第6話 神奈毬 貴蕎

「さて、と」

 扉を閉め、明かりのスイッチを入れる。

 照らし出されるのは生活感に溢れているのかいないのか、よく分からない部屋だ。

 12畳ある僕の部屋。壁一面には天井にまで届く本棚で埋め尽くされており、中には勿論ライトノベルだらけ。多少純文学や学問書なんかもあったりするが、それらは残念ながら年単位で開いてすらいない憐れな本達なのだ。

 あとは学習机、背の高いベッドと衣装ダンス……それだけの部屋だ。

 正直言うと、僕はあまりこの部屋が好きではない。本に囲まれているという環境は大変素晴らしいのだが、そういった装飾的なものではない、もっと根本的な……生理的な部分で、僕は好きではない。

「……とは言え、大分マシになった方だよね」

 つい言葉に出た嘆息は、僕以外に誰もいないはずの部屋の中で霧散する。霧散し、部屋の隅々まで染み込んでいく負の感覚が肌で感じられるようで、尚更僕は嫌気が募る思いだ。

 そんなことを考えていても仕方は無いと。

 ベッドに腰掛けながら、僕はポケットからスマホを取り出す。

 家族と悪友とプラスαと、ほんの僅かにしか名前が連なっていない電話帳をスライドさせながら、目的の人を探す。

 改めて、『勇者伝説』の中で出会った魔法使いを思い出す。やはり、似ている。

「そういえば、僕から電話するなんてどれだけ振りだろ」

 振り返りながら、少なくともここ一年間には存在しないことを確認し、コールボタンをタップした。

 無機質なコール音が鼓膜を揺らすのを感じているとーーー


「ーッ、ッーーッ! ーーーッッ!!」


 バタバタと、壮大な音が窓の外から聞こえてきた。

 常に閉められたカーテンと窓に遮断され、言葉までは判別できないが、当時と変わらぬままであるならば、この窓の向こうには目的の人の部屋があるはず。

「っつーか、長くない?」

 コールを始めて既に三分程経っている。夕食後にカップラーメンを夜食る文化は我が藤杉家には無いので、そんなとんでもカロリー摂取はやりたいと思わないが、この空白の時間はちょっと勿体無く感じてしまう。

 更に一分、いつしか隣家の喧騒は落ち着いているが、さて何故出てくれないのか。

 さすがに諦めようかとスマホを耳から外そうとしたとき。


『こんばんは、優』


 スピーカーの向こうから、凛とした声が響いた。

「…………こんばんは、貴蕎(ききょう)」

 時間かかったね、とか。バタバタ聞こえたけど何が、とか。

 あらゆる言葉を飲み込んで、無難にオウム返しできた自分を褒めたい。

『何か言いたそうな間は気づかなかったことにしましょう』

「うん、その方が貴蕎にとっても良いかもね」

 今更になって、電話をしていることに後悔を始めてきた僕だった。そもそも、わざわざ電話をしなくたって、会おうと思えばいつでも会える。なんなら、今すぐにでも会える。本来そんな距離なのだ。

