第3話 猫さんの図書館

 氷命と別れ、いよいよ周囲も暗くなり。タイヤが回る度に点滅するライトが行く先を僅かに照らしてくれる。

 本を仕入れたこと、氷命と話をしたこと。色々なことが立て続けに起こり、頭はフワフワとした形のない心地好さでいっぱいだった。

 そうして快調に走っていた僕の視界に、ふと。

 それは気のせいであったかもしれない。空似であったかも。

 美しい流線を描く腰使いで、一匹の小動物が雑木林の中に入っていくのが見えたのだ。

 瞬間的に、僕は進路を雑木林の方へと向ける。

 あれは、あの存在感は、間違いなく昨日出会った猫だ。黒毛の中に揺らめく白毛のある、あの猫に違いない。

 日が落ち、ライトが無ければ前方を確認することすら危ぶまれる状況であるにも関わらず、僕には謎の確信があった。

 しかし近付いてみたはいいものの、この後はどうするか。僕はその場でたたらを踏んだ。

 猫と思しき動物が入って行ったこの雑木林は、僕の地域では割りと有名だ。鬱蒼と生い茂る木々は日の光すら遮断する程に濃く。誰かの所有地なのは間違いないだろうが、手入れらしい手入れがされた様子はここ10年以上は見かけていない。面積としてはそれ程広さは無く、正直子どもが簡単な探検ごっこをするにはもってこいな場所である。ただ、先程言った通り、誰かの所有地であることは違いなく、さすがに高校生にもなり、物事の分別がつく年齢である。「野良猫を追い掛けて不法侵入しました」なんてバカ丸出しな話が通るはずもない。

 この奥に行けば、あの猫とは会えるのかもしれない。ならば、こんな暗くて足元も見えない時でなくても良いかも。

 そんな言い訳が頭を過った時。


「おいで」


 耳元で聞こえた、僕を誘う声。甘過ぎない優しさを感じさせる女性の声だ。

 弾けるように振り返る。そこには夕刻の闇だけが広がり、声の主と思われる人の姿はどこにも無い。

 もう一度、雑木林に目を向けた。風に揺れ、ザアザアとさざめく木の葉の音が、やけに耳を突いた。

 ゴクリッ、と。生唾を飲んで初めて、僕は緊張した身体に気が付いた。

 たかが猫一匹。しかしこの緊張感は、人の敷地に無断侵入することから来るものではない。

 この先にある何か。僕はそれが知りたい。

 ふと、氷命の笑顔が脳裏に浮かんだ。氷命のことを言えないくらいに、僕にも人一倍の好奇心が宿っているのやも。

 苦笑したい気持ちになりながら、僕は意を決したように、自転車を手で押しながら、雑木林の中へと足を踏み込んで行った。

 風に揺れる林の声に掻き消されながら、どこかでシャランーーーと、涼しげな音が聞こえた気がした。


 手入れ不届き故に、雑草が生い茂る道無き道を掻き分けながら、僕はスマホを自転車の前籠に括り付け、ライトで前方を照らす。

 雑木林に入り、僕はあまりの暗さと虫の量に早速後悔をしていた。

 まだ蚊が活発になるような時期ではないが、羽虫の数は尋常ではない。目の前をブンブン飛び回られると、まともに息すら吸えない。終始眉間に皺を寄せながら、ひたすらに目的地の無い林の中を歩き続ける。

 とにかく、まずはあの猫を探そう。そう思うが、それもまた無謀な気がする。草木が密集し、日も落ちて視界も無いこの状況で、黒猫を探そうなどと……広大な砂漠の中から特定の小石を見つけ出すが如く難易度だ。

「痛っ、ぶッ!?」

 足元ばかりに気を向けていたところに、今度は顔面から茂みに突っ込んでしまう。よろけた拍子に、押していた自転車が音を立てて倒れる。籠に括り付けていたスマホが外れ、地面を滑っていった。

