第10話 今は亡きあなたへのレクイエム その3
「や、やめて! お願い……! やめて……!」
「もう、無駄なんだよ。観念しろ」
乃原は、玲央の征服を開始した。
抱き寄せ、足を絡ませて、身動きの取れない状態にしている。
首筋に顔を埋めて、舌でその肌を汚す。
女の肌の匂いを、唾液の色で染めていく。
肌の下を通う血の温かさを舌で感じ、乃原は軽く噛みついてやりたい衝動を必死に抑えた。
そしたら、この女がどんな色の声を上げて泣き叫ぶのか。
想像するだけで楽しかった。
右手にある膨らみの弾力も、乃原にとっては心地良さの感覚しかない。
グッと指に力を入れた瞬間、玲央が叫ぶ。
「い、痛い! いやぁぁぁぁ!」
乃原はもう、興奮しすぎてどうにかなりそうだった。
玲央の必死の抵抗は、性欲を高めるスパイスにしかならない。
脳内に現れた真っ赤な色の感覚が、思考を狂わしていく。
下半身に血が巡って来るのがわかり、乃原は笑った。
玲央の肌の匂い、髪の香り、湿った体温、柔らかな体。
それらが、自分の力から逃れようと身じろぐたびに、たまらなく貫いてやりたくて仕方が無かった。
すぐにでも目の前の女を支配したい。
だが、玲央も黙っていなかった。
全力で乃原を押し返し、叫び、乃原の肩を掴んで引きはがしにかかる。
「ちっ、おとなしくしろ!」
乃原は胸を掴んでいた手を離し、上に振りかざす。
頬を打つつもりだった。
(俺はどちらかと言うとフェミニストだし、殴るのはあまり好きじゃないが……まぁ、暴れるこの女が悪いんだぜ。こういう女は、殴れば素直になるからな)
必要に応じて殴ったとしても、最終的に悦ばせてやれば正義は自分にあると乃原は思っていた。
だから、今回もその調子で遠慮をするつもりは無かった。
腕は風を切り、玲央の顔に迫る。
が、しかし、ぶつかる寸前の、その瞬間。
乃原の手に鋭い衝撃が走って、乃原の右腕がおかしな方向へ曲がった。
「……な、に」
弾かれたかのように跳ね返った自分の手を見た乃原は、言葉を失った。
指が何本か消失していたのだ。
鋭利な切断面。
近くの地面に、細長い筒状の物が落ちている。
もちろん、乃原の指だ。
痛みは、手からしたたった血が地面に落ちてから、急激に広がり始めた。
「ぐっ、ぐああああああああ!」
そして、見た。
自分に支配される寸前だった、怯えていただけのはずの玲央が、酷く冷めた顔をして自分を見ているのを。
一瞬、体の輪郭が微妙にブレて、ほの暗く光を放ったのも。
「……だ、誰だ? お前」
豹変としか言いようが無かった。
純真無垢で、臆病で、簡単に騙せそうだった女の姿は、これっぽっちも見当たらない。
玲央は、酷く冷徹な表情で乃原を見ている。
「私が、誰かだって?」
玲央は言った。
口調も、何もかもが違ってその場に響いた。
『人が変わる』なんて言葉があるが、目の前で起きているのは、まさにそれだった。
まるで別の人間のようだと、乃原は思う。
「私が誰かは知っているだろ? 茂田奈 玲央さ。偽名だがな」
女は、ククッと笑った。
乃原は、出血が止まらない手のことも忘れてしまうほど動揺して、後ずさる。
「偽名?」
「そう。偽名だ。もっとも、本当の名前なんてものはないが……今まで通り玲央で良い。まぁ、とりあえず、お前の人を見る能力がどれほどのものか試させてもらった。が、大したことないな。私が少し心を偽れば、こんなにも簡単に騙せてしまう。お前よりも『見る才能』が優れている人間を私は知っているよ」
乃原は驚愕して玲央を見た。
血が、地面にぼたぼたと落ち続ける。
「心を偽っていたなんて、嘘だ、そ、そんなこと、出来るわけが」
「もちろん、常人には無理さ。素質と、訓練がいる。お前みたいな『人の本質を探れる奴』を相手にするのには必要だからな。そしてお前にはもう、わかっているのだろう? 私が言っていることが本当にあり得るかどうかは私を見ろ。それで十分に理解できるはずだ」
見ろと言われて、見てしまった。
人の本質を探る才能で。
「こ、これは、なんだ? お前は……!」
恐ろしい人間がそこにいた。
見た目は相変わらずの美しさだったが、中身はとんでもない。
目の前の人間は、どう見ても危険な人物だった。
冷酷無比の、冷たい金属のような心。
血の匂い――きっと死線を何度も潜り抜けて来ているのだろう。
