第4話 現実とは
―――広がる黒炎は僕の視界を埋め尽くし、その勢いは際限無く膨張していく。
ここ2日分にも及ぶ走馬灯が終わり、尚僕の意識が健全であることは、もはや一種の拷問のようにも思える。なんなら、回想中に手っ取り早く燃やしてしまってくれたのなら、どれほど苦しみも無く終われたことでしょう。
悲鳴すら上げる間も無く。肌が爛れるようなヒリヒリ感に苛まれ、堪らず目をぎゅっと瞑り―――
しかし、一向に来るべく痛みは襲ってこない。それどころか、さっきまで嫌というほど感じていた熱さもどこかに去ってしまったかのように、温かな日溜まりの優しさしか今は感じない。
「優さん、何をしているのです、早く退ってください!」
僕を呼ぶ少女の声に、瞑っていた目を開く。
僕の眼前には、やはり巨大な黒炎。しかし直前までと違って、僕とその黒炎の間に、薄い水色のベールが聳えていた。まるでゲームみたい、などと悠長な感想がふっと湧いた。
「優さん!」
二回目の呼名、今度はもっと声量を上げて。
声の届いた背後を振り向こうとした瞬間。
「きゅっ!?」
脇腹に硬質な衝撃を受け、半開きの口から予想外の言葉と空気が漏れた。衝撃に抗うこともできず、猛烈な空気抵抗を感じながら吹き飛ばされる。さながらジェットコースターで地上擦れ擦れを滑走しているような感覚を味わっていると、ものの数秒後、衝撃は僕の体を紙風船のように空中へ放り投げた。
「わ、わ、はは」
人間、意味不明な展開が立て続けに起こると思考停止するというが、それがまさに証明された瞬間だった。
意味も解らず、何故か無性に笑えてしまう。
重力に従い、僕は空中に投げ出された格好のまま、素直にフリーフォールしていく。確実に死ぬ高さ。謎の化学反応を見せる炎に焼かれるか、地面に叩きつけられる西瓜を身体で表現するかの違いであったのか。僕の死は不変のものであったとは。もっと色んな本読みたかった。
「なぞして、悟ったような顔ばしとうと?」
地面に叩き付けられる衝撃は、思いの外柔らかかった。いや、硬い。でも予想より柔らかい。
「……どうも」
訝しむ男の顔が、上から覗き込んでいる。僕は、この男の屈強な腕により見事キャッチされたというわけだ。
お姫様抱っこ状態で。
野郎に。
野郎が。
……何故か取り返しのつかない過ちをしてしまった気分になった。
「サン君、援護お願い」
「よっしゃ!」
「あ、っで!?」
三度目の少女の声に呼応し、サン君と呼ばれた男は腕の中の僕を無造作に地面に転がすと、傍らにひしゃげ落ちていた街灯を掴んだ。さっき僕の脇腹を襲った硬質な衝撃は、この街灯に引っ掛けられたことから来たものであったと気付かされる。
「消します」
少女の落ち着いた声。それと同時に、黒炎を止めていた水色のベールが取り払われた。
「返すばい!」
続いて男が手にした街灯を、豪快にスイングする。
まるで野球ボールをノックするかのように黒炎の真ん中を叩くと、黒炎はそれこそボールのように、その軌道を放った魔王の方へと向けた。
「むっ」
しかし魔王は、何事でも無いように黒炎を掌で受けたかと思うと、そのまま手を握りしめる。それだけで、周りの全てを食い尽くさんとばかりに猛っていた黒炎は、何事も無かったかのように空気中に霧散し、消えてしまった。
流れるようなアニメの戦闘シーン、その一部にエキストラとして参加しているような。そんな感覚を、無様に地面に転がったまま、僕は茫然と見ているしかなかった。
「……キミ達、勇者の仲間、だよね」
魔王の視線が真っ直ぐ、少女と男に向けられる。その口調にはあからさまに拗ねた感情が含まれており、怖気が走る思いだ。
「魔王に応える義理はありません」
「そうばい」