「……何やってんだか」

 溜め息混じりに呟き、地面を転がるスマホに手を伸ばした。

 そこでふと、スマホのライトが照らす先に、別の明かりがあることに気が付いた。あの明るさは、どう見ても人工的な光だ。

 スマホに傷が付いていないか確認することも忘れ、僕は自転車を起こして光の方角へ足を向ける。

 光が近付くに連れ、木々のざわめきが静まっているような気がして。それなのに、風が頬を撫でる感覚に目を細めながら。

 吸い寄せられるように歩を進めた先に、それはあった。

 手前に聳える鉄格子のような鈍色の門扉、敷地を囲むように設けられた背の高い塀、玄関へと続く広大な庭には千紫万紅の花が咲き乱れている。更にその先にあるは赤茶の煉瓦を基調にしたお屋敷で、外から見える窓には色付き硝子が嵌め込まれており、中からの光を幻想的に外へ映し出していた。お屋敷なのに煉瓦造りというお洒落感漂う雰囲気。見た目で言えば海外のお城の背が低いバージョン、といったところだろうか。

「……わぁ……」

 思わず口から溢れた純粋な感嘆。

 こんな雑木林の中に、いつの間にこんな建造物が建てられたのだろう。噂でも聞いたことはない。これほどの立派なお城なのだから、もっと話のタネとして挙がっても良さそうなものなのに。

 しかし、見るからに違和感のある建物だ。見た目を気にしているのかいないのか、とにかく周囲の手入れのされていない雑木林と比べて、明らかに浮いている。

 ……猫は、このお城の中だろうか?

「でもさすがに……さすがにこれ以上は……無理だわな」

 門扉に近付き、中を覗き込む。人の気配は無いが、明かりが灯されているということは、確実に誰かがいるのだろう。

 不思議なことに、門扉の周りにインターホンや内部の人へ連絡をやり取りする機器が備え付けられておらず、暗くて定かではないが、パッと見てカメラのようなものが備え付けられているようにも見えない。これではお客さんが来たときに、どうやって対応するのだろうか。一応、郵便受けのようなものがお城の入り口付近に備え付けられているのが、屋内から溢れる明かりを頼りに薄っすらと確認できる。

 ……入っちゃおっかな。

 脳内で天使と悪魔が口論を始める。ただでさえ人の敷地内に土足で踏み込んでいる、その上で更に罪を重ねていくのか。しかしここまで来てしまったのだから、罪を重ねても厚みに大差は無い。

 あーだこーだと思案に耽っていたが、長い戦いの末、天使が僕の好奇心の大きさについて非難し出してきた。大きすぎる好奇心は身を滅ぼす。

 というわけで、僕は悪魔の言う通りに門扉を開いて奥へと進んでいくことを決めた。やっぱり気になるものは気になるし、僕から好奇心を捕ったら何が残るのかと。

 とは言え、さすがに緊張感が全身を強張らせていた。もし家人に見付かったらどうなるか。警察のお世話になるなんて御免だ。いや、最悪のケースとして、この建物が所謂ヤの付く怖いお兄さん達の所有物だとしたら。それこそ、僕は明日の朝日を拝めるだろうか。

 そんなことを思い、さて門扉に手を伸ばした矢先だった。

 ギキィィィー、と。軋む金属の音を立てながら、鈍色の格子門がゆっくりと両開きしていったのだ。

 手を近付けると自動で開くタイプの門かな、なんて感想は湧いてこない。どう見ても鉄の塊でできた門は、そこに電気が走っているようには見えないし、そもそもセンサーらしきものも見当たらない。

 しかし、実際に自動で開いてしまったことは事実。原理は理解できないが、なんかスゴい科学の力か何かかなー、程度で思考停止することにした。

 ともあれ、開いたということはお招きいただいた、という認識で良いのだろう。これが仮に自動タイプの門扉だったとしても、誰でも入れる仕組みにしているのが悪い。つまり誰でもウェルカム、ということでファイナルアンサー。

 これほどまでの屁理屈があるかと脳裏で天使がぼやいた気がしたけれども、悪魔と肩を組みながら門を越える僕にはもはや外野の声でしかない。いや、実際は脳内の妄想だけれども。

 勝手に開いた門を通り、とにかく真っ直ぐ進んでみる。目指すは視界の先に堂々と立つお城だが、そこに行き着くまでの中庭ですら、目を奪われる。色とりどりの花の咲き乱れは、あらゆる四季がそこに凝縮されているのではないかと錯覚すらさせるほどに見事なもので、花にはそこまで感心を寄せてこなかった僕でも、思わず立ち止まって眺めてしまいたくなるほどに優美な光景だった。

 ここが人の敷地内であることを忘れさせる中庭を越え、いつしか目の前には目指していたお城が佇んでいた。近くで見るとかなり大きな造りがされている。あっという間に辿り着いた気持ちでいたが、お城との遠近感覚を狂わせるくらいに、中庭は広大な面積を占めていたのだろう。

 お城の入り口に目をやる。立派な木製の木でできた扉だ。凹凸がしっかりと掘り込まれたそれは、職人が時間を掛けて作ったであろうことを窺わせる。

 ふと、門扉から見えた郵便受けと思われた箇所に目をやる。それは郵便受けではなく、扉と同じく木製の表札だった。


『猫さんの図書館』


「……………………図書館ッッッ!!!?」

 図書館ですとッ!? 僥倖と言わずして何と言うかッ!

