雲は厚く太陽を隠す

14

 走ることは好きだった。

 風を浴びて野をいつまでも走る事が大好きだった。

 母は私よりも早く走る。きっと私よりも多くの風を感じていた。姉弟も私より早かった。彼らもきっと風を感じていた。

 私が真似をして前足を使って走っても遅い。とても遅いし、風を感じ取れない。

 だから、形の違う前足を使わないで、後ろ足だけで走ってみた。

 母から教えて貰った走り方じゃないけど、一杯走れた。気持ちのいい風も一杯感じた…。

 でも、今感じるこの風は…。大嫌いだ。

 

 有角の少女は思い返していた。ひたすらに走りながら、故郷の野原を。

 日の光は眩しく、どこまでも続く広大な野原。姉弟と一緒に小さな木を登ったり、追い駆けっこをしたりして遊んだ記憶。母から教えて貰った、走り方や狩りの仕方などを思い返していた。

 どれも楽しく、少女にとっては掛け替えの無い大切な思い出であった。

 しかし、そんな母も姉弟もいない。ただ一人捕まり運ばれ…。今はこの暗く湿った森をひた走っている。

 どうしてっと嘆き叫びたい気持ちを押さえ、腕に巻かれた「あの人」の髪の束を胸元に押さえつけ、ただ真っ直ぐに走った。

 木々の隙間を走り、草むらを蹴り飛ばし、眠る鳥獣が通った後に騒ごうとも、少女は振り向きもせずに逃げ惑った。

 何に追われているのか、どこへ向かえば良いのか、少女にはわからないでいた。ただ、楽しかった時の記憶を繰り返し何度も思い出し、怖く恐ろしいこの状況から気を紛れさせていたかった。

 不意に気がつけば狭い木々が目の前に現れていた。木々が行く手を阻み、回り込む様な余裕はなかった。

 足を止め道を変えれば良いはずだったが、少女にそこまでの有余はなかった。

 立ち止まれば捕まる恐怖がまた蘇る。それが恐ろしく、少女は走ることをやめられなくなっていた。

 闇雲に木々の隙間へと少女は飛び込んだ。頭に付いた二本の巻き角が木々に引っ掛からない様にと、器用に顔を横にし上手く走り抜けた。

 息を荒げながら、また一歩足を踏み込んだ時だ。踏み込んだはずの足が地面を捉えなかった。前を見なかったが故にか、深い溝が少女の足を引きずり込む。

 重力を失い、前のめりに転げ始めた少女。その眼前にとらえたのは、濁流に渦を巻きながら勢いを増して流れる川であった。

 今一度、急な傾斜の川岸を転げ落ち、そのまま氾濫する川へと身を投げることとなった。叫ぶ間なく少女の小さい身体は濁流へと飲まれて行く。

 以前、母から教わった泳ぎ方を真似て泳ごうと試みるも、少女の身体はただ水面を浮き沈みするだけであり、泳げる気配はなかった。

 呼吸が出来ず意識が薄れ始めた。気付けば足掻く手足にも力が入らず、次第に少女は激しい川の流れに巻かせる事となっていく。

 やがて、少女の意識は漆黒の先の見えぬ闇の中へと、深く沈んでいった。

 …しかし、その腕に巻かれた髪の束は決して離さない様にと、両手でじっと胸元に押さえつけていた。

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