『優から電話なんて、一年と半年振りくらいだね』

「そんなにか」

『正確には、一年と六ヶ月と十五日と一時間三分前くらい』

「それは『くらい』の範疇ではなくないか!? というか、詳細に覚えすぎだろ、怖いわ!」

『冗談だよ』

「どこから冗談か、聞いてもいいかな」

『あまり有益な情報とは思えないかな』

「じゃあいいッス」

 おそらく電話の向こうでケラケラ笑っているであろう姿を想像し、僕は相変わらずな幼馴染みに一つ、溜め息を吐いた。

『まあまあ、冗談はさておき。それで、本当にどうしたんだい、電話なんて。そんなにボクの声が聞きたくなったのかい、なんてーーー』

「ん、そうだね。まさにその通りですわ」

『……ぇぅ……』

 率直な気持ちを吐露すると、それまで飄々としていた貴蕎の声で、不可思議な音が溢れるのを聞いた。

 しかし、その通りなのだから「その通り」と答えるしかあるまい。理由までバカ正直に話すと、さっきの悠歌と同じような反応が返ってきそうなので言えないが。

「生徒会の仕事で、あんまり会えないことの方が多いし。だから、電話にしてみた。確かに珍しいことではあるのは自覚してるよ」

『…………っ』

 不自然な間を置き、と思えば息を飲み込む音が聞こえた。それから、深呼吸の音。

『すー……ふー…………。そう、か。何か訳ありだと見えるけれど』

「うん。理由はーーー」

『理由はいいッ! 言わなくていいッ、いいですッ!』

 『言えないけど』と繋ごうとしたのだが、先に貴蕎の方から話題展開を潰してくれた。僕からしたらありがたいこと。

「別に変な理由なんて無いけど」

『例えそうであっても……今のボクには、冷静にそれをそうと判断できるような精神状態を作れそうにない』

「いよいよ以て貴蕎が心配になるんだけど」

『心配はいらないよ。体調管理は、少なくともかつての反面教師のおかげで十分意識してるから』

「……その反面教師の名前は聞かないでおくよ」

『藤杉 優と言うんだけどね』

「聞かない言ってんでしょうよ」

『ごめん、思わず口に出して言いたい日本語だったもので』

「ホント、相変わらずだよ……」

『褒め言葉と受け取っておくよ』

 呆れた面持ちで、しかし貴蕎の昔から変わらない性格とこんなやり取りに、微笑ましく思う気持ちを湧いてくる。かくも日常とは素晴らしい。

『……理由は聞かないと言ったけれど』

 少し間が空いて、貴蕎の声に真剣味が増す。

『もし何か抱えているというのなら、ボクに迷わず相談してほしい』

 貴蕎はこういうことを普通に言えるやつだ。

「言われずとも。協定があるからな」

『そう、協定だ』

 ーーー如何なる問題も抱えず、共に背負うこと

 幼少期。僕を取り巻く環境が著しく変化したあの頃。

 同い年なのに、明らかに年不相応に大人びた貴蕎が、僕と結んだ協定。子どもの言うそれは、単なる口約束程度のものであったが。

 どんな小さな悩みでも、相談して、重さを分け合って、共に解決していこう。

 あの時僕は、確かに貴蕎の言葉に救われたのだ。

 子どもながら単純だったと、一蹴してしまえばそれまでだけど。

 今こうして僕が僕としていられるのは、神奈毬 貴蕎(かなまり ききょう)、この人がいたからだと断言できよう。

「いつかに言っただろう。協定を、僕から破棄することはあり得ない。破棄されることがあるとすれば、それは貴蕎から手放された時だ」

『ボクもいつかに言っただろうけれど、ボクから破棄することもあり得ないよ。仮に破棄されることがあるとすれば、それは優からである、と』

「……やっぱり、変わらないな」

『うん、変わらない。変えなくてもいいことだよ』

 思わず苦笑しながら。電話口の向こうでも、そうする貴蕎の姿が、今度こそ手に取るように分かる。

『優が大丈夫と言うのなら、きっと大丈夫なのだろう。これ以上の詮索はしないよ』

「ありがとう。……じゃあこの際だから、逆に僕から聞くけど」

『うん』

「朝の一件は尾を引いていないかい?」

『忘れてくれと、ボクは言わなかったかな』

 しんみりした空気が一変、貴蕎の声色にあからさまな圧が含まれた気がした。

「正直今の今まで忘れてた。それは本当に。貴蕎と話してたら不意に、ね」

『なら、敢えて口にせずとも良いのではなかったかな。傷心に塩を塗る行為は感心しないね』

「つくづく思うけど、よくあんなガバガバ管理で、世の目を掻い潜って来られたのかが疑問でならないんだけど」

『ボクはボク、ありのまま振る舞っているつもりだよ。つまり、その姿こそ世の目が映す姿だと言うことだよ』

「博識高く、大和撫子。謂わば文武両道にして容姿端麗というラノベありがちな設定の生徒会長様が、まさか落とし穴に落ちて、ウサギと戯れながら、半べそかいてる姿なんて想像しようにもできないわな」

『優ッ!』

 怒りと羞恥が混じった叫び。続いてボフンッ、とクッション性のある音。さては枕に顔を埋めたな。

『忘れて、忘れてください。いや、忘れなさい、忘れろと言ったはずッ!』

 ギシギシ、ベッドのバネが軋む音とともに、ブツブツとくぐもった訴えを重ねる。僕もまた想像上でしかないが、ベッドの上で枕に顔を埋めて足をバタバタさせる、典型的な黒歴史発掘リアクションをするくらいなら、もう少し普段の振る舞いを考慮すれば良いのにと思ってしまうのだが。それまで言おうものなら、ベランダを伝って乗り込んで来そうなので閉口。


