第3話 心の在りか その2
瑠香には何もできなかった。
たった14歳の少女には、他人の家への発言権も無ければ、干渉する権利もない。
また、存の家庭――堀位家が社会的に上流階級に位置する家庭であり、瑠香の家が裕福とはとても言えない家庭環境だったのも、彼女が全く無力であったことの一因だった。
少女がいくら存の危機を訴えても、それをまもとに受け取る人間は一人もいない。
いや、単純に存の義母に逆らう気配を見せるのが、みんな怖かったのかもしれない。
瑠香の訴えにより公的機関の調査も行われたが、義母がどんな手段を使ったのか、「問題なし」と言う結果になったのも悪い方向へ進んだ。
やがて、存の義母がこの町田瑠香を自分の敵として見るようになり、近所中に「小学生に欲情するいやらしい女」「金持ちをひがんで嫌がらせを続ける子供」などと悪評を広め始め、瑠香の立場はどんどん悪くなっていった。
やがて存と瑠香が会えるタイミングも少なくなり――それでも瑠香は、人の目を盗んでは存に会いに行った。
「お母さんやおばあちゃんが悪い人だったことに、存君は関係ない。存君は、こんなことされていい人間じゃないんだよ? おかしいのは、存君に罰を与えようとする人たちの方なんだよ?」
罪を受け継がなくてはならない理由はない。
親がどんな人間であっても、子供に罰を背負わせる理由にはならない。
だが、少女の声はひたすら虚しく存の心に響いていた。
彼女が存を救えなかったことの最も大きな要因は何よりも、存自身が彼女の言葉を否定してしまったことなのだ。
「……違います。僕は、罰を受けなければならない人間なんです。だから、瑠香お姉さんの言うことは間違ってます」
罪の意識は、まるで洗脳のように少年の心に刻み込まれていた。
「それでも」
瑠香と言う少女は、それでもと言い続けた。
「それでも、いつかきっと、存君が自分のことを大切に思える日が来ると思う。罰なんておかしいって思える日が、きっと来るから。その時はお姉ちゃんの言っていたことを思い出してね」
そう言って存を抱きしめた町田瑠香は、存が11歳の時にいなくなった。
存の義母の手によって近所中から疎外されるようになり、家族ごと逃げるように引っ越していったのである。
その後、存の家では、手紙、電話など、全ての連絡手段が監視され、瑠香と少年が接触することは出来なくなってしまった。
そして、瑠香は存のことを最後まで心配して、自分の連絡先が書かれたメモをこっそり渡していた。
だが、それも無駄だった。
すぐに義母に見つかって、存の手からとりあげられてしまったのだ。
「お、お願いします! 返して……! 返してください! それは大事な物なんです! お願いします! お願いします……!」
存は泣いて懇願し、手を伸ばしたが、返してはもらえなかった。
ビリビリに破かれたメモを集めようと身をかがめた存は、義母に蹴られ、踏みつけられ、恐ろしい叱責を聞くことになった。
「あれはクズ人間だ! お前は騙されていたんだよ! まったく、食い物に釣られるなんて、お前は犬畜生か? 簡単に騙されやがって! あんな人間と付き合っていたら、お前はますますダメになるぞ!」
だが、もちろん、その言葉は間違っていた。
いったい、誰が近所に住んでいると言う理由だけで、不良になりかけている厄介事を孕んだ異性の子供を助けようと思うだろうか。
それもちっぽけな、たった14歳の女の子と言う身で。
きっと、勇気も必要だっただろう。
存に買い与えていた食べ物の支払いも、14歳の彼女にとっては大きな出費だったはずだ。
自分が欲しいものもあっただろうに、貯金もほとんどを使い込んでしまったに違いない。
繰り返される罰の時間、その痛みに震えている最中でさえ、存は瑠香のことを想った。
瑠香にしてもらったことを想えば想うほど、絶望に光が差し込んで来るのを感じた。
人を助けるための勇気と優しさが、どれだけ尊く大切な物なのかを、他人であるはずの町田瑠香から教わったのである。
(僕は、いつか瑠香お姉さんみたいな人間になりたい。僕みたいな人間でも、本当に困っている誰かを助けることが出来るのなら、きっと)
罪を償えるのならば、きっと善行以外の物はない。
存はそう決意した。
それからの存は、多くを学校の図書室や図書館で過ごした。
家にいれば、酷い目に遭うからだ。
それに本を読むのは、孤独の中での楽しみになった。
