第5話 破滅の予兆 その2

 紗亜那が海に行きたいと言ったのは、7月の中頃の事だった。


 2036年。夏休み開始直後の7月19日。


 上星市の外。電車で二時間の海。

 どんよりと曇っていたが蒸し暑く、歩いているだけで汗が流れた。

 そして海に行く途中、水族館が近くにあることがわかって二人は立ち寄ることにしたのだが、それは大成功だったらしい。


 水槽の中で泳ぐ魚を見て、紗亜那が「堀位君、あれ」と笑った。

 それは相変わらずのささやかな笑みだったが、心なしかはしゃいでいるように見える紗亜那に、存も嬉しくなったものだった。


「キレイ……」


 水面から降り注ぐ光と水槽を彩る青いライトが混ざり合い、魚は自由気ままに泳いでいる。

 水の揺らめきが光となって少女の顔の上で踊る。


(綺麗なのは、路地さんだ)


 この世の美しさをすべて集めても、目の前の少女の美しさにはかなわないと存は思った。


「綺麗だね、路時さん」

「……うん」


 声に出てたと存は焦ったが、紗亜那は水槽の方だと勘違いしてくれたらしい。


 存は少し迷った後、その手にそっと触れた。

 一瞬、紗亜那の指が存の手を探してさ迷い、探し当てるとその手を優しく握る。

 存は、素直にそれを愛おしいと思った。


「私、こうしていると色んなことを忘れられそう。水族館って初めて来たけど、とても好きな場所かもしれない」

「良かった。寄って正解だったね」


 二人は笑う。


「路時さん、海、見に行こう」

「うん」


 水族館を出た二人は、近くにあった浜辺へ向かった。

 いつのまにか霧雨が降っていて、夏の熱はやわらいでいる。

 途中で見かけた海の家で一緒に焼きそばを食べて、湿った砂の上を歩いた。


「海……すごい」


 広い海に、紗亜那は圧倒されていた。

 紗亜那は履いていたサンダルを脱いで、海の中に足を入れる。


「思ってたよりも冷たくないみたい」


 いつも受け身だった少女は、今日は活発だった。

 バシャバシャと歩き、波が来て慌てたように引き返す。

 逃げるのが間に合わず、彼女が着ていた白いワンピースのスカートが少し濡れた。


「路時さん。あんまり深く入ると、危ないかもよ」

「そうね。海って、すごく大きいから。……堀位君は入らないの?」

「僕は良いよ」

「そう」


 波が引いて、紗亜那の細い足の横を流れていく。

 彼女の白いワンピースは、曇り空の下でも輝いているように見えた。

 波のしぶきが紗亜那の顔にかかって、いつもよりも少しだけ分かりやすく笑って、それが本当にキレイで。存は自分も嬉しくなって、笑った。


 水平線は遠く、線を超えた先がどこまでも広がっている。


「……堀位君。今日は私のわがままを聞いてくれてありがとう。私、今まで上星市を出ちゃいけないって言われてたの。しなくちゃいけないことがあるから。でも、今日は許してもらえて。……来れて良かった。私、海を見たのもはじめて」