反骨精神バリバリの少女に対し、とても素直に答える男。息が合っているのか合っていないのか分からない二人だ。
「ワタシの魔法をあっさり跳ね返すとか、普通の人間じゃ無理だから。というか、ここってはじまりの町だよね。まだ勇者一行の旅すら始まってないよね、何でキミ達そんなに強いのさ」
逆に、何ではじまりの町に魔王がいるんだ。
しかも「はじまりの町」って、まさかそれが正式名称なのか。町の名前としてどうなんだ、それは。
「秘密ばい」
「朝起きたら、なんか凄い力に目覚めてただけです」
少女、今度は話すのかい。そして男、そこは秘密なのか。何で絶妙に噛み合わないんだコイツ等。
更に何なんだ、「朝起きたら凄い力に目覚めてた」って。努力して、とか一時的な制約、とか、もっと何かもっともらしい返答は無かったのか。
僕が何も言えずただ道端の小石状態であることを良いことに、訳の分からない問答を繰り広げてくれる……魔王とおそらく勇者のパーティーメンバーズ。
しかし、おかげで少しだけ、考える力が僕にも戻ってきていた。
魔王、少女、男。視線だけを送り、自分の記憶と照らし合わせ……なんとか事態の理解を図る。僕はやはり、彼等を知っている。
姿は、挿絵という形で。
性格は、文章という形で。
おそらくこの状況の元凶であろう、猫さんの気だるそうな表情が、その手に開かれたハードカバーの書物が、僕の脳裏でちらつく。
僕がまだ幼少期の頃に読んだ「勇者伝説」と呼ばれる物語。彼等は、確かにその中の住人だったはずだ。
「ちぇっ、折角非行の芽を早々に摘み取ろうと思っていたのに、とんだ誤算だったよ。
……まあいいや。機会はいくらでもあるだろうし、勇者をぶっ殺すのはまた今度にしよう」
買い物忘れちゃったけどまた今度でいいや、位の気軽さで、魔王は呟く。
そのまま視線を地面に倒れる僕に向けると、魔王はさっとマントを翻す。それだけで、まるで最初からそこにいなかったかのように、魔王は喧噪甚だしい崩れた町の背景の中へと消えてしまった。
災難は去ったのだと、しばらくしてようやく脳が理解を始める。
瞬間、全身からぶわっと猛烈な汗が吹き出る。
僕は、もしかしなくても、とんでもない事態に身を置いているのではなかろうか。いや、置かされているのでは。
命のやり取りというものを、人生で初めて経験してしまった。願わくば、二度と体験したくない代物だと、魂に刻み付けたい。
「なんちゃって」
何一つの予兆も無く、背後から聞こえた少年のような声。そして強烈な圧迫感。
「ッ……優さんッ!!」
悲鳴にも似た少女の声とともに、僕を見るその表情をようやくはっきりと僕は瞳に映す。
少女と、僕の幼馴染みのーーー貴蕎(ききょう)の面影が、ボンヤリと重なった。
「このまま帰るわけないでしょ、無駄なことはしない主義なの」
少年のーーー魔王の声が腹の底へと響く感覚。
反射的に振り返ると、既にそのえらくぶっとい腕を振り下ろそうとする巨漢がいた。奇襲も躊躇い無く行う、流石魔物の王様。
少女は魔法の準備をしているのだろう。男は街灯を構え直してこちらに駆け出しているだろう。
僕の視界外の動きが、やけに肌で感じ取れた。
容赦無く、振り落とされる魔王の腕。あんなもので殴られたら、たんこぶどころの騒ぎではないな。
ひどく間の抜けた思考が、僕の脳を駆け巡ると同時に。
それは本能的なものだったと思う。
なんとか頭は防げないかと。魔王の腕と比べたら枯れた小枝レベルの僕の腕が、咄嗟に僕の頭を庇った。
拍子に、そういえば最初から握り混んでいた、手のひらの中にある硬い感触が、ふわりと僕の手から溢れ落ちる。
猫さんから無理矢理渡された、硝子細工の栞。
魔王の腕がまさに僕に直撃する寸前、栞が強烈な光を放ち始めーーーーーーーーー
「おかえりぃ~」
