13

 血まみれの石をそっと、傍らに大事に置いた。

 この白い石がなければ、檻が開く事はなかった。

 妖精人はそうとさえ思っていた。

「…はぁ…はぁ…。」

 呼吸を整えたくも、意識ももうろうとした自身には既に、その猶予もないと気付いていた。

 震える手。淀みなく流れ出る血。霞む視界。

 今に倒れてもおかしくはなかった。

「…はぁ…、お、おいで……。」

 しかし、彼女は手を差し伸べた。

 左手で檻の縁にもたれ掛かりながら、ゆっくりと檻の中へと手を入れる。

 檻の中では警戒し、唸り声を上げながら震える中身。

 無理もない。形相ともとれるであろう顔で、今まで鉄格子を叩き続けていた人が、手を差し伸べてきている。

 中身のすべき事は明確で明らか。

 敵意を剥き出しに、延びてきたか細い指に噛み付くだけだった。

「うぅっ!」

 妖精人は苦悶の顔を浮かべる。血は吹き出し、噛み千切る程に力は次第に強くなっていった。

「…大丈夫…だから…。」

 しかし、彼女は手を引く事はなく。

 左手を中身の頬へと、そっと触れた。

 血を滴らせ、触れた頬も赤く染まるも、彼女の柔らかな体温に、温もりに包まれた。

「もう…ここにアナタの敵は居ない…。

檻から出ても…大丈夫…。」

 言葉は通じてはいなかった。

 耳を傾けているが、中身には言葉の意味は理解できていなかった。

 しかし、血走る目が頬に伝わる柔らかい温度に緩められ、安堵に近い安らぎを頬から感じ取った。

 途端、パッと中身は噛むことをやめた。

 同時に妖精人の両手を押し退け、のそのそと檻の外へと出始めようとした。

「あぁ……よかった…。」

 身を起こし、膝を着いて中身の出る所を妖精人は待ちわびることとした。

 彼女には何千何万時間と感じたであろう。ただこの一瞬の為、石を振るい続けていた。

「………。」

 大きな火の手となり始める馬車を背後に中身…、少女は妖精人の前へと這い出て、すっと立ち上がった。

 炎の灯りに当てられ、その金色の髪は黄昏の色の様に光り、赤い瞳は夜闇の中にあっても尚明るく灯っていた。

 そして、少女の姿には似つかわしくない、山羊とも悪魔とも想像に易い、銀の巻き角が頭から生えていた。

「……かぁあぁ~…。」

 長く檻に籠っていたからか、それとも妖精人に安らぎを覚えたからか、少女は呑気な欠伸とともに身を伸ばしてよじらせてみせた。

 その途端、妖精人は少女に抱きついた。

「…ごめんなさい…!ごめんな…さい…!

私は…、檻の中の貴女を見て…」

 上ずった声を上げ、強く少女を抱き締める。

 力無く有角の少女にもたれ掛かりながら、尚謝罪を口にした。

「安心してしまったの…。

私は、まだ貴女よりは生きていられるって…。

まだ生き続けられるって…!」

 足が折れようとも、血を流そうとも、助けを断られようとも…、一縷の涙も流れなかったその瞳には、目蓋を腫らして止めどなく大粒の涙が流れていた。

「途端に…、命にしがみつく私が…。

醜くて…愚かに…なって…。

悔しくて…、悔しくて……!

気付いたら、助けなきゃって思っていて…。」

 謝り続け、泣き続ける彼女に、少女はただ困惑していた。

 意味も理由も、少女にはわからないでいた。

 しかし、不思議と突き放すと言うことは出来なかった。

「身勝手な贖罪だと、思う…。けど……。」

 妖精人はゆっくりと瞳を閉じた。これが最後の言葉になると、そう思っていた。

 勝手な言い訳を少女に押し付けてしまった。

 酷い姿も見せてしまった。

 でも…。

「…アナタは…もう自由よ…。

縛り付ける物も人も…。もう居ない…。」

 少女の赤い瞳と同じような、赤く腫らした目を拭い、妖精人はゆっくりと惜しむように、少女から離れた。

 困惑の表情を浮かべる少女を余所に、大切に置いていた白い石を取り上げた。

 何度も鉄格子に叩きつけていた為に、白い石は鋭角なカミソリの様にその形を変えていた。

 妖精人は何の躊躇もなく、その長い髪を一束にまとめ、鋭角に尖った石でノコギリで樹木を切り落とす様に何度も引き髪を切った。

 易々とは切り落とせず、髪は毛根から抜け落ちる様子もあった。

 しかし、妖精人はそれを止める事は決してなく、涙で潤んでいた瞳はただ憂いを帯びたままに手を動かした。

「…これは、お守り…。

どこかに…辿り着いたら、売りなさい…。

きっと、しばらくは食事に困らない位のお金になるから…。」

 切り取られた長い髪は御世辞にはキレイな髪とは言えない、乱れたものであった。

 しかし、妖精人はその髪を結わき一つの輪にすると、落ちないようにと少女の手首に巻き付けた。

 物珍しそうに少女は手首に巻かれた髪を天掲げて眺めた。炎の灯りに揺らぎ見えたその髪は、少女と同じく、黄昏の様な金色の光を見せていた。

「……向こうへ、走りなさい…。」

 ゆっくりと息を吐き、妖精人は震える腕を無理矢理に上げ、今尚も聞こえてくる足音の方向とは真逆を指し示した。

「…早く、逃げて…。」

 暗闇を更に黒く塗りたぐった様な暗い森の奥。当然と無垢な少女であれども怯えていた。

 少したじろぎ、身を固める少女に妖精人は声を荒げた。

「逃げなさい!早く!」

 突然の大声に驚き、少女は一目散と森の奥へと走る。うつ向き、その手に金色の髪の腕輪を抱え、瞬いた後にはすでに少女の姿は見えなくなっていた。

 

「…ごめんなさい…。」

 最後に嫌な想いをさせてしまった。

 でも、仕方がない。盗賊の足音はすぐ近くまで迫っていた…。

(…家族に…会える事を願っているわ…。)

 言葉にならない声を上げ、彼女は力が抜けていき肩を落とした。

 風が吹き、大火となる炎が大きく揺らぐ。その傍らで一つの小さな炎が消えた。

 生き延びる為に何もかもを捨てた彼女は、その身を最後には他者の為に燃やし尽くした。

 小さな檻をこじ開け一人の少女を救う事、ただその一つの為に彼女は命を燃やした。

 魂が抜け落ち、崩れ落ちる体は空になった檻へともたれ掛かる。

 …その表情はどこか優しく微笑む、母の様な笑みを浮かべていた。

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