 本好きを豪語する身として、図書館と聞いてテンションが上がらないわけがない。併せて、ここが図書館ならば勝手に敷地に入っても怒られない! ……個人的な所有物件でなければ。

 先ほどまでの緊張感や中庭の風景を見た感動などどこかに吹き飛んでいた。ここが図書館ならば、では覗いてみなくてはならない(?) 何故ならば図書館だから。図書館と謳っているわけだから。現に『猫さんの図書館』と書いてあるのだから。

「……『猫さん』って、なんだろ?」

 渾名だろうか。猫カフェ的な図書館を言っているのか。だとしたら、猫アレルギーの人は入れない。そもそも、本で猫が爪研ぎするような事件が起きてしまうのでは。

 訝しむ気持ちがふわっと湧くが、それもすぐに引っ込めて。とにかく入ろう。入らなければならない。

「お邪魔しま~す」

 躊躇い無く、木製の扉を一気に開け放つ。

 突如、本の濃厚な香りが僕の鼻孔を駆け抜けた。脳ミソまで到達したそれは、僕の脳内麻薬をここぞとばかりに量産させる。体温が異常に上昇する感覚に酔いしれながら、一歩図書館の中へ。

「ほ、ほほほぉ……」

 とてつもなく気色の悪い声が僕の口から漏れた、気がした。そんなことすら気にならないくらいに、口元がニヤけ、気分はどんどんハイになっていく。

 フロントロビーの段階から、壁という壁にギッシリ並べられた本棚、色とりどりの本。利便性を度外視した背の高い本棚が、王の凱旋を祝するかのように左右対照に並べられ、それが図書館の奥にまで続いている。外から見たときよりも遥かに広く感じる館内は、三階フロアまで吹き抜け構造になっているためか。本棚の半分より上部分は、確実に人の背丈では届きそうにないが、はて近くに足場となりそうなものが見当たらない。そもそも階段すら見当たらないが、二階より上にはどうやって行くのか。もしかすると奥に階段ないしエレベーターがあるのかもしれないが、造りとしては不親切だ。

 しかしそんな欠点は、図書館を舞台とした僕にとって些末な問題にすぎない。

 受付と思しき一画が入り口脇に設けられているが、そこには人はおらず。丸っこい文字でただ一言、「いらっしゃい~( ´-ω-)」とだけ書かれた厚紙が台の上に置いてあるのみだった。

 景観もそうだが、内装もなかなか違和感の多い図書館だ。どこか現実離れしているというか、さながらゲームの世界に出てきそうなステージというか。まあ、僕としてはそんな可笑しな風景すら、ワクワクの材料でしかないが。

 司書さんがいないので受付ができないが、そのうち来るかもしれない。

 そうとくれば早速、と、近場にある本棚に近付いた。この辺りはミステリージャンルのコーナーのようで、背表紙にはやたらと『◯◯事件簿』やら『◯◯殺人事件』といったタイトルが表示されている。ミステリーは僕が小学生頃に嵌まったジャンルだ。とは言え、まだおつむの弱い年齢だっただけ、細かい文字がズラズラ並ぶ単行本は読み切れなかった苦い思い出がある。そのため、児童が読むことができるレベルで書かれた本をとにかく読んでいた。おそらく、本に夢中になりだしたのはあの頃だったと思う。

 しかしこうして棚に並べられたミステリー本を見ているが、僕の見知ったタイトルが全く見られない。それなりに本を読む人生を送ってきた者として、ちょっと悔しくもあった。

 そんな中、取り敢えず何か読んでみようと、一番に目に入った、赤いハードカバーの本を手に取った。ズシリと確かな重さを感じながら、ゆっくりと表紙を開く。フワッと香る本の匂いに一瞬の立ち眩みにも似た感覚を得つつ、目次に目をやると、僕は思わず眉根を潜めてしまった。