 思えば、紗亜那の方から特定の場所に行きたいと言い出したのはこれが初めてだった。

 よっぽど来てみたかったのだろう。

 晴れていないのが残念に思えた。


「どこかに行きたいとずっと思ってた。私の知らないどこかに。私を知る人のいないどこかに。今も行きたいと思ってる。この海の続く、遠くに」


 ジッと暗い色をした海の向こう……水平線を見つめている紗亜那を見て、存は不安になっていた。

 引いていく波が、本当に紗亜那を連れて行ってしまいそうで。


「路時さん。君のことが知りたい」

「……私の事?」


 紗亜那が振り返り、存に聞いた。


「どうして?」

「何か、苦しんでるように思えるから。それがあれば教えて欲しい。そしたら……」

「……知って、どうするの?」


 あまりにもな返答だった。

 紗亜那は失言に気づいたらしく、目を伏せて言った。


「ごめんなさい。堀位君を傷つけるつもりはなかったの。でも、話してもどうしようもないことだと思う」

「どうしようもないって?」

「多分、誰にも、何も変えられないことだから。それに知ったら多分、堀位君は私のことを嫌いになると思う。どれだけ私が汚れた人間なのか知ったら」

「嫌いになんかならないよ」

「……でも、もしそれを知って、堀位君が離れたくなったら、それでも良いから」


 海から上がった紗亜那は、サンダルを履いて無言で歩き出す。

 耐え切れなくなった存は紗亜那の手を取った。


「約束する。絶対に、離れないから」

「……」

「僕は、君を嫌いになんかならない。何があっても。だから、何か抱えているなら知りたいんだ。力になりたい。君のことを教えて欲しい」

「……」


 沈黙が二人を包む。

 波の音だけが、二人の間で行ったり来たりしていた。

 そして、先に折れたのは存の方だった。


「……路時さんが嫌なら、無理には聞かないけど、僕は」

「ごめんなさい」


 紗亜那は、そう言ったきり、また何も言わなくなった。


 紗亜那の抱えている物は、存が思っている以上に大きな問題なのかもしれない。

 そう言う物に、存も心当たりがあった。

 母や祖母から受け継いだ自分ののことだ。


 紗亜那は、同じような何かを抱えている。

 それは存の中では、確信に近いものとなっていた。


(やっぱり、路時さんは僕と似ていたのかもしれない。僕だって、路時さんに同じことを聞かれたら、答えられるだろうか。……きっと、無理だ。僕の事を知って、それでもそばにいてくれるかなんて、考えただけでも不安だ)


 存は自分の身体の中を流れるクズの血のことを想った。

 殺人も犯したと言う祖母のこと。

 多くの人の人生を狂わせたと言う母のこと。

 罰を受けなければならない、自分のこと。


 ……それを教えるのはやっぱり怖いのだと怯えた。

 知られて、もし嫌われたら、と。


 きっと、紗亜那もそうなのだと……いや、そうであって欲しいと、存は願った。

 自分に秘密を知られることで、嫌われたくないと。そう思っていて欲しいと。


 でも、と存は思った。


(僕は路時さんにどんな秘密があったって、絶対に離れたり、嫌いになったりしない。彼女が困っているのなら、力になりたい。助けたい)


 だが、自分ごとき人間に何ができるだろうか。

 存は自分が無力だと言うことを痛感していた。

 今、16歳。高校の二年生。未成年だ。


 アルバイトで貯めていたお金は、どんどん減っていく。

 このままではいつか無くなってしまうだろう。

 紗亜那には自由に使えるお金がないらしく、支払いが全て存だったのもそれを加速させていた。

 存は自分の無力さに途方もない虚無を感じ、自分がいる場所がマイナスの地点だと強く感じている。


(でも、心は前を向いていたい。そのために乗り越えなきゃならないものだってたくさんある。今の僕はどこにも行くことが出来ないけれど、それでも、路時さんの力になれることがあれば、僕は……)


 存はあの町田瑠香を思い出していた。

 いつか存にも自分を大切に思えると思う日が来ると、そう言ったあの少女の顔を。


 しかし、それらを上書きのように塗りつぶしていくのは、罰を受け続けなければならないと叫ぶ義母の顔だった。

 存と目を合わせず「何を浮かれてるんだか、最近、クソがニヤニヤしてる時があってキモいんだけど」と言う義妹の目だった。

 無関心で、厄介事としか扱わない義父。

 罰の時間、殴りながら「お前ごときが幸せになる権利はない」と罵る、義母の声。


「堀位君。上星市に帰ろう」

「……そうだね」


 紗亜那の声が、終わりの合図だった。

 空は最後まで曇りのままで、太陽は顔を出さない。

 駅まで歩き、電車に乗り、帰る。


(今がだめでも。明日もダメでも。それでも、きっと、大人になれば)


 存は、電車の中で、ずっと紗亜那のことを考えていた。

 紗亜那は、そっと存の手を探し、そして握った。


 お互いに、何も言わなかった。

 言わなくても、心は通じ合っていた。

 二人は目を閉じる。


(僕は、この人のことが好きだ)


 電車の座席で二人は、ずっと手を繋いでいた。

 大切な人と触れ合えて、相手が生きていることを感じられる。

 それだけで幸せだった。


 上星市に着いた頃はすでに日が暮れかけていて、街の明かりが灯るか、灯らないかの絶妙なタイミングで、駅の改札をくぐる。


 暑い、夏の夜。

 まだ終わらせるには早いと存は思った。

 少しでも、一緒にと。


「堀位君」

「……うん」


 二人は自然に手を繋ぎなおして、それからささやかに笑った。


 例え、未来が見えなくても、今だけは誰にも邪魔されたくない。

 どこにいたって、感じられるのは隣にいるこの人だけだ。

 親から受け継いだ因縁も、何もかも忘れて一緒にいたい。

 それが許されるのが、ほんの小さな時間の中だけだとしても。


 二人は手を繋いだまま駅前を歩く。

 途中、存は思い出したかのように空腹を感じて、紗亜那に言った。


「路時さん、良かったら、何か」


 食べない? と言いかけた時、「あれ?」と声がかかった。

 二人の後ろからで、男の声だった。


「やっぱそうだ。この間の負け犬君じゃん。便も一緒にいるし」


 存が振り返ると、あの日、紗亜那を襲っていた男たちがそこにいた。

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