 今朝、学校一のトラブルメーカーこと百合乃 氷命(ゆりの ひめ)が、ウサギ小屋をパレード会場にしたのは前述した通りだ。

 問題はその後、ただトラブルを起こして「はい、お仕舞い」などと生温い結果に繋がるわけもなく。これまた恒例だが、氷命は自分で装飾したウサギ小屋の後片付けを命じられた。

『お片付けまでが遊びだものね!』

 とても良い笑顔で氷命が片付けを始めた姿を見て、さて教師は何を思ったか。注意すべきだが、片付けをテキパキこなしている氷命の作業を中断してまで、という葛藤が、そのなんとも言えない表情に表れているのを僕は横目で見てしまった。

 それはともかくとして。

 そんな氷命の後片付け。勿論監視は必要である。

 そこで矢面に立たされたのが、マクミラン高校の現生徒会長である神奈毬 貴蕎、その人だった。

 当たり前の話だが、片付けは氷命が一人で行っていた。見張り役として生徒会長が近くで待機している状態で。

 しかしそこで何事もなかったら、氷命がトラブルメーカーとして学校内で名を轟かせることも無いだろう。

 何故ならすぐ側に「生徒会長」などという、とても楽しそうな悪戯対象があるのだから。

 なんとなくだが、僕は予感をしていた。貴蕎の本来の性格や姿を知っているからだ。

 教室、自分の机に座り。さて何分掛かるかな、などと性格の悪い考えを巡らしていると。

 案の定、制服のポケットにしまったスマホが震えたのは、教室に着いて15分程経った頃だった。

「助けてくれ、優ッッ!!」

 おそらく半泣きしているのであろう、生徒会長の若干震えた声のSOSが、耳に当てたスマホのスピーカーから響く。

 第一声を聞き、「お、結構追い込まれてるんだね」なんてのんびりした感想を溢してしまったことは、後日、本人からピコピコ怒られてしまう案件ではあった。

 僕が現場に着いた頃には、朝の騒々しいパレード装飾は綺麗さっぱり片付けられていた。あの短時間でどうやって片付けたのだろうか、疑問に思えてしまうくらいに、それこそ何事もなかったかのように、ウサギ小屋や木々の落書きは消えていた。

 代わりに、ウサギ小屋の前にポッカリと口を開く大きな穴が一つ。

 落ちないように気を付けつつ穴を覗くと、そこにはやはり半ベソ状態の生徒会長が、僕を見上げて立ち竦んでいた。何故か、足元に大量の兎を蔓延らせて。

「……随分とメルヘンな状態だね」

「それをボクが楽しんでいるように見えているなら、今日は学校を休んで静養した方が良いよ」

「あ、そう。貴蕎(ききょう)さんがそう仰るなら、別にそれでも良いけど」

「待って、嘘、違います、ごめんなさい! 助けてください!!」

 足が動かせないために、半泣きで腕だけをぶんぶん振って助けを乞う生徒会長ーーー神奈毬 貴蕎(かなまり ききょう)の姿は、あまり他の生徒には見せない方が良いと思ってしまうくらいには滑稽だった。

「そもそも……この状況は一体何なのでしょう?」

 至極当たり前な疑問を投げ掛けたつもりだったのだが、それに対して貴蕎はう~ん、と悩む仕草を見せた。

 曰く、罰として氷命がひたすら壁や地面に描かれた……ナスカの地上絵?(氷命曰く動物達が遊んでいる絵)らしきものを消していた……と感じた生徒会長は、一瞬の気の緩みを見せてしまったのだという。そこから悪戯劇第二部スタート。

 不意に氷命の姿が見えなくなり、焦った貴蕎が先程まで氷命がいた場所に近付くと、突然の浮遊感、次いで落下。身長の2倍はありそうな落とし穴に落ちてしまったのだと言う。普段はテキパキと色々なことをこなす貴蕎だが、流石に想定外の出来事に思考回路が停止してしまい……その隙に、頭上から1羽の真っ白な兎が落とされる。