『p.2~  犯人視点で始まるお話

 p.5~  主人公とお友達が事件に巻き込まれるまで(皆もっと明るい雰囲気の方が楽しいと思う)

 p.56~ ◯◯さんと××さんが死んじゃう! 犯人は△△さんみたいに書かれてるけどホントは違う』


 まるで落書きのような目次だ。ネタバレもてんこ盛り。そんな言葉がしっかりと印字されているということは、発行した時点でこの表現を使われていたという証拠なのだが……。

 嫌な予感がしつつ本文をチラリと覗いて見てみるが、僕は思わず本をそっと閉じてしまった。

 これは……これはミステリーという皮を被ったコメディーだ。もしくは作者の悪ふざけ。そうとしか思えないような幼稚な表現や文章構成が羅列されていた。ネタバレも序盤からふんだんに盛り込まれ、超展開のオンパレード。こんな内容でよくもまあ出版に踏み切ったものだと、むしろ関心すらしてしまう。

「……ふっ」

 思わず笑いが溢れてしまった。

 正直、僕としてはこんな本もありだな、と思っていたりする。そりゃ、ミステリーを読みたいと思ったときにこの本を見たとなれば、ぶちギレする人も多いだろうが。王道・覇道、どちらを貫いても良いし、なんなら文章構成や文章表現だって、緻密なものでも幼稚なものでも構わない。

 文章は書く人の心を映す鏡だ。その人の世界観、価値観、人生観、人間観 eta... 培ってきたもの、身に付けてきたもの……全てのものがあって、その文章が描かれる。

 文法上には問題があっても、作家として、物語として、その表現の方法に正解なんてありはしない、と僕は思う。それ故に、どれほど幼稚な文章だろうが、どれほど自己満足な文章だろうが、それが筆者の表現、心だ。

