第十六話

叔父の椅子

「まあ、注意して周りをよく見る事だな」

 ビールの杯を傾け、真っ赤な顔の叔父は、にこやかにそう言った。

「あれだぞ? 運命の相手を見つけた時みたいな感じになるんだからな? 気を付けろよ? もう座らずにはいられない気分になってきちゃうんだぞ?」

 私もビールで顔を真っ赤にしながら、はあ? と返事をした。

「なんなんすか、それ? もしかして怪談っすか?」

 叔父は笑いながら、違う違うと手を振った。

「ばっかだな、お前。怪談ってのはな、例えば俺が某高速道路のあるパーキングエリアに行った時なんだが、そのトイレで――」

 叔父御得意のエロ怪談が始まり、正月恒例親族の飲み会は大いに盛り上がった。

 話の続きを聞いたのは、それから二年後。

 叔父が死ぬ前日だった。


 叔父は普通のサラリーマンだった。

 給料はそれほど高くなかったらしいが、常に誰かとデートをし、上司との折り合いはとても良く、取引先とも関係は良好だった。

 彼はともかく明るかった。

 人を笑わせることに生きがいを感じていた。

 私にとって、TPOをわきまえつつもギリギリを責めるその姿勢は、子供の頃は無邪気に笑えるものであり、大人になってからは時としてハラハラするものの大いに参考にすべき交渉術であった。

 その叔父から電話がかかってきて、今から家で飲まないかと誘われた。

 私は叔父の好物のビールを買い、自宅を訪問した。


 叔父は生涯独身だった。

 だが、私が想像する独身者――まあ、自分を参考にしているのだが――と全く違い、常に家は清潔で、無駄なものは一切なかった。冷蔵庫の中まできっちり整頓されており、床に塵一つ落ちていない。もしかしたら潔癖症なのだろうか? だとするなら、叔父が結婚しない、いや、できない理由はそこら辺にあるのではないか?

