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「ここなら良いよ。」

 昼頃に様子を見に来た家主に相談をした。

 手始めに部屋の用意したいっと声を掛けたら、一呼吸置いた後に二階の一部屋を案内してくれた。

 いくつか使われていない空室のうちの一室。私もここにきてから長くはなるが、入るのは初めてだった。

 それ以前に自室以外に立ち寄ったことがない。借りている身分だし、あちこちと見てられないのが実情だ。

「ありがと、とりあえず掃除はこっちでやるよ。」

 部屋を開け、臭い立つかび臭さとホコリ臭さ。

 少し広めの部屋に一歩踏み出せば床鳴り。二歩踏み出せば目の前にまとう塵の数々。ガラス窓も一部が欠け、隙間風が引っ切り無しに吹いていた。

 これではほとんど外だ。

「いいって事さ。ここが賑やかになるのは嬉しいものだからね。」

 借りる際に聞いた話をこの時思い出していた。

 この教会では孤児たちの世話や教育をしていたそうだ。旦那さんが孤児に勉学を教え、家主が食事の世話をしていたと。

 家主の瞳は遠い過去を観ている。懐かしく当時を思い返し、大きな口は細く弓形に微笑んでいた。

 少し瞳を伏せた家主。

「…さて、ちゃちゃっと片付けようかね。」

 そして、唐突に勢いよく吠えた。戦前の戦士が如く大きく口を開け笑い、長袖を腕まくりをし黒い犬毛を曝しながら、部屋の中へと踏み鳴らして入って行った。

「いや、掃除ぐらいなら」

「二人でやった方が手っ取り早いだろ?先生も仕事があるんだ、終わらせちまおう!」

 私はそれ以上何も言えず、箒一本片手に立ち尽くしてしまった。

 雄々しい咆哮はまるで目前の敵への威嚇。戦う戦士…、いや母だな。



    §



 あの臭いが住処に漂ってきた。

 二階のいつもの場所に少女はじっとしていたが、突然の臭いに身を震わせ、少女には無い体毛を震え立たせた。

 近付けばまた襲われる。反撃も無意味。

 逃げる、強大な奴に襲われたら逃げる。母から教わった。

「ぐるる…。」

 足音は立てず、低い声だけを一声上げ、少女は一歩二歩と身体を縮ませてすぐ近くの部屋へと逃げ込んだ。

 逃げ込んだ先は何もない部屋だった。

 男と家主が掃除をしている自身の部屋となる場所と同じく、扉を開ければちりじりとホコリが宙を舞い、一歩踏み込めば床は軋む。

 見知らぬ土地ほど怖いものはない。

 いつもならば我が物顔と勇み足で教会内を闊歩する少女も、周りを気にしながら重たい足取りで、一歩ずつ慎重を期してゆっくりと入る。

 部屋の中ほどまで恐る恐ると踏み込む少女。ふと視界の端、部屋の隅を横切る何かに目を向けた。

 ネズミだ。

 床に小さい足跡を残しながら、ゆっくりと進んでいたネズミも少女に気付いていたのだろう。少女が振り向いた瞬間、じっと真正面を向いたまま身を固めていた。

「ぐるる…。」

 まだ少女が野生に身を置いていた頃、母や兄妹たちと共にその日の食の為に狩りをしていた。

 目の前さえも見えない程の土砂降りであろうが、身を凍らせる程の雪の中であろうが狩りは行われていた。

 長い道程をへて、漸くと獲物に辿り着くこともあり、幼いながらにも苦労を少女はよく理解していた。

 その為か。

「…ぁあ!」

 腰を低く四つ足の獣の様に前のめりになり、じりじりと音を立てず脚の力に任せ、出鱈目に飛び掛かった。

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