2036年 6月~7月19日 堀井 存、路時 紗亜那

第4話 破滅の予兆 その1

 上星市東区にある大きな公園は、その日も多くの人々で賑わっていた。


「路時さん、飲み物買って来たよ」

「ありがとう」


 2036年、6月の上星市は真夏のようだった。

 10年以上更新されていなかった最高気温を記録し、太陽の日差しも強い。

 冷たい飲み物を持って歩かなければ倒れてしまいそうだ。


「どこか、涼しいところが良かったかな」

「……ううん。ここで良い」

「あ、路時さん、あそこにベンチがあるよ。行こう。……飲み物の口、開けられる?」

「大丈夫。多分」


 紗亜那の声は変わらずに抑揚のない声で、聞いただけでは何を考えているのかがわからない。

 肩が出ている飾り気のない白のワンピースを着ていて、歩くのもゆっくりで――

 存は何を話したら良いのか分からなくなり、混乱していた。


 こうして誰かと待ち合わせをすることも経験したことが無い。

 紗亜那は無表情で缶のプルタブを開けると、躊躇いながらも口をつけ、こくこくと中身を飲む。

 

 汗で光る白い肌は美しかったが、存はあまり見つめてはいけないと目をそらした。


 だがしかし、せっかくこうして会えたのだ。

 存は、フーっと息を吐いて、決意を固めた。

 今日は、紗亜那に会ったらしたいことがあったのだ。


「路時さん……あの、これ」

「え?」


 ベンチに着くなり、存は隠し持っていた小さな包みを渡した。


「……これ、何?」

「プレゼントです。元気を出して欲しくて。こんなのじゃ、意味ないかもしれないけど」

「プレ、ゼント?」


 恥ずかしさが襲ってきたが、何とか渡せた。

 理由も無くプレゼントを渡すと言うのが正解なのかどうかもわからなかったけれど、とにかく元気づけたかったのだ。


 バイト帰り、駅前のデパートを通りかかった時に見つけたものだったが、果たして紗亜那は喜んでくれるだろうか。

 存少年は包みを受け取った少女の動きを、ジッと見守った。

 だが、少女は包みを持ったまま動かない。


「ろ、路時さん? 開けて良いよ?」

「……うん」


 存は、自分が無神経だったのではないかと不安になった。

 どんなに平静に見えていても、彼女の受けた仕打ちはこの程度の物で癒せるものでは無かったのではと。

 むしろ、怒りを買わないかと。


 だが、そんな存の不安を否定するかのように紗亜那は包みを開けた。

 中から現れたのは、手のひらに収まるくらい小さな、猫のぬいぐるみだった。


「……これ、私に?」


 戸惑った様子の紗亜那に、存は思う。


(やっぱり大失敗だ。高校生にもなって、ぬいぐるみ。しかも、こんなに小さな。僕は、なんてバカなんだ!)


