罰 ~The inherited sin~
秋田川緑
第1章 上星市編
2036年 6月 少年、少女、プロローグ
第1話 酷くぬめった地獄の中で
U県に上星市という町がある。
かつて、幾つかの田舎町があっただけの地域だったが、1970年代後半に実行された都市化計画により複数の市町村が合併、急速に発展した歴史を持つ。
2000年代に入るといくつかの殺伐とした事件も起きたが、かつて少年や少女だった若者たちも大人になり、老けるにつれて事件は過去の物へとなっていった。
そして町には、より良い世界への変革を願った人々の意志だけが忘れ去られ、凄惨な過去を抱えたままの『今』と、傷によって生まれた『悪意』だけが依然として残っている。
――――――――――
2036年、初夏。夕刻。
上星市東区を流れる川の近く、放棄された小屋の中で殴られている少年がいた。
それも複数の男たちによって一方的に。
近くには半裸の少女が倒れていて、少年を殴っている男たちは三人もいた。
……つい、数分前の事である。
川の流れを見ていた少年は、水の物とは違う不快な気配に気づいた。
男の下品な笑いと、息を潜めた複数の音だ。
探せば近くにボロボロの小屋があって、少年は濁った窓から中を覗いた。
カーテンはかかっていたがボロボロで、隙間から見知った学校の制服が、はっきりと見えた。
「……ッ」
少年は息をのんだ。
少女が、男たちに囲まれていた。
いや、囲まれていたどころではない。
抑えられて、身動きできない状態にされていた。
さらに言うと、ワイシャツのボタンが外されていて、少女はほとんど裸だった。
「くそ、ブラジャー外せねぇよ」
「良いから先にパンツ脱がせって」
少年は小屋に突入していた。
そして、勇気を振り絞って制止の声を叫んだのだ。
だが、振り返った男たちの返答は、圧倒的な暴力だった。
――
「うっ、ぐっ」
少年が呻くと、笑い声が起きた。
もう、何発目かのパンチ――勢いをつけて少年の腹を殴った男への賛美と、無様に膝をついてしまった少年への嘲りの声だった。
「次、俺いくわ」
「手加減しないと死んじゃうかもよ? こいつ、マジ雑魚だし」
「知ったことかよ」
少年は、自分がやられている今のうちに少女が逃げてくれればとも思った。
しかし、小屋に出入り口が一つしかない上に、腹を押さえて座り込んでしまった自分がそこにいるとなっては、それも難しい。
(何とか、しないと……! このままじゃ……!)
少女は脱がされかかった下着もそのままで、露出した肌を隠そうともせずに呆然と少年を見ている。
少年は少女の名前を知らない。
だが、顔は何度も見たことがあった。
色白で、華奢で、短くて淡い色の髪をした、通学途中の電車で見かける他校の少女に間違いなかった。
いつも無表情で、いつも独りで。どことなく自分と似ている気がして――それは一目惚れに近いものだったのかもしれない。
いつか、機会さえあれば話をしてみたいと思っていた。
「どこ見てんだ! まだ終わってねぇぞ!」
強烈な蹴りが少年の肩を襲った。
倒れ込んだ少年を踏みつけ、男は蹴りを続ける。
「クソが! 俺は弱い奴になめられるのが一番むかつくんだ! いきなり入って来て、ウゼーんだよ、カス! ……オラ、立てよ! やり返してみろ! 俺らに勝てると思ったから入って来たんだろうが!」
思うわけがない。
ただ、少女の白くて細い体に男が覆いかぶさったのを見た瞬間、何としても助けなければと思った。
体を動かしたのは、ただのそれだけだった。
しかし……
「……お、お前らなんかに、負ける、もんか」
「あ?」
少年は、ふらつきながらもなんとか立ち上がった。
心は暴力に対する恐怖でいっぱいで、立ち向かう勇気を振り絞っても、体は勝手に震えてしまう。
吐き気も込み上げて来て、まともに戦えそうも無かったが、それでも。
「僕は、守るんだ、絶対に。守りたいと思った人は、必ず」
絶対に負けるわけにはいかない。
負ければ、彼女がどんなことをされるのか。
それが女の子にとって、どんなに酷い事なのか。
少年は痛みに耐えながら握りこぶしを固め、叫び声を上げながら男達に向かって突撃した。
「うわああああああッッッ!」
――――――――――
……
結果を言うと、少年は少女を助けられなかった。
男たちは三人もいたし、人を殴ることなんてなんとも思わない奴らばかりで、そもそも少年自身は誰かと殴り合いの喧嘩をしたことなんて一度もなかった。
何度も殴られ、蹴られ、強引に頭を掴まれて体勢を崩した後、男の膝が顔に入ったのは覚えている。
その後、気絶していたらしい。
目覚めて最初に感じたのは、床の腐った木の臭い。
口の中にある血の味と、唾液を吸った埃。
小屋の外で虫が鳴いていて、辺りは真っ暗で……手を伸ばすと、男たちが飲みかけで放置していたらしいジュースの空き缶が倒れて、僅かに残っていた中身がこぼれた。
続いて、指先に酷くぬめった液体がしみ込んだ繊維――濡れたティッシュのゴミが触れる。
「うっ……くっ……」
事後の空気を鼻先で感じ取った瞬間、少年は泣いた。
男ならば、誰もが嗅いだことのある臭いだった。
状況は全て、理解してしまった。
守れなかったのだ。
「泣いているの?」
声が聞こえて、顔を上げる。
暗くてよく分からなかったが、近くに人がいたらしい。
女性の声に聞こえたと、少年は思った。
聞こえた方に視線を向けたが、視覚はほとんど役に立たない。
と、その時、小屋の窓――ボロボロのカーテンの隙間から光がサッとさして、辺りを照らす。
「……」
見えたのは一瞬で、光は去ってしまった。
だが、声の主は確認できた。
どうやら襲われていたあの少女らしい。
少女は裸のまま座り込み、壁に背をつけて足を放り投げたまま、ぼんやりと少年を見ていた。
「……やっぱり、泣いているのね」
声は初めて聞いた。
どこか儚げにも見えていた容姿にぴったりの、きれいな声だと思った。
ただ、不気味なほど抑揚のない、感情らしきものが一切感じられない声だった。
暗闇が小屋の中を支配し、かと言えば思い出したかのように光がカーテンの隙間から流れて来る。
恐らく、近くの道路を通って行く車のライトだろう。
光は再び少女の裸を照らし、残像を少年の目に残して消えた。
乱れた髪と、歯形のついた胸。
細かいクズゴミにまみれた足。
指の先には、乱雑に捨てられた少女の下着が落ちていた。
男たちに何をされたのか、想像するだけで悲しかった。
同時に、何も出来なかったことが悔しかった。
自分が寝てしまっている間、少女はどんな気持ちでいたのだろう。
「ごめん、なさい」
口にした瞬間、少年は息を詰まらせた。
顔中が痛くて、口の中も傷だらけで、肩も、腹も……痛くない場所など無かったが、それでも、それ以上に少女の有り様があまりにも無残で、心が痛かった。
「ごめんなさい。助けられなくて、ごめんなさい」
「……どうして?」
少女は少年の謝罪に応えなかった。
むしろ、彼の言葉など聞いていなかったかのように質問を投げて来た。
「あなたはどうしてここにいたの?」
一瞬、言っていることが分からなかった。
少女は何を言っているのだろう。
……どうしてここにいたのか?
