2024年~2036年 堀井 存 町田 瑠香
第2話 心の在りか その1
それは2024年に起きた殺人事件で、犯人もすでに実刑判決を受けて服役中であるのだが、幼い子供にとって母を亡くした――それも他人の手によって奪われたと言うのはあまりにも大きな損失であり、悲しい出来事であった。
この時、存は4歳。
傷心の父親は4歳の存を連れて、亡き妻の故郷である上星市へと引っ越した。
理由は仕事の関係でもあったのだが、妻が生きていた町で子供を育てるのも良いと思ったのである。
間もなくして父は、仕事で知り合った女性と再婚。
彼女の連れ子である血の繋がらない妹も可愛らしく、存少年は新しい家族と共に幸せな生活を送る……はずだった。
だが、彼が7歳の時に父親が事故で死亡。
一転して彼は不幸のどん底に叩き落とされることとなった。
義母による虐待が始まったのである。
始まって数年はまだマシだった。
キャリアウーマンだった義母は外に働きに出て、代わりに家には幼い義妹の面倒を見るために訪れたベビーシッターや家政婦がやってきて、二人の面倒をよく見てくれたのだ。
だが、仕事から帰って来た義母は「お前のお母さんを私は知っているんだよ。どれだけ酷い人間だったのかをね」と少年に言って聞かせていた。
「お前の母親はクズだった。殺されて当然の人間だったんだよ。そのクズの息子のお前もクズだってこと、わかる? ……わかるのかって聞いてるんだよ! この、クソガキ!」
実の母が若い頃、この上星市で何をしていたのかもその時に聞かされた。
盗み、暴行、恐喝、売春の強要。
義母自身も、彼女の周囲の人々も被害を受けたと、存に怒鳴り声をぶつけた。
そもそも、義母が父親に近づいたのは彼の資産と、憎んでいる女の血を引く存への復讐が目当てだったらしい。
もちろん、幼い存にはまだ良く分からない言葉ばかりだった。
だが、隠されていた義母の怨恨はすさまじく、あっという間に存の魂を蝕み始めた。
存は実母の話を繰り返し聞かされていくうちに、やがては彼女の言う通りに自分もどうしようもない人間なのではないかと思い始めてしまう。
(きっとそうなんだ。僕は、悪い人間なんだ。でも、僕のお母さんは本当にそんなことをする人だっただろうか)
わからなかった。
少年の中にあった思い出の実母は優しくて、とてもそんなことをするような人間とは思えなかったが、そもそも死に別れたのが4歳である。
ぼんやりとしてしか覚えてなかったし、全ては自分がそう思いたいだけなのではないかと思い始めた。
そして義母の話は、彼の実母の母、すなわち存の祖母に当たる人物へも言及を始めた。
祖母は実母以上の悪人であり、彼女のせいで死んだ人間もいると。
その被害を受けた人々がこの町には今もたくさん住んでいるのだと。
義母は「悪の血は継がれていくのだ」と存に言った。
お前の父親はそんな人間に騙された愚かなグズ人間で、お前はクズとグズの血を引いたどうしようもない人間なのだと義母は言い、幼い彼の精神をズタボロにしていった。
やがてはそれを一緒に聞いていた、存と仲の良かったはずの義理の妹でさえも彼を平気で軽んじる様になり、父親が死亡して2年後、存が9歳の時に義理の母が再婚。虐待は加速していった。
主婦となった義母は、存の食事だけを用意しなくなった。
週に一度、寝る前に『罰の時間』が設けられ、必ず暴力を振るわれた。
少しでも反抗的な態度があれば拳で修正され、常に謝罪の言葉を口にするようにと教え込まされた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ご飯をください。お腹が空きました。おねがいします。おねがいします」
存がどんなに泣いて謝っても、助けてくれる者はいない。
運が良ければ誰かの食べ残しが振舞われたが、それはまだ良い方だった。
義父は泣いて懇願する存を見るたびに「うるさいから黙らせてくれ」と義母に言い、義母は必ず存を殴るのである。
「黙ってろクズ! 泣いて食い物を欲しがるなんて、浅ましい! 恥を知らないのか!」
次第に、空腹を訴えることもしなくなった。
代わりに、何をしても、何を言ってもすべて無駄に終わるだけなのだと言う、絶望だけが存の中を満たして言った。
日夜、楽しい日々を自慢げに語る義妹と、何かと理由をつけて自分をダメ人間だと罵る義母。