これは、乃原が実際に見たことのある人間で例えるならば、人を殺したことのある人間のそれだった。
「ち、ちくしょう! 何なんだよ、お前は! 俺にこんなことして、ただで済むと思ってんのか! くそ、指を切るだなんて! 俺の手に何しやがったんだ!」
乃原は手当てをしたかったし、地面に落ちた指を探そうともした。
だが、すぐにそれどころじゃなくなった。
気づいたのだ。
玲央の近くに、何やら異様な気配がある。
「ひっ……!」
「何をしたか知りたいか? だが、知ったところで無駄だよ。お前には何の抵抗も出来ない。先ほどの言葉を返すようだが、お前はもう終わりだ」
それは透けていた。
透明だが、質量の気配があり、スッと立ち上がると、鋭い剣の様なものを構えている。
「お前にもわかるように、見せてやる」
気配に色が付いた。
輪郭と、その中身。
だが、これが、本当に視覚で捉えられているのかがわからない。
そこに確かに見えているけれど、何かの錯覚でそう見えているのではと疑いたくなるような、不可思議な感覚。
それは人の形をしていた。
まるで甲冑を着こんでいるかのような、長身の人間に見えた。
鎧は金属と言うよりも、甲虫の甲殻の様な材質。
顔は装甲で隠れて見えない。
玲央のすぐ近くにいるその化け物は、血に濡れた剣を手に持ち、その剣の行き先を探すかのように乃原を見ている。
「お前も聞いたことがあるだろう。
「そ、そうか、お前、清掃員って」
玲央は笑った。
「正解だよ、乃原。この町の薄汚いクズを掃除して欲しいと思う人間は山ほどいる。お前は掃除されるゴミと言うことだ」
乃原はもう、必死だった。
「金なら欲しいだけやる! 見逃してくれ!」
「金などいらん。お前が知っていることを話せ」
「な、何でも話す。何が知りたい?」
「町田 瑠香だ。お前が売った女の一人だよ。彼女のことを聞きたい」
乃原の眼は、その言葉が真実だと知った。
本気で知りたがっている。
「し、知らない。俺は、売った女の行方は知らないんだ。本当だ」
「名前に聞き覚えは?」
「だから、知らないんだ! 覚えてないんだよ! ……って言うか、なんでだよ! 何で、たかが女一人にこだわるんだ! 良いだろう別に! 女の一人や二人くらい、いなくなっても!」
依頼人は、その瑠香とか言う女の身内か何かなのか?
そうは思ったが、今まで売った女の調べは完璧だ。
社会的地位が変に高い人間の身内は避けていたし、そんな殺人を依頼できるような大金が出てくるわけがない。
玲央はスッと目を細めて、言った。
「たかが女の一人、か。お前みたいな人間にとってはそうだろうな。だが、言っただろう? 瑠香は、こんな血で汚れきった私でも普通の人間のように接してくれたんだ。私の……たった一人の友達だったんだ!」
乃原の顔のすぐ横を剣が通り過ぎた。
「特別に教えてやる。依頼人は、私だ。どの組織も関係ない。だから、これは完全に個人的な仕事と言うことになる」
「ぎっ、ひっ……い」
乃原は泣きながら笑った。
頬をつたって、首筋を濡らす血。
地面に、耳が落ちていた。
自分の耳だ。切り落とされたのだ。
こうやってじわじわとなぶり殺しにされるのだと、理解もした。
そして、今、聞かされたのが、偽りのない本当のことなのだと知って、絶望した。
人の本質を探る才能。相手は、嘘を言っていない。
だからこそ笑うしかなかった。
唯一助かる望みのある情報を、自分は知らないのだ。
金だとか、利害の一致だとか、そんなものでは説得できる気がしない。
こいつには、自分を殺す理由がある。
殺すためにここにいる。
「ま、待て。待ってくれよ。こ、殺さないでくれよ、頼むよ。本当に、知らないんだ」
涙声で出た声は、震えていた。
玲央はそれを最後まで聞いた後、静かに答える。
「……なら、教えてやる。瑠香がどうなったか」
「は?」
意味が分からずに、乃原は言葉を失った。
瑠香のことを聞きたいと言った本人が、瑠香のことを教えてくれると言う。
「知らないんだろ? だから、教えてやると言っているんだ。町田 瑠香は、お前に売られた後で死んだよ。半年前。今年に入って、すぐのことだ」
「……死んだ? う、嘘だろ? そんな」
「瑠香は、お前に売られた後、様々な街を転々としながら臓器を次々と抜き取られた。違法な移植手術だよ。片側の腎臓、左側の肺、肝臓の一部。右の眼球。他にもあるが、残りの抜き取られた臓器は想像に任せる。そうやって最低限の状態で生かされて、回復した後は売春をさせられていたようだ。そして、このままでは死ぬだけだと思い、なんとかして逃げ出そうとしたらしい。……お前に会うために。上星市に向かったんだ」
「それで、何で死んだんだ?」
「お前の仲間に捕まったんだよ。その後、用済みとして処分された。変態共を集めた『解体ショー』に出演させられたんだ。撮影されたスナッフビデオも確認した。探して全て潰したがな。音声データの一つを除いて」
スナッフビデオ――殺人の様子を撮影した映像のことである。
乃原は冗談を聞かせられているのかと思った。
だが、玲央は、ポケットからレコーダーを取り出すと、再生ボタンを押した。
『いやあああああああ! それだけはダメ! やめてぇ! 持っていかないで!』
女の悲鳴だった。
続いて、ボイスチェンジャーで変えられたかのような不気味な音声が続く。
『無事に摘出しました! これが20歳の元女子大生、町田 瑠香さんの子宮です! 綺麗で健康な子宮ですね! はは、まだ生きています! こんなに叫べてます! ……ちょっと麻酔が弱すぎたかな?』
『か、返して! 返してぇ! それだけは、ダメ……! お願いだから、返して! 返してください……! 至成さん! 至成さん――!』
『へぇ、好きな男の名前ですか? でも、残念ですねぇ! あなたが好きな男と子供を残すことはもう、出来ません! あなたが思い描いていた幸せなんて、もう、不可能ですよぉ!』
コメディの様なわざとらしい笑い声と共に、引き裂かれるような女の泣き声が響いた。
『かわいそうですねぇ! いやぁ、良い
レコーダーが地面に投げつけられた。
化け物がそれを剣で何度も切りつけ、粉々になるまで踏みつける。
レコーダーが完全に破壊されてから、玲央が言った。
「知らないようだから教えといてやる。瑠香だけではないぞ。お前が売った女は、ほぼ全員死んでいる。似たような形で」
流石の乃原も、ショックだった。
自分が外道であるという自覚があったが、自分が所属している組織が、まさかそこまでする奴らだとは思ってもみなかったのである。
「……瑠香は、お前ごときが汚していい人間じゃなかった。まるっきり善人と言う奴だったんだ。それなのに、ずっと下を向いていた。他人のために悩んで、後悔して。そんな瑠香が、嬉しそうに『こんな私の悩みを聞いてくれる人が出来た』と言っていた時、私は、こともあろうか祝福したんだ。してしまったんだ。……その時に、気づくべきだったのに」
玲央は、暗い顔をしたまま笑っていた。
その矛盾した表情は、不気味そのものだった。
殺意の空気と共に、剣を持った化け物が動き出す。
「さて、乃原。全て知れたようなので、そろそろ死んでもらうぞ。出来るだけ叫べ。それが瑠香への鎮魂歌だ」
「ま、待て!」
玲央は待たなかった。
化け物の剣が、乃原の右太ももを貫く。
「ぎゃああああああああ!」
「この場所を選んでくれたことには感謝している。ここではお前を力いっぱい叫ばせることが出来るからな」
乃原は、必死に逃げようとした。
袋小路の出口へ向かい、片方の足で走ろうとしたが、左のふくらはぎが斬りつけられてからはそれも出来なくなった。
前向きに倒れて、顔面に擦り傷を負った乃原は、もう泣いていた。
「ひぐっ、ひっ、いっ、痛え……! 嫌だ……! 死にたくねぇ……! 死にたく、ねぇ」
乃原は血を引きずりながら、前に進もうとする。
もはや立っていることも出来ない。
左ひざをつきながら、這うように進んだ。
だが、玲央が次の一撃を繰り出す前に、乃原の先、曲がり角から人影が現れた。
影は二つだった。
偶然なのか、迷い込んで来たらしい。
この区画の入り口は、その存在を知って無ければ開かれることはない。
が、一度、区画に入ったのならば――正しい道順さえ通れば袋小路にはたどり着けてしまう。
汚れてしわだらけの白い服。泣き顔の少女。
そして、顔に鼻血の跡が残る、怪我だらけの少年。
「……ひ、ひひ!」
乃原は狂ったようにして笑い――いや、事実としてもう、狂っていた。
痛みと、出血と、もはや絶対に助からないと言う絶望の中で振り返り、玲央に向かって命乞いを叫んだ。