 僕は、そうやって人の心を見るのが好きだ。だからこそ本を好きになったんだ。

 とは言え、まさかいきなりこんな爆弾を手にしてしまうとは、なかなかの確率ではないか。いよいよもって、この図書館の本を読破してみたくなる。

 本を丁重に本棚に戻しつつ、そんな野望めいたことを考えているとーーー


「いらっしゃい~」


 おそろしく間延びした声が聞こえた。

 驚きながら声のした方向を振り向くと、そこには受付台、そしてその上に、見間違えようのない「あの猫」が、凛として鎮座していた。

 思考しようとする僕の頭に、しかし「?」マークだけが飛び交うのみで。

「……え~っと、どちらにいらっしゃいますか?」

 それだけを搾り出すように発する。声はしたが姿が見えない。まさか猫が喋りましたなどという絵本の世界なことがあるわけでもあるまい。

「ぅん~? 目の前に、いるじゃない~。君は、猫さんを、追い掛けて、ここに、来たんでしょ~?」

 ゆっくり、まったりとした女性の声。甘ったるくもなく、澄みきってはいない、そんな声。雑木林で僕を誘ったあの声と同じ。

 僕の目が悪くなければ、声と同時に猫の口がパクパク動いているような気がするが……いささかメルヘン過ぎる幻覚ではなかろうか。

「………………ああ、そっか~。ちょっと、待っててねぇ~」

 普通の会話にしては長い間を置いて、何かに気が付いたような女性の声。と同時に、黒猫はその身を翻すと、フワリと受付台の中へと下りていった。

 続いて受付台の中から姿を表したのは、黒猫……ではなく。

「こっちの、姿の方が、話しやすいよねぇ~」

 にへら、と笑顔を浮かべ。

 流れるような黒髪に白毛のメッシュが混じった美しい女性が、僕を真っ直ぐに見据えていた。

 僕は、狐に摘ままれたよな顔をしているだろうか。それとも金魚鉢の魚のように、バカ面さげて口をパクパクさせているだろうか。

 自分の置かれた状況が理解できず、また目の前で起きた現象すら理解できず。僕はひたすら、正常に動いているのか怪しい脳ミソを使って、事態の整理を図っていた。

「くふふふ……やっぱり、君は、面白いねぇ~」

 心底楽しいと言わんばかりに、女性は口元を隠して笑みを溢した。

「でも、もう少し、順応性があると、思ったんだけどなぁ~」

 声のノンビリ具合からは考えられない位の俊敏さで、グッと僕の表情を覗き見る女性。ギョッしながら、思わず僕は後ろに飛び退いていた。

「おぉ~、反応は、良いねぇ~」

 若干失礼だった僕の反応すら、女性は楽しそうだった。

 僕はようやく少しずつ落ち着いてきた頭で、一先ず声が震えないように意識しながら、女性に対して言葉を紡いだ。

「あなたは……人? 猫? なんですか?」

 言って、あまりにくだらない質問をしているものだと、頭の冷静な部分がツッコミを入れてくる。

「猫さんはねぇ~……猫さん、だよぉ~」

 どっちだ。

 僕のおかしな質問に、しかし女性は真面目に答えてくれた。いや、真面目なのかは甚だ疑問だけれど。

「入り口に、書いて、あったでしょ~? 『猫さんの』、図書館だ、ってぇ~」

 薄い笑みを浮かべる女性。やはりそこに真意を読み取ることができるだけの材料が得られない。

「猫、だけど、どう見ても人間にしか見えない、ですよ?」

 言って、女性の立ち姿を改めて見直す。

 見た目は線の細い学者、のように見えなくもない。ダブダブの白衣は彼女の手を隠して尚余りあり、裾は膝下程まで垂れている。白衣とというよりマントを身に纏っているようにすら見えてしまう。ズボンも末広がりのダメージジーンズを履き、これまた無駄に長い裾は地面を這ってしまっている。腰にはベルト代わりのつもりか、黒い紐がグルグルと幾回も巻き付けられており、僕の目がおかしくなければ、あの紐は所謂ブックバンドではなかろうか。小顔に濡れたような艶めかしい黒毛を肩下まで伸ばし、白毛のメッシュが彼女の右目を隠している。丸く銀色に輝くフレームの眼鏡を掛けたその眼は、今にも夢の中に落ちてしまいそうなほど微睡んでいる。

 そして、それらに向くはずの視線を一挙に引き受けるほどに存在感を示す黒い獣耳が、彼女の頭頂部でピコピコ動いていた。

 動いている、正真正銘。いつもなら「相当拘って作ったコスプレ道具ですね」とツッコんでいただろうけれど、先程からの言動から、コスプレ道具である方が疑わしくさえある。

「くふふ~♪ まあ、猫さんが、猫さんなのか、人間さんなのか、どっちでも良いよねぇ~。だって、例え猫さんが猫さんでも、人間さんでも、大きく物語が、動くわけではないからねぇ~」

 『猫さん』と『人間さん』を羅列されすぎて、話が頭に入ってこない。とは言え、最後に『物語』と言ったか。それだけは異様に耳に入ってきた。

「物語って何ですか? この世界は、神様の持つ本の中の世界で、僕らは登場人物の一部である、的な哲学を示しているわけではないでしょうけど」

「そういった考え方も、あっても良いとは、猫さんとして、思うけれどねぇ~。もしかしたら、そうである可能性だって、あるだろうからねぇ~。それを証明する方法だって、極一部しか、存在しないわけだからぁ~」

「……極一部、とは?」

「……知りたい~?」

 僕の質問に、一瞬猫さんの微睡む瞳がピクリと震えた、気がした。おそらく猫さんの驚いた時の反応なのだろうが、おそろしく分かりにくい。

 勿体振る猫さんは、緩慢な動きで受付台の中に入ると、恭しく一冊の本を取り出した。

 僕は思わず、「おっ」と声を漏らした。

「この本、知ってるかなぁ~?」

 猫さんは愛おしそうに手に持った本を撫でながら、カクッと首を傾げる。僕は当然とばかりに、大きく首肯してみせた。

「物語好きなら、知らない人はおそらくいないと思います。『勇者伝説』ですよね」

 『勇者伝説』とは、かなり昔に書かれたフィクションRPGだ。『これぞ王道!』と称される程に、その内容はとても分かりやすい。一人の勇者が始まりの村から出発し、様々な人と出会い、別れ、時に葛藤したり、大きな決断をしたり……それらを仲間と共に乗り越え、人間的にも勇者としても成長していく物語だ。最終的には敵の親玉となる魔王を討伐し、国を救うところで完結される。ゲーム、本……あらゆるRPGの原点とも言える作品だ。

「さてさて、さっき君は、この世界は神様の本の中か、否か、という話題を提示してくれたけれどぉ~」

 猫さんは『勇者伝説』をそっと開き、愛でるような手付きで一頁一頁、丁寧に捲っていく。

「物語の住人は、果たして、そんな考え方をするものなのかなぁ~。それこそ、作られた存在である、物語の登場人物が、ねぇ~」

「つまり、こうした考え方をしている時点で、僕達は本の住人ではない、ということですか」

「くふふ、それは、どうかなぁ~。それを、証明するなんて、それこそ、作者にしか……作者と同じような、立場の存在にしか、できないことだと、猫さんは思うかなぁ~」

 今一釈然としない、というのが本音の気持ちだった。猫さんが言いたいことと、僕が導きだしていること。決して的外れではないという感覚はあるけれど、中心は捉えられていない、そんな空虚な手応えを感じる問答だ。