強い光に視力がやられながらも、耳はおそろしく間延びした声を拾ってくれた。次いで、鼻はむせかえるような本の匂いを捉える。
待てども訪れない衝撃。これで二度目だ。
元に戻り始めた視力をもって、ゆっくりと目を開く。
「楽しめた、かなぁ~。きっと、ユウ君も、一度は、夢見たこと、あったよねぇ~」
眠気眼で、じっと僕を見下ろす猫さん。
そうと認識したとき、どわーっと、息を大きく吐き出した。肩までに留まらず、全身で呼吸を繰り返す。いつの間にか呼吸することも忘れていたようだ。
おそらく酸欠状態の頭で、しかし思考はそれまで止まっていたものを巻き返すかのように動き続ける。
「僕は……今のは……本の、『勇者伝説』、の……」
肌で感じた日本ではない町並みと、それらが意図も容易く破壊される風景と。魔法と思われる現象、人間とは到底思えない風貌の存在、それらが対峙する構図。
現実離れ。全てが僕の、この世の常識を嘲笑っていた。
それを僕はまさに今、体験してしまったのだ。それがどれほど夢のような話で、またーーー
「……死」
ーーー恐ろしい経験であったか。
デッド・オア・アライブ、生死が隣り合わせの世界。あれらは『勇者伝説』という物語の世界の話。世界的に有名で、多くの言語で翻訳までされている王道ファンタジー。
それをVRのような疑似体験ではなく、現実として全身で感じてしまった。
「『現実は小説より奇なり』……優くんは、どう、思ったのかなぁ~」
「小説……小説? あれは、現実だった。僕は魔王にーーー」
殺されかけた。そう言おうとして、でもその言葉すら恐ろしくて。
「現実では、ないよねぇ~。だって、優くんが、体験したのは、『この子』、だからねぇ~」
猫さんは、愛しい我が子を撫でるように、優しくその手に抱えられた本を愛でる。その行為は決しておかしなことではないはずなのに、僕には背筋が凍る思いがした。
「現実じゃない、はずがない! だって、あの感覚は本物だった。町の喧騒も、炎の熱さも、人の温もりも……全部、全部!」
だからか、初対面である猫さんに、八つ当たりじみた物言いで突っ掛かってしまう。いや、元はと言えば猫さんの行動が生んだ出来事なのだから、一概に八つ当たりとは言えないかもしれないけれど。
「僕は死にかけたんだ! 魔王の腕が、まさに目の前に振り落とされて!」
脳裏に、瞼の裏にこびり付いた光景がフラッシュバックする。あの衝撃を偽物と判断するのは、少なくとも今の僕には不可能だった。
「……そう、現実。『此処』も、『この子』も、『この子の中』も」
『此処』は、僕らの住むこの場所、図書館。
『この子』は、『勇者伝説』という物語。
ならば、『この子の中』は……。
「こんなこと……。こんな、本の中に入るなんて……有り得ーーー」
有り得ない、はず。はずなのに、否定しきれない。当たり前だ。何故なら、僕は実際にこの身で体験してしまったのだから。
「……あまりにも、現実離れしてる」
「……『現実』って、誰が、どうやって、決めるんだろうねぇ~」
猫さんの言葉は、おそらく僕に向けたものではなかったと思う。まるで自問しているかのような響きに、僕は口を開くことができなかった。
「ごめんね、そんなに、優くんのことを、怖がらせる、つもりは、なかったんだけどぉ~。ただ、猫さんは、知って、もらいたかった、だけ、なんだけどねぇ~」
「知、る……?」
「優くんは、『この子』の、中に入って、どう、思ったかなぁ~?」
「どうって……さっき言った通り、現実離れしている、としか」
「そうじゃ、なくてねぇ~。優くんの、知っている、『この子』と、優くんが、体験した、『この子』……そこに、違いは、なかった、かなぁ~」
「そんなの」