ジャンルを問わず、様々な本を読みふけり、空想の中で遊ぶ。
誰も憎まず、誰も愛さず、誰にも心を開かない。
そうして時間は過ぎ、存は寡黙に育って行った。
耐え忍び、謙虚さを持ち、それでいて卑屈だったので虐められもした。
しかし、家でのひどい扱いに比べれば何をされようと平気だった。
そのうち、存自身が困惑する出来事が起きるようになった。
気がつけば時々、給食が多めに盛られている。
朝、下駄箱に封の切っていないお菓子が入っていることもあった。
手紙も一緒に入れてあり、食べてくださいと、そう書いてあった。
一体、誰の仕業だろうと、存は思う。
これは、存の境遇に気づいた一部のクラスメイト達による仕業だった。
もちろん、表立って仲の良い友達など存はいなかったので、彼自身はお礼を言いたいと思いつつも、心のどこかで騙されているのではと警戒して、探すことも出来ずにいた。
クラスメイト達も、自分たちと壁を作って仲良くしない存に近づくことはなかったが『少しおかしい奴だけど良い奴』と言うのが彼らの評価であった。
どんな時も、虐められている時も、誰かがこっそりとささやかな応援メッセージを存に与えてくれた。
多くは声なき行動だった。
少数ながらも彼の味方をする人間は必ずいて、彼に苦難に耐えるための希望を与えてくれていたのだ。
やがて存は進学を許され、公立の高校に進学することになった。
これは体面上、中卒で就職することを許されなかったと言っても良いかもしれないし、全寮制の学校に送られなかったのは存を罰し足りない義母の執着によるものでもあった。
しかし、少なくとも、アルバイトが出来る年齢になったことで、やっと自分でご飯を食べれるだけのお金が手に入ったと、存は安心した。
同時に、自分がお金を払うと言う約束で携帯端末を持つことを許してもらったのだが、これは町田瑠香の時のように会えなくなる人間が出来るのは、もう二度とごめんだったからである。
そして2036年。16歳の夏。
彼は電車で4駅と言う通学電車の中で、
――――――――――
――
「あの、路時さん。体の方は大丈夫ですか?」
河原での一件から何日か過ぎた、6月の終わり。
存は紗亜那と電話していた。
もちろん、存自身は驚いていた。
連絡先は河原で交換していたものの、まさか彼女の方から電話をかけて来るとは思ってもみなかったのである。
『私は大丈夫。それより、堀位君の怪我は?』
「大丈夫。もう、すっかり治ったよ。どこも痛くないです」
『良かった』
正直、青あざだったりはまだハッキリと残っていたし、歩くのも痛かったが、そんなことは関係ない。
罰の時間で、もっと痛い思いをしたこともある存には、我慢できない痛みでは無かった。
ただ、とにかく、存は自分よりも紗亜那の方が心配だった。
彼女の大丈夫と言う言葉を、どれだけ信じれば良いのだろうか。
あの河原でも、存は紗亜那に対して精一杯の気づかいをしようとした。
自分に何ができるかを考え、そして、あの男たちがどうしても許せず、警察に通報しようともしたのだが、それも紗亜那に止められた。
「絶対に、誰にも言わないで」
二次被害と言う言葉が存の脳裏をかすめる。
それを思えば紗亜那の意志を優先してしまうと言うのも、存と言う人間であった。
『堀位君。私、あなたに会いたい』
「え?」
『堀位君の都合の良い日を教えて。どこかで待ち合わせして、ゆっくりお話したい』
存がこの誘いを聞いて驚いたのも仕方がないのかもしれない。
正直言うと、もう、存の中は紗亜那の事でいっぱいだった。
あの日以降、何をしていても、ひたすら彼女の身を案じていたのだ。
「でも、路時さんは本当に大丈夫なんですか? あんなことがあったのに」
『気にしないで。あんなの、何でもないから』
そう言われてしまえば、それ以上は何も言えなかった。
あれが、女の子にとってはあまりにもひどい出来事だと今も思っているし、存自身は、どうしてそんな風に紗亜那が平気なのかがまるで理解できそうになかったけれど。
しかし……
(顔を見れば……)
存は思った。
(顔さえ見れれば、本当に大丈夫かわかるかもしれない)
会って確かめたいと、存は思った。
『堀位君?』
「あ、ごめん。えと、来週の土曜日の午後なら」
存はアルバイトのシフト表を見ながら、そう言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます