第5話 藤杉 悠歌

 4月も半ばとは言え、やはり日が落ちると一気に気温は低くなる。

 家の玄関を挙げるとするならば、勿論暖房なんて設置されていないし、石畳が敷かれて尚のこと底冷えするし。

 何が言いたいかと言うと、散々遅くに帰宅した僕を待ち受けていたのは、大層ご立腹な様子で仁王立ちする我が妹、悠歌その人で。僕は衣服が汚れることも厭わず、石畳の上で正座をして、上から降り注ぐお小言をただ全身に浴びているという状況だった。

「聞いていますか、お兄さん」

「勿論です」

 俯きながら、僕は返答する。

 顔を上げて悠歌を正面に捉えようものなら、悠歌は恥ずかしさから赤面して、ろくに会話が成立しないからだ。家族なのだから、いい加減僕への抗体を作ってくれてもいいんじゃよ、と兄心に思うばかりである。

 普段であれば悠歌の可愛らしいお小言でも、さっさと切り抜けるために顔を見て逃げ出してもらうのだが、今日はこの何気無い日がひたすら愛おしい。決して妹に怒られることに快感を感じているわけではないということは明言しておく。

「お兄さんは昨日、全身ずぶ濡れで帰ってきたんです。暖かくなってきたとは言え、こんなに日が落ちてしまえば気温も下がります。朝は大丈夫でも、後々になって体調を崩してーーー」

 ああ、チクチク続くお小言……いつもなら「はいはい」と済ませてしまうのだけれど、今思えばなんて勿体無いことをしていたのだろう。悠歌のか細いながらも芯のある声が、すっと心に染み入るぜ。

 なんて言ってしまえば、きっと悠歌は更に激情してしまうだろうから、決して口が裂けても言えないが。

「……お兄さん、どうしてニヤニヤしているんですか」

「ヤベ、本心漏れてた」

 口が裂けても言えないが、身体は心に対して大変正直であるようだ。まさか居心地の良さすら感じていた心境が、表情筋を緩ませてしまうとは。

「説教中に余所事ですか? さぞや退屈なんですね」

 思わず顔を上げると、そこには女神様の様な優しい微笑みを浮かべた我が妹。しかし背後に見えるは般若の面を被った女神様だと言うのだから、なかなか素晴らしい迫力だ。さっき僕の命を絶たんとした魔王と、さてどちらが恐ろしいか。

「悠歌」

 誤魔化すつもりはなく、ただこんな状況でも、僕にはとても嬉しい。命のやり取りが無い、変化の無い日常が、ただただ喜ばしい。

 僕は我慢することもせず、不意に立ち上がると、華奢な体つきの悠歌をぎゅっと抱き締めた。今まで意識してこなかった、悠歌の甘い香りが鼻をくすぐる。

「にゃッ!?? お、に、兄さ、に、にににッッッーー!!???」

 冷凍保存されていたかのようにカチカチに体を固まらせ、しかし柔らかい温もりを含む悠歌。

 今までこんなにも悠歌が愛おしいと思ったことはあっただろうか。いや、無い。反語。

「いつも迷惑かけてごめんな。お母さんが忙しいからって、家事も頑張ってくれるもんな」

「にゃ、にゃにゃにゅッ!? な、に、にに、にッーーー!!?」

「普段言わないから、こんなときでホントにごめんだけど。ありがとう、いつも本当にありがとう」

「……ッ!!? ……ッ……ッッ!! ……ッ!??」

 なんでこんなに安心するのだろう。

 悠歌を抱き締めていると、極普通のように湧き出るこの感覚に酔いしれそうだ。

 いや、別に抱き締めていなくても、おそらく僕の『日常』を感じられるからこそ、こんな気持ちになるのだろう。やっぱり非現実があるからこそ、こうした何気無い『普通』の素晴らしさを得られるのだろう。ありがとう、猫さん。二度と僕に関わらないでください。

 どれだけそうしていたか。

 感慨深く甘い感覚に浸っていたが、ふと、腕のなかの悠歌に目を向けると、それこそ茹だった蛸の様に真っ赤に染まった妹がいて。目は若干虚ろで、唇がふるふると小刻みに震え、何か途方も無い試練に挑んでいるかのような雰囲気を醸し出していた。