「……た、たまに、川を見に来るんだ。流れを見ていると、落ち着くから。そしたら、ここから声が聞こえて」
「それで?」
「僕は、君の顔を知ってる。電車で、たまに見るから。だから」
「……だから?」
「だから、助けたかったんだ」
「……そう」
闇の中、少女は自分がされたことなどはまるで何でもなかったかのように立ち上がると、自分の下着を拾って身に着けようと足を上げる。
何か、ドロリとした液体が床にポタリと落ちた。
糸を引いたそれが、あまりにも生々しくて少年は目を逸らす。
そもそも暗すぎて良く分からなかったけれど、それでも。
少女は、少年など気にもせずに自分の制服を探し、見つけた端から身に着け始めた。
「……それだけなら、私なんて放っておいた方が良かったのに。そしたら、あなたが痛くなることなんて無かった。あなたにも分っていたでしょ? あれが、どういう人たちなのか。邪魔をしたら、どうなるのか。それなのに、あなたはどうして自分が痛くなるようなことをしたの? 痛いのが好きなの?」
少女の言葉は冷静で、だからこそ異常だった。
まるで自分がされたことなど、どうでも良いとさえ思っている様子だった。
「……痛いのが好きなわけじゃないと、私は思う。あなたは泣いていたから。でも、だったらどうして? 自分が傷つくのが分かっていたのに、どうしてなの? 関わり合いたくないとは思わなかったの? 私みたいな汚れてる人間に」
それを聞いた瞬間、少年は口走ってしまっていた。
「汚れてなんか、いない」
涙が再び流れて、床に落ちた。
「汚れてないよ。君は、綺麗じゃないか」
汚れている?
この小屋を満たしている生臭さだとか、殴られて流れた血だとかを思えば、確かにそう思える。
だが、目の前の少女は、そんなものの中に在っても、ただの一つも汚れているようには見えなかった。
ふと、窓から光が差して、再び少女を照らす。
見えたのは一瞬だったが、それで十分だった。
汚れているものなど何もない。
あるのは他人につけられた傷と、痛みだけだ。
「僕には、君がとても美しく見える。もし、汚れていると感じるなら、こんなにも酷いことが起きる世界の方が間違っているんだ」
「……そう」
その声は肯定しているようにも聞こえたし、あるいは否定しているようにも響いた。
だから、少年は抱えていた想いをぶちまけてしまった。
「僕は、君を電車で見かけてから、ずっと、話をしてみたいと思ってたんだ」
「……私と?」
少女が動きを止める。
相変わらずの暗闇だったが、空気でそれは分った。
「……したかったって、話を? どうして?」
「君が、僕と似ている気がしたから」
少女の、目には見えない心の動揺は、例えどんな暗闇の中であっても少年には理解できた。
それも仕方がない。
少年自身、自分が何をしたくて、何を言っているのかがまるでわからなくなっていたのだ。
しばらくお互いの目を見ていた少年と少女だったが、やがてどちらかと言うことも無く、目をそらす。
とは言え、暗闇の中であっては本当に見つめ合えていたかはお互いに分からなかったけれど。
少女が呟いた。
「……名前を教えて。私は、
少年は答える。
「僕は、
――――――――――
夜の闇は深く、灯りは遠い。
傷は深く、痛みに震えるだけだった時間は動き出す。
――これは、大人たちに汚されて目覚めていった子供たちが、絶望の中で光を見つける物語。
血と、呪いと、汚物にまみれた道を通り、救いを求めてさまよった末に希望を掴む物語だ。
今はまだ目覚めぬ二人。
お互いが抱えている心の問題は、この時はどちらも知ることは出来なかったが、出会いが何か特別な意味を持つかもしれないと、ひっそり感じ合っていた。
……ただ、この時の
(僕と似てるだって? ……確かにそう思ってた。だけど、僕みたいな人間が誰かと似ているだなんて、本当は思っちゃいけないことだったんだ)
言葉にしてしまえば取り返しはつかない。
実に軽率だったと
誰かに対して自分と似ていると言ってしまうのは、その人に対する侮辱ではないだろうか。
(彼女が僕と似ているだなんて言うのは間違っていた。あんなにも美しい人に、僕はなんてことを)
しっかりと自覚し直さなければならない。
自分が一体どんな罪を持って生まれた人間なのかを。
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