「な、なぁ! 見逃してくれよ! お、俺はまだ、使い道があると思うしさ! い、イケメンだし、アレもでかいぜ? お前がして欲しいことはなんでもしてやる! お前も女だろ? 気持ち良い事だって、たくさん、教えてやるぞ? なんでもするし、ど、奴隷にだってなる! 金もあるよ! 大金をもらっているんだ! 何だって買ってやれる! そ、それに俺は、人の本質を見抜く才能があるんだ! 他にも同じことが出来る奴がいるって言っても、珍しいんだろ? ここにいる二人の事だって、俺にはわかる! 証拠を、見せるから」
乃原は、指が残っている方の手で少女を指さした。
少女がビクッと怯えを見せる。
「ほ、ほら、この女なんて……この女、なんて……な、なんだ、この女……心が壊れて」
乃原が指しているのは、紗亜那だった。
「お前は……この間の、誰とでも寝るガキ? 何の、冗談だ、こんなところで……! はは、何だよ、そっちのガキも心が壊れてやがる」
その少年は、紗亜那を守る様にして前に出ていた。
堀位 存だ。
だが。乃原はすぐに自分の言葉が間違いだったことに気づいた。
「壊れ……壊れてない。まだ壊れ切っていない、のか? なんだ、このガキの、心の前にいるのは。守っているのは、なんだ?」
少年の心を守る様にして立っている、透けて見える誰かがいた。
それは、乃原が見たことのある人物だった。
乃原の失われていた記憶が、急速に甦る。
『私、昔、助けられなかった男の子がいて。どうしても助けたくて、この町の大学に……』
あれは去年。2035年の春だ。
町に来たばかりの、不安に満ちた女。
付け入る隙としか見てなかった、女の言葉。
初めてを奪い、何度も悦ばせて、言葉だけの愛を囁いて――ベットで泣きながら吐かれた女の言葉が駆けていく。
『電車で、高校生になったその子を見たの。私なんかいなくてもちゃんとやれてそうだった。元気そうで良かったって安心もしたけど、私、結局、何にも出来なかったんだなって。前にも、あの子に否定されて、私……! ねぇ、私の気持ちなんて――助けたいだとか、守りたいなんてのは、私の勝手な自己満足だったのかな? 私、あの子の事で何もしないで、あなたと幸せになっても良いのかな?』
(守れなかった、だと? バカな女だな、こいつは)
今、乃原は、自分の才能を通して、彼女の果たせなかった想いが遂げられていたことを知った。
間違いなく守れていた。
壊れる寸前の少年の心を、手を大きく広げて守っていた。
自分の記憶よりも、ずっと若い姿で、町田 瑠香はそこにいた。
その守っている手が無ければ、少年の心はとっくに壊れてしまっていただろう。
とっくに歪んでしまっていただろう。
いつか自分が騙して、虜にして、売り飛ばした女が、やり遂げられなかったと言った願いは、果たされていた。
「お、思い出したよ。お前だったのか、町田、瑠香」
「……え?」
存少年が、困惑の顔で乃原を見る。
……だが。
乃原の背後で、誰もがゾッとするような冷酷な声が響いた。
「最後に思い出せたか。ならばそれも良い。そのまま、自分がした事を悔いて死ね」
玲央の裁――化け物が持った剣が、乃原の胸を刺し貫いていた。
――――――――――
鮮血が飛び散る。
水の様なピンク。
続いて、油混じりのネバネバとした赤が地面を汚し、流れていく。
玲央は、乃原が即死だったことを確信すると、次に自分の裁――化け物の持った剣を、目の前の二人に向けた。
「子供か。運が悪かったな。悪いが、目撃者は生かしてはおけない。お前たちもここで死んでもらう」
冷静にそうつぶやくと、剣を持った化け物を、呆然と震えながら見ている二人の元へ向かわせた。
人体の急所へ――距離の一番近かった、少年の心臓へ剣が伸びる。
だが……
剣は、少年に当たる寸前に弾かれた。
「……何?」
玲央は見た。
少年を庇う様にして飛びだした少女の輪郭がブレて、暗い光を放つのを。
そして玲央は、自分とは違う形をした化け物の出現を見る。
(こいつ、裁能力保持者か)
裁能力保持者。
上星市及び、その近隣の町の新生児が僅かな確率で身に着けている超能力――個別の形と能力を持つ、超自然現象的な力の発現を可能とする特別な人間。
血が流れる袋小路の入り口で、少女が
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