「……大丈夫、悠歌?」

「…………はッ!?」

 僕の呼び掛けにワンテンポ遅れながら、悠歌の瞳に光が戻る。

 途端、バッと僕から離れたと思うと、全身で呼吸を始めた。

「大丈夫か?」

 もう一度、同じ質問を繰り返す。ゼェゼェと荒い呼吸をする悠歌は、胸の前でぎゅっと手を握りしめていた。

「だ……ハァ、ハァ……大丈夫、じゃない、です……ハァ、ハァ……けど、大丈夫……です……」

「どっちだ」

「大丈夫、です……一先ず、峠は越え、ました……」

「そうか。多分大丈夫じゃないんだろうね」

 妹の身体的・精神的問題が若干心配ですよ、兄として。

「そ、それで……急にどう、したんですか?」

 未だ本調子とまではいかないながら、悠歌は何とか平静を取り繕いつつ訊ねる。

「いや、ちょっと変な……夢、ではないけれど、現実とも捉えたくない、そんな云々に巻き込まれたりしたもんで」

「お兄さん……やっぱりお熱でもあるんじゃ」

「それ心配してくれてるのかな、それともバカにしてる?」

「心配してるに決まってるじゃないですか」

「……そうだよね」

「はい。如何に時折奇行に走るお兄さんとは言え、昨日の今日では間が無さすぎます。病の侵攻が進んでしまっているのかも」

「……それは心配してくれてるのかな」

「勿論です」

 僕には悠歌の言う『病』とやらが、身体的なものとは違う某に聞こえるのだけれど。

「さっきも言ったけど、大丈夫だから。……いや、ホント言うと大丈夫じゃないのかも。僕自身、ちょっとフワフワしてる」

「ライトノベルの読みすぎですか?」

「今日は妙にぐいぐい来るね」

 痛みすら感じるレベルにめり込んでくる悠歌の言葉。我が妹、時折垣間見せる辛辣な言の葉が、結構僕にはクリティカルするから侮れない。基本良い子なのだが。


 藤杉 悠歌(ふじすぎ ゆうか)ーーー僕の妹は、人見知りが激しく、昔からよく1人でいる姿が印象的だった。それこそ数年前までは、僕が兄貴面して近寄ろうものなら、忍者にスカウトされてもおかしくないレベルの機敏な動きで距離を取られ、プロのスタントマン顔負けのオーバーリアクションで部屋を出ていかれたことすらある。

 さすがに、泣けた。

 最近、具体的には昨年の秋頃、何の前兆も無しに、ある日悠歌の方から僕との距離を縮めてくれた。驚きのあまり理由を訊ねることもできず、今日まで来てしまった。まあ、兄妹で会話ができる、という当たり前なことができるようになったのだと、深く詮索することは止めて、僕は与えられた『悠歌との時間』という、それまで貴重だった経験を噛み締めさせてもらっているわけだ。

 しかし今回のように、僕が連絡無しに遅い帰宅をしたり、他にも心配させるような出来事があると、途端に人見知り部分が鳴りを潜めるというのだから、むしろ意識して切り替えているのではとすら勘繰ってしまうときがある。

 とにかくそんな悠歌が今年の春、つまりほんの2週間前に、高校入学を無事果たした。噂で聞く悠歌の中学校での評判は大変良好だったため、それほど高校進学は心配していなかった僕だが。

 その悠歌が選んだ高校がマクミラン高校であったことにはさすがに度肝を抜いた。

 私立マクミラン高校。至ってノーマルな私立高校にして、学業もそれほど躍起にならなくても入れるレベルの高校にして、僕が通っている高校だ。

 目指せばもっとハイランクの高校だって狙えただろうに。それでも悠歌が僕の通う高校を選んだことは、驚愕と共に、僅かながら兄として喜びも感じたものだ。もしかしたら、これを機に更に我が妹との距離も縮まるやも、と。まあ、今のところ泡沫の夢と散る未来しか見えないが。