休日、どこかに堀位家が出かけたとしても車に乗ることを許されず、自分一人だけ家に置いて行かれる。……存にとってこれ以上の寂しさはなかった。
ガランとした家で腹を空かし、開けることを禁じられた冷蔵庫に触れることも出来ず、ひたすら水だけを飲んで耐えていた少年は思ったものだった。
(これは、罰なんだ。僕のお母さんと、おばあちゃんがしてきたことの罰を、僕は受けているんだ。なら、いっそのこと……どうせ罰を受けなきゃならないなら、僕だって、悪いことをしても……)
飢餓は胃袋だけのものでは無い。
心はいつかやせ細り、ついには他人のお金を奪えれば、少なくとも空腹でなくなるのではないのかと考え始めた。
ある日、近所にある公園のベンチに財布が置いてあった。
誰かの忘れ物だろう。
それは小さくて可愛い、女の子が持つような財布で、周りに人もいない。
そして、それを見た瞬間、存少年のお腹が鳴った。
酷い空腹で、胃も痛かった。
恐る恐るその財布に近づいた存は、そこからお金を抜き取ろう考えてしまった。
(でも、本当にいいのかな。こんなことをして、僕は……)
もちろん、もともと優しい気質だった彼には、誰かのお金を盗むなんてことは出来ないものだった。
躊躇い、何度も心の中で謝りながら財布の口を開けて、……思い直してまた閉じた。
でも、その度に強烈な空腹感を感じた。
もう、存自身もどうしようもなかった。
生きるためには盗まなくてはいけないのだと、何度も言い聞かせた。
それでも中の紙幣に指が触れた瞬間、やはり、こんなことは間違っていると思った。
もう、止めようと、そう思った。
この空腹も、自分が耐えなければならない罰の一部なのだと。
ただ、まさか、失くした財布を探しに持ち主が帰って来るとは、存は思いもしていなかった。
息を切らせながら近寄ってきた人がベンチの前で立ち止まり、「……それ、私の財布」と言葉を発したその瞬間、ちょうど財布の中に手を入れていた存は、自分が絶体絶命におちいったことを理解した。
現行犯であり、罪は明らかである。
存は絶望した。
これが知れ渡れば、次の罰の時間に自分は義母に殺されてしまうのではと思った。
いや、仮に生き残れたとしても、無事で済むはずがない。
今以上の地獄が待っているのだと、そう思った。
また、財布の持ち主が、あまりにも優しそうな良い人に見えて、彼の罪悪感もすさまじいものとなっていた。
「ごめんなさい……! お腹が空いていたんです! ごめんなさい……!」
だが、彼が予期していないことが起きた。
「お腹が空いているの? どうしてそんなに……?」
財布の持ち主は近所に住んでいた4歳年上のお姉さんで、名前を
瑠香は、やせ細った存の体と汚れた服を見て、何かを察したらしい。
泣いて頭を下げていた存の頭を撫でて落ち着かせると、近くのコンビニまで連れていった。
「お姉ちゃんもあんまりお金ないんだ。ごめんね」
瑠香は財布の中身を広げて見せた。
千円札一枚しか、そこには入っていなかった。
「でも、ちょうどよかった。私もお腹空いてたからさ。一緒に何か食べよう。好きな物、カゴに入れて良いからね。名前、教えてくれるかな?」
正直に名乗った存に、瑠香は罪の追及をしなかった。
そればかりか、自分の財布が盗まれかけたことを、警察はおろか自分の家族にも言わなかったのである。
買ってもらったおにぎりを恐る恐る口にした存を見て、瑠香は言った。
「悪い事をしちゃだめだよ。存君が本当は優しい子だってこと、私にはわかるからね」
この時、存は10歳、
この日以降、瑠香は何かと存を気にかけて、話しかけてくるようになった。
待ち伏せし、用もないのに話しかけ、存が泣いていれば慰めて、道を外れそうになっていれば叱り、励ました。
「存君は頭が良いんだからわかるでしょ? 悪いことをしたらダメだよ」
そうして時々、菓子パンやおにぎりを持ってきてくれた。
これは、いつも腹を空かせていた存にとっては最高のご馳走だった。
「瑠香お姉さんは、何で僕に食べるものをくれるんですか?」
「何も考えなくて良いんだよ。毎日あげられなくてごめんね」
だが、ちっぽけな14歳の女の子に、それ以上の何ができただろうか。
彼女は、存を救うことが出来なかった。
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