたのかもわからない。

 だが、すでに礼美の中には燃え盛る闘志と、暗い決意だけが生まれていた。


(私が生まれつき持っていたこの能力の意味、やっとわかった気がする。あの子は、私が絶対に助けるんだ。何人傷つけようと、何人殺すことになっても、この力で絶対に助けだして見せる)


 勝手な都合で自分達の運命を好きにする連中と戦わねばと、そう思った。

 自分にはブレイキングハイドがあるのだ。

 きっと、戦うことが出来る。と、そう思っていた。


 しかし、その決意は大きく躓くことになる。

 礼美が殺した親友の父親は、社会の裏で暗躍する巨大な反社会組織の一員だったのだ。

 礼美は、敵対関係になったその組織が自分が思っているよりもずっと強大かつ邪悪だったことに気づき、親友を助け出すなんて事は全くの不可能であったと思い知らされることになった。


 組織の報復である。


 多くの組織がそうであるように、その組織は顔に泥を塗られると言うことを何よりも嫌った。

 組織の名を名乗る人間が殺されたなんてふざけた事をする人間が相手となれば、決して容赦はしない。


 それはすぐに始まった。


 まず、礼美の家族は――両親、妹と弟、それからペットの犬ですら残らず殺害された。

 家も火をつけられて消失し、それらの報復が遠い親類にまで及ぶのもあっという間だった。

 もはやどうにも動きようが無い。

 子供だった礼美は家を失い、家族を失い、居場所などどこにも無くなってしまったのである。


 反撃に転じようとしても、そもそも敵がどこにいるのかが分からない。

 敵は、用意周到に正体を隠しながらも、確実に礼美を追い込み続けていた。

 いつ、どこに敵がやって来るのか。誰が敵なのか。

 礼美は疑心暗鬼に陥っていた。

 声をかけて来た見知らぬ誰かが敵である可能性もあるとなれば、当然である。


 そして家族が死んでから一週間が過ぎようとしていたある日。

 礼美は、組織が放った裁能力保持者に襲われ、敗北し、意識を奪われると車に押し込められ、移送された。

 拉致である。

 窓のない、暗い部屋にいることを知ったのは、気を失っていた礼美の頭に冷水がかけられて、強引に目を覚ましてからだった。


 部屋には大勢の大人の男たちがいて、取り囲まれていた。

 抵抗しようとした礼美だったが、何も出来なかった。

 ロープと手錠で身動きを封じられ、ブレイキングハイドも発現させるたびに破壊され、そして――


 ……その後のことは、ほとんど記憶として残っていない。

 耐えている内に時間の感覚も失い、何日間、大人たちのオモチャにされたのかも、途中から何もわからなくなっていた。

 必死にあの親友の父親から守り通した貞操も、始まってからものの数分で容易く奪われ、人間であること、女であること、生きていること、その全ての尊厳を汚され続けた。


 痛みと、恥辱。

 部屋に、代わる代わる何人の男が部屋にやって来たのかもわからない。

 中には女もいて、笑いながら礼美を、普通に暮らしていれば考えもつかないような方法でいたぶった。

 最後に思い出せるのは、床を汚している血と、剥がされた爪、ドロリと落ちた生臭いあぶくと、折れて床に転がっていた自分の歯。

 無理やり口に入れられた自分の大便の、おぞましい臭い。

 腕に残る注射針の刺し傷。

 そして、車のトランクに入れられてどこかに捨てられるために運ばれていた時に見た、キャンプ用のテントを固定するための金具だった。


 山に埋められるのか、海に沈められるのか。

 どちらにせよ薬で眠らされ、朦朧としていた礼美にとっての状況は絶望的だった。

 怪我もひどく、動くことも難しい。


 しかし、最後には幸運が舞い込んだ。

 もはや裁を発現することも出来ないだろうと、裁能力保持者が礼美の始末に立ち会わなかったのだ。

 ギリギリになって目を覚まし、偶発的にブレイキングハイドの真の能力を知った礼美は、必死になって逃げた。


 触手の発声管でかく乱し、口の中に隠れ、姿を消す。

 それから、逃げて、逃げて、逃げて……


 もう、8年も前のことになる。


 生きるためにゴミもあさり、足が赤くなってもまだ歩き、常に追手の影におびえて過ごす。

 監禁されていた時に使われたらしい違法な薬物の後遺症か、錯乱状態になることもしばしばあった。

 そんな礼美がブレイキングハイドの有用性に気づいた今の組織に拾われたのは幸運だったのだろうか、不運だったのだろうか。


「救ってやるが、恩を返せ。我々のために使ってもらうぞ、お前のブレイキングハイドも、お前の命も」


 礼美は顔を変え、名前を変え、体つきも、何もかも全てを変えた。

 殺し屋として、組織のトラブル解決人として働き始めたのだ。


 もう、決して陽の当たる場所など歩けない。

 そして、自分らしいものなど何一つとして残っていないのだ。


(これも全部、私が、弱かったからだ。負けた奴は、何をされても仕方がないんだ。なら、勝てばいい。姿を消せるブレイキングハイドは殺す事に慣れて、戦うことを覚えた。私は、誰にも負けない力を手に入れたんだ。弱かった私は死に、強い自分だけがここにいる。私は誰にも負けない、特別な人間なんだ)


 だが、それで本当に良いのだろうか。

 かつての自分が許す事の出来ない悪だと感じた男は、親友を売り飛ばした。

 今、自分がいる組織はそいつらと同じこと、あるいはもっと非道な事をしている。

 気づいた時は、もう、手を引けない状態になっていたが、本当にこれで良かったのだろうか。


 礼美は、考えるたびに苦しんだ。

 何度も、何度も。


 自分を拾ってくれた今の上司には頭も上がらず、命令されれば逆らうことは出来ない。

 始末しろと命じられれば誰でも殺すし、夜の相手をしろと呼ばれれば誰のベットにも行って、性欲処理の道具にもなった。

 金は好きに使えるだけもらえたが、まるで牢獄に囚われた囚人の自由である。

 救われた恩はあるが、逃げ出したいと思ったのは一度ではない。


『お前も敗北者だ』


 あの男の言葉が、ずっと、礼美の頭の中で回り続けている。

 その度に、礼美は否定した。

 今の自分を肯定し続けた。


 殺す事は自分に与えられた特権であるし、性行為も自分が楽しむための物だ。

 敗北者とは、勝者に奪われて、逃げ回ることしか出来ない人間のことなのだ。

 自分は違う。

 奪われてなんかいない。

 誰かから奪っているのは自分なのだ。

 強く、美しく、勝利者である限りは決して誰にも、何も奪われることはないのだ。


 それは礼美を縛り付ける、鉄の掟であった。


 敗北者の自分に戻るわけにはいかない。

 自分は勝利者でなければならない。

 欲しいと思う物は何もかもを手に入れる。

 可能である限り、他人から奪い続ける。

 命を、尊厳を。

 そうして、空志渡 礼美は生きて来たのだ。

 これからも、きっと。


――――――――――しかし。


「礼美さん!」


 今、存と言う少年は、礼美の目を真っ直ぐに覗き込み、新しい涙をこぼす。

 たまらず礼美は目を背けて、叫んだ。


「もう、私を見るのはやめろ! もう、お前が何を言おうと遅いんだよ! 無駄なんだ!」


 だが、その声を聞いてもまだ、少年の瞳は容赦なく礼美を見続ける。

 縛られて、自由の利かない体なのに、強い目をして、礼美を責め続けている。


「そんなことない! 礼美さん、優しかった頃の自分を思い出して。本当のあなたを」


 礼美はもう、精神的に追い詰められていたと言って良い。

 存の言葉を、まともに聞いてしまっていた。

 頭を抱え、叫んだ。


「今更、変えられるかよ! 戻れるものかよ! 本当の名前に戻ったって……帰る家も、待ってくれている人も私にはいないんだよ!」

「僕がいる」


 存は言った。

 新しい涙は流れ続ける。


「僕は、あなたの味方だ。味方になりたいんだ」

「……私を、御せると思っているのか! 子供ごときが!」


 礼美は、もう、存を殺すしかないと思った。

 そうしなければ自分を保てそうにない。

 確かに、自分の味方になるだけなら、自分が利用できるだけならばそれでも良いとも思っていた。

 自分を愛させて、道具として使おうと、そう思っていた。

 だが、これは違う。

 全く、望んでいた形ではない。

 この少年が自分の本当の名前――敗北者だった時の、親から与えられた本当の名前を声に出してしまう前に、なんとしても殺さなければならない。


「お前が、私の命を背負えると思うのか! 私はもう、何人も殺しているんだよ! そんな非力な、人を殺す決意さえ持たない、戦うことも出来ないお前が、私を救えるものかよ! これ以上、お前の言葉は聞きたくない! だから、私はお前を殺す!」


 殺意の性質が変わる。

 もはや、礼美は本気だった。

 存はそれを理解して、それでも言った。


「今まで、誰もあなたに手を差し伸べなかったんだ。でも、僕は、自分が殺されようとも自分の思ったことを変えたくない」

「そうかい。じゃあ、死ね。今すぐ、私が殺してやる」


 礼美が叫び、異形の裁が細剣を持ち上げる。

 今まで経過を見守っていた紗亜那が、力を振り絞り「やめてぇ!」と叫んだが、もはや存は何かを喋ろうと言う気さえ起きなかった。


(ごめん、路時さん)


 存は心の中で謝罪をした。


(僕は、無力で、戦うことが出来なかったんだ。君を助けることも、何もかもが中途半端で)


 もうすぐ、死ぬ。

 それが分かっても、存は冷静だった。

 ブレイキングハイドの細剣が降り上げられ、礼美の、泣きながら笑っているかのような酷く複雑な表情を見ながら、ひたすら流れる自分の涙を感じていた。


 だがしかし――

 今まさに存にトドメを刺そうとした礼美の後方で、ぐちゃりと、大きな音を立てるものがあった。


「何?」


 思わず攻撃の手を止めて振り返った礼美は、そのあまりにもあり得ない光景を見て、固まった。


「なんだ、と。そんな、バカな」


 頭を銃で撃ち抜かれて死んだはずの玲央が、ゆっくりと体を持ち上げ、立ち上がっていた。

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