第12話

 ヴェルニーナは心地よい気まずさに浸りながら、最後にリズリーからもらったアドバイスを思い出していた。彼女がいうには、なるだけ少年に話しかけてあげたほうがよいのでは、ということだった。


 リズリーは知恵遅れの可能性があるという話で少年をひきとったが、どうもそれは疑わしいと今日の出来事で思い直したらしい。ヴェルニーナとしてもうなずくところもあり、信用の置けるリズリーの見立てでもあるので、それに同意した。


 いずれにせよ、言葉を覚えられるのであればそれが一番いいのは明らかで、ならばこちらから頻繁に話しかけるのがよいだろう、ということだった。少年は言葉を解せはしなかったが、どうやら声を失っているわけでもないらしい。


 車の窓に流れる景色をみるに、馬車は思ったよりゆっくり進んでいてまだ到着までは間がありそうだ。

 窓の外に目をやりながら、さて、なにを話すべきかと思案する。


 年下の弟妹がいないヴェルニーナは言葉がわからない人間に話しかけたことがなかった。小さな子供と話した経験もほぼない。愛玩用の動物のたぐいも大抵はヴェルニーナにおびえてしまうことになるので、あまり触れ合ったことがない。


 どうしたものかと困ってしまったヴェルニーナは、ふと思いつく。


 そうだ、名前だ!


 なぜこんな簡単なことにすぐ思い至らなかったのか。だいぶ頭の具合が悪かったらしいと自覚した。しかしすぐに、その思い付きがとてもすばらしいものに思えて夢中になった。

 この少年に名前を呼ばれたい。そして少年の名前を教えてほしい。


 さっそく実行に移すべく少年に目線を戻した。ヴェルニーナの視線にあわせたのか、少年は同じ窓から景色を眺めていた。黒髪から覗くちいさな耳がかわいらしい。


 ヴェルニーナはつないでいた手を軽くゆすって注意を引く。少年はぴくんとして、すぐさま反応した。目線を窓から戻して、先ほどと同じくじっとヴェルニーナの目を見つめてくる。まったく自然な様子に後押しされるように、ヴェルニーナは話しかけ始めた。


「ヴェルニーナ」


 空いてる手で自分の顔をさして、自らの名前を口にする。

 少年はきょとんとした様子で目を瞬かせた。


「ヴェル、ニーナ」


 少年に目を合わせて、今度は音をくぎって、ゆっくりとした調子で繰り返した。

 すると少年はハッとしたように目を見はらせる。


「べる……ニーナ、べる、ニーナ」


 伝わった!


 少年と意思疎通ができたことに、ヴェルニーナは興奮した。初めて聞く少年の声は少し舌足らずでかわいかった。前半分の発音が変だけどそれがいい。とてもいい。


「ニーナ?」


 少年は、今度はヴェルニーナのほうをためらいがちに指差して、問いかけるように言った。興奮したヴェルニーナは、勢いそのままに大きくうなずく。そこはその発音であってます、という意味で。


 すると少年は納得したようにうんうん頷いて、ニーナ、ニーナと繰り返した。


 あ、あれ?


 どうも違うように理解されてしまったようだが、訂正する気がおきなかった。得意顔の少年が微笑ましくて、また耳に心地よい声を遮りたくもなかった。


 それに、ニーナって呼ばれるのも悪くないかも……


 だれにもされたことがない呼び方が、少年だけの特別なものに思えて。

 それはとても素敵なことに感じられた。

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