それこそ、山程違いなんて挙げられる。自慢ではないが、『勇者伝説』の物語なら空で語ることができるくらいは読み込んでいる。
勇者ははじまりの町で、魔王討伐の使命を果たすべく、仲間と共に旅立つ。その時に一緒に旅立つのが、魔法の素質を幼い頃から大人に認められていた、勇者の幼馴染みの少女。彼女と旅をするうちにもう一人、力自慢の屈強な男が仲間になる。彼こそ、『サン』と呼ばれていた男だ。しかし彼の登場は次のシーン、つまり勇者と少女が旅立った、次の村での話だったはず。
僕が体験したとき、まさに場所ははじまりの町で。それなのに少女とサンが登場し、更には魔王すら登場していた。
魔王は確かに言っていたはずだ。
『お城で待ってたら、強くなった勇者が来ちゃうでしょ。弱いうちにぶっ殺しておこうかなって』
あの言葉を正直に捉えるのであれば、まだ勇者は旅立ってすらいない、最序盤の場面だったのだろう。
僕が知っている『勇者伝説』とでは、全くシナリオが違いすぎるし、展開もえげつない。
「タイトルは、同じ、シナリオは、違う……登場人物は、同じ、展開は、違う……」
猫さんはゆっくり、指を折りながら相違点を挙げてくれる。いや、おそらく折っているのだろうが、なにせ手が裾の中にあるため、動作で察することしかできない。
「……突然、なんだけれど、ここからね、優くんに、お願い、したいことが、あるんだぁ~」
「嫌です」
反射的に、拒絶の言葉が口から出た。
猫さんが栞を僕に渡してきた、あの時の雰囲気と、今の猫さんの雰囲気とが、あまりにも酷似している気がしたから。
しかし、そんな僕のあからさまな態度にも、猫さんは大層ご満悦な様子で笑みを溢した。
「まあ、話、だけでも、聞いて、ほしい、かなぁ~」
警戒心を解くためか、猫さんは手にしていた『勇者伝説』の本をそっと、受付カウンターの上に置く。
「……?」
ふと、その表紙に視線が吸い込まれてしまった。
本好きだからとかではなく、単純に違和感を持ったから。
「それ、本当に『勇者伝説』、ですか?」
表紙絵は確かに僕の記憶に残っている『勇者伝説』のものだ。ハードカバーの雰囲気に合わせて、シック且つ世界観を全面に表した風景画となっている。
しかしそこに違和感を持ったわけではなくーーー
「……タイトル」
『勇者伝説』という、シンプルな4文字で表されるタイトル。
猫さんが抱えていた本は、明らかに4文字以上が記載されているように見える。
「くふふ、さすが、だねぇ~」
堪えきれない様子で、猫さんは肩を震わせながらコロコロ笑う。
「それも、好奇心、だねぇ~」
言われ、はっとして僕は猫さんを見る。『好奇心は時に身を滅ぼす』、それをついさっき体験したばかりだというのに。早くも僕は、猫さんとの会話をそっちのけに、本へと意識を向けてしまっていた。
もう、関わりたくないと思っていたはずなのに。
「猫さんの、お願いはね、まさに、『この子』のこと……ううん、『この子達』のこと、なんだよねぇ~」
ふわっと、猫さんはその細い首を見上げ、ゆっくりと周囲を取り囲む莫大な量の本を眺める。
「先に、ネタバレ、しちゃうとね、此処、『猫さんの図書館』に、ある子達は、み~んな、その中に、入れちゃう、不思議な本、なんだよねぇ~」
何気無さそうに、とんでもない爆弾発言をしてくれる。とはいえ、なんとなく、そんな気がしていたりも。
この図書館は、どう考えても普通じゃない。そもそも立地から普通じゃない。司書の猫さんも、図書館内に納められた本も、僕が体験したなにもかも。
「本来は、どこにでもある、普通の本、だったんだけれどぉ~。……あ、本の中に、入れるのは、最初から、だけれどねぇ~」
そこで猫さんは困った風に眉間に皺を寄せる。
「ちょ~っとだけ、大変なことが、起きちゃったんだよねぇ~」