「これこそまさに、『不思議の国のアリス』ねッ!」

 自分の真上から氷命の声が聞こえてくるため、氷命を叱責しようと貴蕎が上を見上げると……。

 1羽の兎が落ちてくる。続いて1羽。続いて1羽。次々投げ込まれる兎達が足元を埋めつくし、穴を登ろうにも壁面は見事に磨かれたようにツルツルと滑って登りようがなく。次第に兎を踏まないためにも足を動かすことすらできなくなり……。

 そして、今の状況に繋がる、と。取り敢えず展開が早すぎて、僕の頭のキャパシティーが限界を迎えそうである。

 なんにせよ、一先ず貴蕎を救出することだけを考えよう。とは言え、救出するにも考えなくてはならない。貴蕎だけ助けても、では中の兎は放置のままなのかと言われれば、それはそれで問題な訳で。

「悪いけどさ、先に兎を僕に寄越してくれないかな」

「ボクより兎の方が先なのッ!?」

「兎を救助するために、穴を出た後にまた穴に入り直す気かい」

「その役は優に任せるよ」

「ミイラ取りがなんとやらは要らないです」

 コントをしているのではないのだから。普段なら気の利いた人徳者である貴蕎だが、切羽詰まると途端にポンコツになってしまう。それは昔から変わらない表情であるが、未だにその一面が周知のものとなっていないことに奇跡すら感じる。

 とにもかくにも、普段は毅然とした態度で生徒の代表として動く彼女だが、やはり氷命相手となると手に余るようだ。いっぱい食わされ、逆・不思議の国のアリスを疑似体験しているのだから、もはや笑うしかない。当の貴蕎からしたら笑えない状況ではあるだろうが。

 なんにせよ、早く救出作業を終わらせてしまおう。生徒主体の放任主義なマクミラン高校であっても、さすがに大穴が学校内に掘られ、その中に生徒会長が兎にまみれて半泣きしているなどという惨状を見たら、朝のパレードよろしく、もう一騒動起きてもおかしくない。

「ウサギ、放れる?」

「できるけど……ちょっと可哀想」

「言ってる場合じゃないから」

「そう、だね」

 貴蕎が足元のウサギを一羽、その手に抱き抱える。じっとその手のウサギを見つめ、きゅっと細い眉根を下げた。

「……分かった、ちょっと網か何かないか、探してくるよ」

「っ! あ、ありがとう……」

 貴蕎はパッと顔を上げたかと思うと、無邪気に破顔した。

 なんとも言えない気持ちになり、僕は良さげな得物がないか探しに立ち上がった。


 結局その後は、生物部の長網を借りて、ウサギを丁寧に救助。そして貴蕎は梯子を落として救出、と。

「ホント、百合乃さんはよくやるよ」

『あの後、捕まえることもできなかったからね……』

 騒動二幕目を終え、貴蕎は底知れぬ怒りをもって氷命に会いに行ったのだが、先生に捕まったり、タイミング悪く入れ違いになる等、奇跡的なエンカウント阻止をされたのだと言う。

 散々今までトラブルを起こしてきて、未だに強烈なお灸が据えられていないというのは、ひとえに氷命自身の悪運の強さが味方しているのかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えつつ、また貴蕎のイメージが他生徒に美しく彩られているのも、貴蕎の悪運の強さ故なのだろう、とも思っていた。

『……何やら失礼なことを考えていないかい?』

「まさか。さすがは貴蕎だなって、思ってただけだよ」

『ふむ、つまり失礼なことを考えていたというわけだな』

「ばかな。僕の言葉のチョイスは間違っていなかったはず」

『どれだけの付き合いだと思っているんだい。優のふとした時に躊躇わず伸ばしてくれる手は、優の美徳だと思うけれど。いらない言葉を敢えて重ねる点は、悪徳としか言えないよ』

 まったく、と。貴蕎の呆れた溜め息に、僕はカラカラと笑った。

 僕は大衆の目に映らない、貴蕎の姿を知っていて。そこに優越感は無い、と言えば嘘になるかもしれないけど。それでも、腹を割った話ができる、数少ない友人であることには間違いはない。