「やっぱり、優くんは、面白い子だねぇ~」

 僕の何を捉えてかは解らないけれど、猫さんは心底そう思っているという様子で、コロコロと笑う。

「どうして僕の名前を知っているんですか?」

「それはねぇ~……………………優くんが、此処に居るから、かなぁ~」

 此処、とは、この図書館のことを言っているのだろうか。猫さんの発言もやはり空虚というか、意味があるのか否かの判断すらつきづらい。苛立ちとまではいかないが、僕の中で痒い所に手が届かない心境が続いていることに、落ち着かない気持ちが溢れてくる。

「好奇心は、時に力にもなり、時に身を滅ぼす」

「えっ」

 催促をしようとした僕だったが、不意に雰囲気がスッと変化した猫さんに、思わず二の句を飲み込んでしまった。いや、僕が固まってしまったのは、今まさに猫が放った言葉が、この図書館へ入るときに葛藤した内容と同じであったためか。

「これでも、猫さんの目は、鋭い方だと、思っているんだけれどねぇ~」

 しかしすぐに元通りの緩慢な雰囲気を取り戻し、猫さんは眠たそうな目を服の裾で擦る。

 次いで、開いていた『勇者伝説』のページを目次の辺りにまで戻したと思うと、そこに挟まれていた硝子細工のようなものを僕に差し出してきた。

「『現実は小説よりも奇なり』、ホントにそうなのか、確かめてみると良いよぉ~」

 白衣の裾、手があると思わしきそこに置かれた硝子細工。半透明で、緻密な猫の彫りがなされた、手のひら内に収まってしまう程に小さな長方形の物体。

 それが栞であると理解するまでに、少し時間を要してしまった。

 いよいよ、僕の脳は考えることを放棄しようとしている気がする。というか、放棄したい。

 この図書館の謎も、猫さんの謎も、僕の名前が知られている謎も、何一つ答えてもらえないまま、仕舞いに渡されたのは高価そうな硝子の栞が一枚。

 ただ。ただ一つ。

 この栞は受け取らない方が良い。受け取ってはならない。そんな理由も無い確信だけが、胸の中を満たしている。

「……そういえば、もう帰らなくてはいけない時間でした。この栞はまたの機会にーーー」

 一歩後退り、とにかく荒波立てぬよう努めながら。

 上手くもない愛想笑いを浮かべ、そのまま図書館の出入口に向かって歩を進める。

「『好奇心は、時に力にもなり、時に身を滅ぼす』」

 本日二度目の言葉。何故か、無性に惹かれる思いがしてならなくて。

 せめてその言葉の真意だけは、と。僕は改めて猫さんの方を振り返りーーー

 ポイッと、何でも無しに猫さんから放られた透明な物体。

 反射的にキャッチしてしまい、そこでようやく己の失敗に気付く。

「思った通り、好奇心は身を滅ぼし……優くんは、その好奇心の塊だねぇ~」

 猫さんの間延びした声が終わるまで待たずして、猫さんはその手に持っていた『勇者伝説』の一頁目を開き、そっと僕に向けていた。

 音は無かった。

 ただひたすらに、光という光が、向けられた『勇者伝説』から溢れてきて、僕を掴み込んだ。温かくも冷たくもないその光に拘束され、僕は声を何事か喚こうと口を開いた気がしたが、果たしてそこから空気を震わす文句は発せられたのか。

 グイッと質量の無い力に無理矢理身体が引っ張られる感覚が襲ったかと思えば、次の瞬間には踏ん張ることもできずに、顔面から猫さんへーーー正確には猫さんが持つ『勇者伝説』の本に向かって突っ込んでしまう。

 そのままぶつかる……ことはなく。

 不思議な浮遊感に身体が包まれ、更にはさっきまでいた図書館独特のひんやりした空気とは違う、暖かな日溜まりのような匂いが鼻孔を擽り。

「いってらっしゃい~」

 猫さんのノンビリした声が、妙に耳にベッタリと貼り付いて聞こえた。

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