なかなか結論に達してくれない猫さんの言葉だが、その分、僕にも考える時間が沢山あった。
要するに、ここーーー『猫さんの図書館』にある本は、そもそもその世界に入ることができる不思議な本であること。しかし、内容が明らかに滅茶苦茶になってしまっているのは、後天的なものであるということ。
そこまでまとめ、やはりあまりにも荒唐無稽すぎる話だと、さっきの命のやり取りを通りすぎて尚、僕の心の冷静な部分が高まる熱を抑えつけようとしてくる。
「あなたは、何者なんですか?」
アニメじゃあるまいし、こんな質問をする日が本当に来ようとは夢にも思わず。しかし、自然と口から出た言葉はやはり、そんな飾り気の無い純粋な疑問だった。
会話の前後があからさまにズレているにも関わらず、猫さんは寄せた眉をすっと戻すと、全てを察したとばかりに、ニンマリと笑みを作った。
「猫さんは……猫さん、だよぉ~」
ふざけている、ようには見えなくて。それが尚更、僕の心の内を掻き回す行為に感じて。
モヤモヤした気持ちと、イライラした気持ちとーーー。
「僕に何をしてほしいんですか」
関わるなと、僕の中の天使が喚く。悪魔でさえ、口を出さずに傍観してしまっている。
「優くんに、お願い、したいことは、二つーーー」
そう言い、裾で隠れた両の手を僕に向けてくる。
「一つは、『この子達』を、元の姿に、戻してあげて、ほしいんだよねぇ~」
「元の姿……というのは、元のストーリーに戻す、ってことですか? 確かに僕は本を読むのは愛してますけど、書くことは不得手ですよ」
「くふふ、素敵な、告白、どうもぉ~♪ ……とは言え、その心配に、ついては、問題無い、かなぁ~」
「書かずに、どうやって?」
「ここに、ある、本は、どんな子、だったかなぁ~?」
カクッと首を傾げながら、猫さんは腕を広げてみせた。
「……まさか、本の中に入って?」
「その、まさか、だよぉ~」
嬉しそうに、口角をキュッと上げる。眼鏡レンズの向こう側にある眠気眼がキラリと光った気がした。
「無理ですッ! たまったもんじゃないッ!」
腕を、首を、とにかく振り回して猛アピールをしてしまう。
方法は定かではないが、本を元の姿に戻すには、その本の中へダイブせねばならないということ……つまり、あの地獄のような体験をまたしても繰り返さなければならないという。
そんなもの、命が幾つあっても足りない。
「無理か、否か、それは、置いて、おくとしてぇ~」
両手で右から左に物を移すようなジェスチャーを加えつつ、僕の訴えに耳を貸してくれない猫さんは、続けて説明を展開してしまう。
「実を、言うとね、今、『この子達』には、ストーリーが、無いんだよねぇ~」
言って、受付カウンターに置いていた『勇者伝説』を手に取る。
「ストーリーが、無い? でも、さっき僕は『はじまりの町』にいました。本来のストーリーでも、舞台は『はじまりの町』からスタートして……」
「それは、偶然、だねぇ~」
ほら、と。猫さんは『勇者伝説』の適当なページを広げたかと思うと、バッと僕に見せてくる。思わず身構えてしまったが、今度は光が溢れてくることはなく、しかし警戒して猫さんが示すページを見る。
「そんなに、怯えなくてもぉ~」
「お、怯えてませんよ。ただ……ん?」
言い訳じみた言葉を吐きそうになりながら、けれども続く言葉はなんとも間抜けな一文字だけだった。
それもそのはず。何故なら、猫さんが示してくれたページには、文字の一つ、挿し絵の一枚すら記されておらず。目が痛くなりそうな白だけが、そこには広がっていた。
「これが、『ストーリーが無い』、だよぉ~」
確かに無い。何も書かれていない。本来書かれているはずの文字が、何一つ。
「『この子』はね、設定を、換えられて、しまったんだよぉ~」