「……っと、結構長く話し込んじゃったな。ごめん、時間取らせて」

 惜しむ気持ちはあるけれど、ある程度の特別な関係と信じて、僕は躊躇わず話を切り上げた。

『いや、優が発散できたのなら良かったよ。最近は、なかなかこうして話す機会も少なくなってきていたからね』

「不思議だよね。お隣さん同士だってのに」

『それは……優次第な気がするけれどね。……まだ、カーテンは開けてくれないのかい?』

「……ん。その内、かな」

『そうか』

 貴蕎の優しい声が、スピーカーから流れる。この際で言えば、深く突っ込まない所が、貴蕎の美徳だ。

「それじゃ、お休み」

『うん、お休みなさい』

 僕はスマホから耳を放し、未だ閉められたカーテンに目を向ける。この向こうに、通話の相手がいる。近いはずなのに、遠くに感じてしまう。やはり貴蕎の言う通り、僕次第なのだろう。

「……やれやれ」

 大きく溜め息を吐き。

 風呂に入ろうかと、スマホをベッドに放ろうとしーーー

「……?」

 その画面を見て、まだ通話が切れていないことに気がついた。

「……貴蕎?」

 ゆっくりとスマホを耳に当てる。貴蕎も僕と同じく、ただ相手が切るだろうと思い込んだからの現象なのかもしれない。

『…………』

 やはり無言だ。おそらくスマホを放置し、貴蕎は去ってしまっているのだろう。

 そう思い、今度こそスマホの通話切断ボタンに指を伸ばす。


『…………優ッ!』


「っ!?」

 突然、大音量の声が響く。思わず落としそうになるスマホを持ち直し、僕は訝しげに返答した。

「ど、どうした?」

『あ、あの……』

 僕を呼んだ声とはうってかわって、今度は消え入りそうな声で、貴蕎は次の言葉を紡げないでいた。

 何かを言いたいのだろうが、どう言ったら良いのか分からないのか、それとも言い出しづらいことなのか。

 少し考え、貴蕎が言いたいことなど、ぱっと思い付くわけもないと悟る。

 だからこそ、先程貴蕎が僕に与えてくれた評価を無駄にしないためにも。

「……貴蕎、明日は朝から生徒会の仕事?」

『ぅ、え? い、いや、ないけ、ど……』

「そっか。なら、良かったら久々に、一緒に学校行かないかい?」

『え……』

 僕の誘いに、すぐの返答は無く。沈黙が続けば続くほど、僕はとんでもない過ちを犯してしまったのかと不安に駈られる。

 さてどうしたものかと、次の言葉を考えあぐねていたときだった。

『……く』

「はい?」

『い、行くッ! 一緒、明日、学校ッ!』

 言語野に何かトラブルでも起こしているかのように、貴蕎は単語だけで肯定の意思を示した。

「そうか。ならーーー」

『悠歌ちゃんも! 悠歌ちゃんも一緒に行こう!』

「あー、そうだね。幼馴染み同士、良いかもね」

『そうだとも!』

 おかしなテンションになりつつある貴蕎であったが、一々ツッコむと、後で冷静になった貴蕎から理不尽なお説教を食らうことになるので放置するとして。

 しかし、そんな落ち着かない貴蕎からの申し出であっても、その案はとても素敵なもののように感じる。

 悠歌も僕と二人きりよりも、貴蕎がいた方が少しは気が弛むだろう。

「じゃあ、それでいこう」

『分かった。それじゃあ、遅刻しないようにね』

「分かってるよ。貴蕎こそ、ハリキリ過ぎてお寝坊なんてしないでね」

『……善処するよ』

 可能性があるのか。些か不安なところはあるが、貴蕎なら大丈夫だろう。

 再度、軽く別れの挨拶を交わし、僕は今度こそスマホの通話を切断する。

「……よしッ!」

 何故だか、無性に嬉しい気持ちが湧いてきて、僕は思わず拳を握り混んだ。

 そういえば、悠歌の確認も取らずに約束を取り決めてしまった。帰りが遅くなると言っていたが、まあ朝なら問題は無いだろうと。

 確認を後で悠歌に取るとして、僕はスマホをベッドに放り、お風呂に向かうべく部屋のドアノブに手を掛けた。

 ふと、閉ざされ続ける部屋のカーテンに目を向ける。

 僕次第。長年閉められ続けるこのカーテンが開く可能性が、もしかしたらあるかもしれない。

 日常と非日常がドッと押し寄せてきたことで、僕の何かが静かに動き出しているかもしれない。

 実に小説的。作為的なものとまではいかないけど、確かに何者かの力が働いて、日常に非日常が挟み込まれているかのような、そんな妄想。

 散々な目にあったにも関わらず。

 それもありかもしれない、と。僕は自然と思えてしまった。

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