 顔は真っ赤になり、ついには弁解を始めた。 


「ご、ごめん。喜んで欲しかったんだ。その、どうしたら良いのかわからなくて」

「ううん」


 紗亜那はぬいぐるみを撫でて、それから言う。


「大丈夫だよ。嬉しい。嬉しいと、思う」


 存が紗亜那の笑みを見たのは、それがはじめてだった。

 不器用で、ぎこちなくて、それに注意していなければわからないくらいささやかな表情の変化だったが、ともかく。


「ごめんなさい……私も、どうしたら良いのかわからなくて。プレゼントをもらったのは初めてだから」

「はじめて?」


 疑問を口にした瞬間、空から大粒の雨粒がポツポツと落ちて来た。


「雨? どうして急に?」


 言いながら存は空を見たが、湿気と水の匂いはすぐに立ち込めて来た。

 風が吹き、雲も動いている。


「堀位君。……私ね、私は」


 紗亜那の声をかき消して、雨は一気に降ってきた。

 土砂降りだ。

 まるで滝のように落ちて来た雨粒の中、ぬいぐるみを持った紗亜那は動かない。

 突然の雨に戸惑っているのか。

 ……いや、何か言っていた。

 先ほど話しかけたことの続きを話そうとしていた。


 だが、今はそれを聞いている暇はない。


「路時さん!」


 存は少女の手を掴んで引いていた。


「濡れちゃうよ! 走ろう!」


 そのまま遠くに見える屋根のついた休憩所まで走ったのだが、少女の手を握ってしまったことに存が気づいたのは、すっかりたどり着いてからだった。


「ご、ごめん。路時さん」


 気がついた存は怯えた。

 暴力以外で他人の体温に久しく触れてなかったからだったが、それ以上に大失敗をしたと思った。


 存は今、あの河原の小屋を思い出している。

 彼女に、である自分が触れてしまっていることが、いったいどういう意味を持つのかを。


 だが、離そうとした存の手を、紗亜那は離さなかった。

 それどころか、逆にギュッと握り返してきた。


「……路時さん?」

「……」


 紗亜那は何も語らない。

 空いた手で濡れたぬいぐるみをしっかりと持ち、静かにうつむいていた。

 紗亜那が肩にかけていたカバンが地面に落ちる。

 中にはほとんど何も入っていなかったようで、柔らかい音を立てて地面に倒れた。

 近くには同じように雨から逃げて来た人がたくさんいて、何人かが微笑ましい物を見るように、手を繋いだ存と紗亜那を見ている。


 存の心臓は爆発寸前だった。

 手の中にある他人の体温と、柔らかさ。

 握り返して来た紗亜那の細い指。

 雨に濡れて流れて来た紗亜那の肌の匂いで、存は気を失ってしまうかと思った。


 二人の間にある沈黙すらも、存の心拍数を高めている。

 時間の流れは消し飛んで、存の頭の中は紗亜那のことでいっぱいになった。


 存は思う。

 胸で暴れ回っているこの気持ちは何なのだろうかと。

 生まれて初めての感覚だった。

 恥ずかしくて、嬉しくて、それでいて不安にも似た気持ちが込み上げて来る。


 耐え切れなくなった存は、屋根の外を見て呟いた。


「と、通り雨だったみたいだ。もうすぐ晴れるよ」


 その通りだった。

 見る見るうちに雨の勢いは衰え始め、水の気配が消えていく。

 かわりに光が落ちて来た。

 芝生をデコレーションしている雨の雫が、雲の隙間から流れて来た光の帯を受けてキラキラと輝く。


 風が吹いて、光が流れた。


 こんなにも美しい光景を、果たして見たことがあっただろうかと存は思った。


「路時さん」

「……うん」


 握った手の先、紗亜那が同じものを見ているのだと、存にははっきりとわかった。

 心が満たされて、同時に隣にいる少女が愛おしく思えて来て……胸が苦しくなるほどの切なさに、存は涙さえ流すところだった。


 ふと、紗亜那の手がビクッと震えた。

 しゃがみこんで、地面のカバンから番号が浮かんだ携帯端末を取り出すと、画面をジッと見ている。

 着信らしい。


 迷いを見せた紗亜那に、存は「出て良いよ」と言葉をかける。

 紗亜那は「ごめんなさい」とつぶやくと存の手を離した。

 存に背を向けて、通話のボタンを押す。


「もしもし……はい……いえ、今日は……変更、ですか? はい。でも……違います、彼は……まだ、わかりません。……ごめんなさい、できません。はい……はい……いえ、まだです……ごめんなさい」


 ちらりと、振り返った紗亜那の顔が、あの無表情な顔に戻っていた。


「ごめんなさい。すぐに行きます」


 通話を切り、紗亜那は存に言った。


「堀位君、ごめんなさい。急用が出来て」


 急用ならば仕方がない。

 それがどんな理由かは存にはわからななかったし、会うのがこれっきりになるかもと思えば残念ではあったけれど、引き留める理由が見つからない。


「うん。そっか。大丈夫だよ。またね」

「本当にごめんなさい。堀位君」


 紗亜那はそう言うと背を向けて歩き出し……数歩だけ歩いて、一度だけ存に振り返ると、言った。


「あの、次はいつ会えますか?」


――――――――――


 ……この公園の一件以降、存と紗亜那は頻繁に会うことになった。


 もちろん、朝の通学途中にも顔を合わせた。

 以前は素通りしていた二人。

 軽く会釈したり、時々近くに立っているだけだったりもしたけれど、それだけでも存は楽しかった。


 連絡を取り合い、お互いに都合の良い日を確かめて出かけたりもした。

 それは図書館の時もあれば、ファーストフード店で何かを食べたりと、ちょっとした短い時間だったりもしたけれど。


 とは言え、誰かと話しをすることに、存は慣れない。

 言葉の無い空気の中、いつも会話を必死に探していた。


「……」

「……あの、さ」


 長い沈黙の後、存が話せるのは、どこかの本で読んだ知識くらいのものだったけれど、彼にとってはそれが精いっぱいだった。


「ぼ、僕らの世界で、目に見えるものはたったの5パーセントしかないんだって」


 そして、紗亜那が自分の話を聞いてくれるのが嬉しくて、話し始めると止まらなかった。


「23パーセントは、光も生み出さないで反射もしない、電波とか電磁波とかそう言う物で、残りの72パーセントは、重力だったり、物を加速させたり、もっと正体が分からないものだったりで……だから、僕たちの世界は少しも感知できないものばかりで出来ているんだってさ。だから、思うんだ。もし、神様がいるんだったら5パーセント以外の場所――残りの95パーセントの世界にいるんじゃないかって」


 言いながら存は思う。

 きっと、そうだと。

 目に見える世界にいるのならば、きっと、もっと、誰も傷つくことのない素敵な世界を創るはずなのだ。

 だから、きっと神様は自分たちとは別の世界にいるのだろう。


 ……紗亜那は話を聞いているばかりだったが、時々ささやかに笑って見せた。

 やはり、本当に注意してみなければ分からないほどの細かい変化だったけれど、それがびっくりするくらい綺麗に感じて、存はまた嬉しくなった。


 しかし、それらはいつも唐突に終わる。

 紗亜那に電話がかかって来るのだ。

 電話がかかって来る時間はまちまちで、早い時もあれば、遅い時もあった。が、いったい、誰が電話をかけて来ているのだろう。

 ある時、存が「家の人?」と聞いたが、紗亜那はこう答えた。


「ごめんなさい。言うことは出来ないの」

「そっか」


 紗亜那と言う人間のことを、存は良く知らない。

 家族構成も、どんな風に生きて来たのかも、何もかも。


 ただ、電話が来た時の彼女が、一瞬にして楽しげな雰囲気を失い、またあの無表情な顔に戻るのがどうにも悲しかった。

 彼女を苦しめるものがこの世界に存在していると言うことが、どうにも苦痛に思える。

 それでも存は紗亜那と一緒にいられるのが楽しくて、顔を見られるだけで幸せだった。


 そして、別れるの時に交わす言葉は、今まで親しい人間がいなかった存にとっては本当に嬉しいものとなっていた。


「堀位君。次は、いつ会えますか?」

「そうだね、次は……」


 これが恋なのかと、存は思う。

 顔を合わせるたび、声を交わすたび、手が触れるたびに、紗亜那が大切な人に思えた。

 この女の子が望むのならば、世界を敵に回しても、自分の身が滅んでしまっても構わないと、そう思った。


 ……だが、破滅は、二人のすぐそこまで迫って来ていた。

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