「設定?」
主人公は『勇者』という役目があり、仲間がいて、魔法使いや力自慢がいて、旅に出て、色々な経験をして……etc それら全て、『勇者伝説』という物語を支える設定群である。それが、その設定が換わっていると、猫さんは言うのだ。
「設定が、換われば、ストーリーも、換わり……でも、その、ストーリーを、書く人は、いないからぁ~」
設定が換わったことで、本来あるはずだったストーリーが無くなった。ストーリーを戻すには、それを綴る、謂わば作家となるべき存在が必要になる。
「『この子達』の、作家さんに、なってあげて、ほしいんだぁ~」
その役目を、僕に担えと……いやいや。
「でもそのためには、本の中に入らないと、なんですよね?」
「うん~♪」
「嫌ですッ!」
大変興味深い話ではあるが、やはりそれとこれとは話が別だ。僕はまだ死にたくない。死ぬなら本に囲まれて死にたい。……あ、でも本に押し潰されて死ぬのだけは勘弁。苦しそうだし。
「結構、魅力的な、お誘いだと、思うん、だけれどなぁ~」
「そう思うならあなたーーー」
「『猫さん』♪」
「……猫、さんが、その役をやったら良いじゃないですか」
ただならぬ雰囲気に圧され、恥ずかしさを堪えながらなんとか猫さんを呼ぶ。全身が痒くなる思いだ。
「そうだねぇ~……それでも、良いんだけれどねぇ~」
できない、とは言わず。やりたくない、とも言わず。
しかし猫さんは、今度は困った風に首をカクッと傾げた。
「『あの子』の、それから、猫さん達の、ためだから、ねぇ~」
「『あの子』って、どの本のこと」
猫さんが一体どれを指しているのか分からない。こんなに大量に本があって、『あの子』名称で判断が一切つかない。
普通の質問をしたつもりであったのだが、しかし猫さんは一瞬驚いたように目が震わせ、続いて面白いものを見つけたとばかりにニンマリと笑みを作った。とても、不快な笑顔だ。
「これはこれで、面白いねぇ~」
つくづく要点の捉えきれない言葉を紡いでくれる。ここまでくると、最早呆れた溜め息しか溢れない。
「あな……猫、さんの面白い点はさておき。それで、もう一つのお願いというのは?」
「お、結構、やる気ぃ~?」
「気になるだけです」
これも、好奇心なのだろう。
「く、ふふぅ~♪ 気に、なっちゃうんだぁ~。なら、仕方無いねぇ~」
嬉しそうに、『勇者伝説』を再度受付カウンターに乗せ、両手をプラプラ、謎の行動を取る。
「もう一つの、お願いはねぇ~……」
何故かそこで言葉を止める。眠そうな目は宙を漂い、果たして何を思案しているのか、さっぱり読めない。
「いやぁ~。多分、猫さんが、お願い、しなくても、きっと、優君なら、叶えて、くれそうかなぁ~」
「根拠の無い信頼はありがた迷惑なんですけど」
「根拠なら、あるよぉ~。猫さん、これでも、人を、見る目はある方……って、これは、さっきも、言ったねぇ~」
「だから、その根拠とやらどこにあるんですか」
「それはねぇ~……。優君が、優君だから、かなぁ~。
優君は、きっと、真面目な、性格、だよねぇ~。猫さんの、こんなお話、意味が、分からない、ながらも、ちゃんと、聞いて、くれる、からねぇ~」
意味分からないって自分で言いましたか、今。分かっててやってたのかい。
「その一方、興味が、向いたら、そこへ一途、だよねぇ~。それこそ、余所の、お家に、入っちゃう、くらいのねぇ~」
言われ、そういえば、ここはある意味不法侵入して来た図書館であることを思い出した。今更な感はあるので、敢えて反応はしないが、内心『やらかし』の四文字がグルグル飛び交っている。
更に言うと、僕の性格を見抜かれてしまってる点においても、猫さんの要求を拒絶する要因を潰されているような居心地の悪さを感じてしまう。