 そんなこんな、色々心配のあるような無いような妹が、とにかく仕事が多忙で家を空けがちの母親の代わりとなって、甲斐甲斐しく僕を気にかけてくれているというわけである。兄としてヒジョーに申し訳無い気持ちになってくる。気持ちだけ。


「あんまり無理しないでくださいね。本当に体調崩しちゃいますから」

「ん、それについてはちゃんと気を付けるよ」

 ふっと微笑み、僕は健気な悠歌の頭を軽く撫でた。

 一瞬極上に表情を緩める悠歌だったが、不意にはっと何かに気付いたかと思うと、目にも止まらぬ速さでバックステップした。

「と、取り敢えずご飯にしちゃいましょう! もうすぐにでも食べられますから……! リ、リビングで待ってますから!!」

 そう言って、悠歌は僕の返答を待たずして、慌ただしく奥に駆けていった。表情がコロコロ変わる様は、なかなか見ていて楽しかったりする。

「……ホントに、よく変わるようになったよ」

 ほとんど無意識に、僕は僕しかいない玄関でポツリと呟いた。


「そうだ。私、明日は部活で遅くなりますから、すみませんがご飯はいつもより遅くになります」

 味噌汁から立ち上る湯気の向こう側で、悠歌は申し訳なさそうに言った。

 今日の献立は白米と味噌汁、メインに鯖の味噌煮、簡単なサラダボウル。昨夕に残った市販のコロッケもオマケ。シンプルだけれど、十分すぎるメニューだ。

「文芸部だよね」

 魚の骨を取りながら、ふと思い出したように返答した。

 まだ入学して2週間。家事をこなしつつ部活まで参加し、果たして悠歌は自分の時間というものが確保できているのだろうか。

「創作というのは、あんまりやってこなかったから……筆は遅いけど、楽しいですよ」

 僕の間延びした物言いに何かを感じたのか、悠歌は少し検討違いの言葉を紡ぐ。

「楽しいのも大事だけど……それより、悠歌が自分の時間を取れてるのかなって」

 極普通の疑問をしたつもりだったが、悠歌は最初こそキョトンとした表情を浮かべ、すぐに頬を僅かに朱に染める。

「あ、ありがとうございます、心配、してくれて。でも大丈夫ですよ、お兄さんが思っているようなことはありません。私は私のやりたいよう、時間を使ってますから」

 屈託の無い笑顔で悠歌は答えた。そこに陰りは見当たらず、本心を隠している、という風には全く見えない。

「それなら良いんだ。無理しないようにね」

「それを言ったら、お兄さんだってそうです。ここ連日、偶々部活の方がお休みでしたが……お兄さんは根を詰めやすい人ですから」

「それ、悠歌が言っちゃダメなやつ」

「そんなッ!?」

 こんなやり取りも、自然に出来ていることがとても嬉しい。

 悠歌と会話をしながら、頭の端ではどうしても、夕方の出来事がリピート再生されてしまう。それこそ、いつもの食卓で、いつもの会話をしていられることが嘘であるかのようで。

 次いで、『勇者伝説』の中で僕を守ってくれた、設定上幼馴染みの魔法使い少女が思い浮かぶ。設定上ではなく、本当の幼馴染みの女の子が重なる。

「お兄さん?」

 不意に黙ってしまった僕に、心配するような声色が届く。

 いつの間にか落ちてしまっていた視線を戻すと、悠歌が覗き込むように僕を見ていた。

「いんや、なんでも。……ごちそうさまでした、今日も美味しかった。洗い物は重ねておいてくれれば、後で片しちゃうから」

「あ……はい、分かりました。ありがとうございます。お風呂はすぐに入りますか?」

「ん~、ちょっと電話だけしたら。そんなに時間掛かんないと思うけど、先に入ってくんな」

「そうですか。なら、お言葉に甘えますね」

 変な遠慮も無く、悠歌は微笑む。

 そんな小さなことにも幸せを感じながら、僕も心からの微笑みを返し、2階にある自室へ向かって階段に足を掛けた。

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