「でも、それが、今回は、良い結果に、なったよねぇ~。素敵な、出逢いが、できたからねぇ~」
「うん、僕は死ぬか生きるかの境をさ迷いましたけどね」
「猫さんとも、逢えたねぇ~♪」
「……っ」
ふわっと、猫さんはとてつもなく優しい微笑みを作った。思わず反応できず、僕は口をきゅっとつぐんでしまう。
そうだ、僕は逢いたいと渇望していたはずだ、あの猫に。その正体が目の前で謎の会話を展開する猫さんであったとしても。
不意に、猫さんの体を改めて眺めてしまう。
猫の姿の面影と言えば、猫耳と黒と白の髪くらい。余裕のある白衣を着ているが、猫の姿の時の、あの流れるような体つきは健在であったりするのだろうか。
「……猫さんの、お願い、聞いて、くれたらぁ~……」
僕の視線に気付いてか、猫さんは羽織った白衣の前面に手を掛ける。
「『見せて、あげようか?』」
「結構ですッッ!!」
急に、妖艶な響きを纏わせた声色に、思わずとびきりの効果音が付きそうな勢いで視線を剥がしてしまった。顔が熱くなる感覚に、羞恥心が後から体の奥より湧き出してくる。
「お、お願いは聞けませんッ! 僕は死にたくないし、何より訳が分からなさすぎて着いていけませんッ! さようならッッ!!」
恥ずかしさと、意味不明さと。
天使と悪夢が声を揃えて『ここだッ!』と叫びだす。
頭がぐちゃぐちゃにかき混ぜられながら、言うだけ言って、また本能に従って、僕は猛然と踵を返して図書館を飛び出す。
濃厚な本の香りから、濃厚な緑の香りが鼻を突く。それらも気にせず、とにかくここから離れてしまいたいと。入り口側に立て掛けておいた自転車に跨がると、一心不乱にペダルに足を掛けた。
振り返ることなく、図書館を後にして。すぐに手入れのされていない雑木林に突入するも、顔に、肩に、足に、草木が直撃することも厭わずに、ひたすらに足を動かす。
夜のカーテンが掛かる、まともな視界ではなかったはずなのに、雑木林を抜け出したのはあっという間だった。交通量の少ない車道、虫の音が煩いくらいに耳を突き刺す。
急ブレーキを掛けてから、肩で呼吸を繰り返す。どっと押し寄せる疲労感。そして、本当に今更ながら、恐怖心が体に追い付いた。
夢は夢でも、ナイトメアの類いを見て……見させられていた。
猫を追いかけ、図書館に迷い混み、猫が人になって、本の世界に入って、死にそうになって、本を直して欲しいとお願いされて……。
狂いそうな頭で整理をし、尚更狂いそうになる。
ライトノベルで語られる、主人公のような境遇だ。ここからハーレム路線を辿るのか、それこそ勇者のような超絶的な力で闘いに明け暮れる日々を過ごすのか。
一度は妄想に耽ったこともあったけれど、僕にはこの状況を「やれやれ」などと嘆息しつつ受け入れることも、「オレが世界を守る!」などと正義感に駈られて奮い立つこともできそうにない。そんな人生は送ってこなかったし、そもそも世界線が違いすぎる。
要するに、妄想の世界だったのだ。それが、現実に起きてしまったという話。
実体験して、やはりあれは創作のものだな、と感じさせられてしまう。少なくとも、僕には簡単に受け入れることなんてできそうもない。おそらく、この先どんなに時を経たとしても、この考えは変わらないだろう。
「……帰ろ」
日常に戻ろう。戻りたい。
帰ったら、きっと悠歌が怒りを露にして待っていることだろう。それでも良い。むしろそれが良い。僕の日常だ。悠歌に怒られても良いや、なんて思える日が来ようとは。
苦笑いを溢して、意識から無理矢理さっきまでの出来事を忘却して。
逃げるように、僕はペダルを漕ぎだした。
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