 ビールを開けて、スナックやコンビニで買ったつまみを食べながら、私はそう言ってみた。

 叔父は、ううんとニヤニヤしながら首を振った。

「いや、それはないな。ただ単に綺麗好きなだけだよ」

「へえ。じゃあ、家に来た女の人は何て言ってるんですか? スルー?」

「女性がこの家に来たのは、もうかなり前だな。ここ数年は、お前以外家に入れてないよ」

「ええ? だっていつもデートしてるでしょ?」

「おう。いつもホテル行ってるから」

「ああー……え? なんか理由があるんすか? もしかして家を汚されたくない、とか?」

「そうだなあ……女性を家に連れてきちゃうと結婚したくなっちゃうから、かなあ?」

 叔父はそう言って笑った。

「判る? この感じ?」

「なんすかそれ? ぜんっぜんわかんねーっすよ!」

 私と叔父は大いに笑って、ビールを飲み進める。

「そういや、お前、最近はどう? お金に困ってるとかないの?」

 そら来た、と私はにやける。

 これは叔父が私に小遣いをくれる前フリである。

 二十代の半ばであろうとも、小遣いは欲しいのだ。

「金欠っすよ! いつでもどこでも!」

 叔父はやれやれと真っ赤な顔を歪めたふりをする。

「おいおいおい! ガキの頃はもうちょっと控えめに――『うん……お小遣いほしいの』――とか言ってたくせによお! あー、やだやだ! いやな中年目前だぞ、おい!」

「か、金をくれよぉ! 叔父さんよぉ!」

「お前には失望した!」

 叔父が大好きな映画の悪役の演説を真似て、魚肉ソーセージをマイクに見立てて唸りだす。俺は悪役の名前を連呼して乾杯を重ねる。

 いつも通りのメチャクチャな状況で、気がつくと一万円を握りしめ俺はテーブルに突っ伏していた。

 いい感じの酩酊感と、まだちょっと我慢できる尿意。

 さて、根の生えた足をどう扱ってトイレに行ったものかとぼんやり考えていると、座椅子にもたれていた叔父が、そう言えばと小さく言った。

「お前に昔話した、椅子の話を覚えているか?」

「椅子ぅ……ああ、ええっと――お気に入りの椅子がどっかにあるって話だっけ? 運命の椅子とかなんとか……」

「おお、よく覚えてたなあ!」

 私は顔をテーブルから上げると、にやりと笑い、一万円を覚束ない手で下手くそに折ると、ありがとうございますと言いながら財布にしまった。

「で、それがどうしたんすか? あ、そういや続き聞いてなかったっすね」

 叔父は、それだよと缶を傾け、あれビール切れたなと私に笑いかけた。

「トイレ行くついでに、新しいの持ってきてよ」

「めんどくさいっす」

「いちまんえん」

「うっわ、マジかよ。えげつねえ」

「いいからトイレに行けよ。ここで漏らしたら、酔っぱらってても拭き掃除やってもらうからな」

 私はへいへいとトイレに行き、ついでに冷蔵庫からビール缶を二本持ってきた。

「おお、ご苦労ご苦労。じゃあ、お駄賃に椅子の話を聞かせてやろう」

「その話、モテます?」

「絶対無理だな」

「うわ、聞きたくねえなあ」

 まあ、良いから聞けと叔父はビールを飲みながら話し始めた。


 二十代の頃、叔父はブームに乗って登山にハマっていた。とはいえ本格的なもののではなく、女性とのデートも兼ねるハイキングに毛の生えた程度のものだったらしい。

 だが、ある連休の朝、叔父は目覚めると山に行きたいという強烈な欲求を覚えたのだという。

 特に予定もなく、天気も良い。

 ならば、と叔父は軽装でふらりと電車に乗り、隣県の山に向かったのだそうだ。

 山の天気は終日、とても良かった。

 だが、不思議な事に自分以外に誰もいない。一応ハイキングコースを歩いているのに、誰ともすれ違わないのだ。休憩所の類がある場所じゃないし、名所があるわけではない。だが、麓の登山口には人がたくさんいたのだ。

 そうこうするうちに、煩くまとわりつく虫や鳥も見かけない事に気がついた。

 試しに小川を覗いてみると、小魚すらいない。

 しんと静まり返った山。

 叔父はその中に一人だった。


 叔父は、異様だなと思ったそうだ。

 だが、同時にその静寂がとても魅力的だと感じたそうだ。


 石を踏みしめる音はこんなにも複雑なものだったのか。水が流れる音はこんなにも可愛らしいものだったのか。木が風で揺れる音はこんなにも美しかったのか。

 叔父は昼食をとる為に見晴らしのいい草原の前にある切り株に腰をかけた。

 コンビニで買ったおにぎりを齧りながら、叔父は遠くに、草原の向こうにボンヤリと目をやった。

 柄にもなく――と叔父は思ったそうだ。

 俺は柄にもなく独りでいる事を楽しんでいる。

 独り――そうだ、俺は独りなのだ。

 そして――遠くない将来、俺は独りで死ぬことになるのだろう。

 今を楽しもう、という叔父の心の裏側には、常にそれがあったのだそうだ。

 それは寂しい事なのだろうか、と叔父は自問し、やはりそうでもないなと結論付けた。

 寂しがるのは残った人達の仕事だ。

 勿論、病気等にかかればこんな考えはころりと変わってしまうのだろうが――叔父はそう考えて、自分の単純さを有難がった。

 まあ、シンプルに。

 ほどほどにシンプルに行こうじゃないか。


 その時、叔父は草原の向こうに何かを見つけた。


 風が吹いて、草が揺れた際に黒くて小さな物が見えた――ような気がしたらしい。

 岩か?

 だが、それが動いた気がした。

 風で揺れる岩は無い。

 叔父は中腰になる。

 視点が上がる。

 風が吹く。

 動物? いや、質感が違う。なんというか――木? 

 倒木? 切り株、か?

 目を凝らす。

 んん?

 叔父の好奇心に一気に火が付いた。

 シンプルに。

 ほどほどのシンプルに。

 気になったら見に行けばいい。

 叔父は辺りを見回し、立ち入り禁止の札や柵が無い事を確認すると草原に足を踏み入れた。誰かに見られたら面倒かもしれないと足早に進み、それに近づいていく。

「あれ?」

 叔父の口から思わずそんな言葉が漏れたのだそうだ。


 草原の真ん中にあったのは椅子だった。

 古ぼけた木の椅子が背もたれを地面につけ転がっている。

 叔父は手を伸ばし、ゆっくりとそれを立たせた。

 装飾も何も無い、四角い木材を組み合わせただけの椅子。しかし土に接していた面も含めて目立った汚れも無く、手で強度を確かめてみると実にしっかりしていた。

 なんでもまた、こんな場所に。

 頭を捻りながら、叔父はじっと椅子を見つめる。

 しかし――これは実に――叔父は椅子の背もたれを撫でた。


 実に俺に合ってそうだ。


 そう思ったら、自然に体が動いていた、という。

 叔父は椅子に座った。

 椅子は揺れもせず、土に沈み込みもせず、軋み一つもせず、叔父の全てを受けきり、ただ椅子としてそこにあったという。

 叔父は椅子に座り、草原を見渡した。

 その時、不意に悟ったという。


 ああ、これが『死』という物なのだと。



 叔父はそのままそこを後にした。

 椅子は折り畳み式ではないし、重量があったので持っていくわけにはいかなかったらしい。

 だが、それからの日々、叔父が会社で勤務する時、外回りで電車に乗る時、同僚と楽しく飲んでいる時、視界の隅に、ベンチの横に、通り過ぎる公園の端っこに、その椅子があったという。

 それは常に一定の距離を保っていた。

 叔父も再び椅子に座りたいとは思わなかった。


 私が話を聞く、その日の朝までは――



 翌日、昼過ぎに起きた時、叔父は既に死んでいた。

 庭にあった古ぼけた木の椅子に座り、眠るようにして死んでいた。

 二日酔いだったが、その後ろ姿を見た瞬間、叔父が死んだと私には判った。

 死因は自然死――としか言いようのないものだったらしく、私は一応取り調べを受けたがすぐに解放された。

 担当である初老の刑事も、私の事を全く疑っているようではなかった。

「飲み会自体、彼が誘ったものだってわかってましたからね。まあ、形式的なものですよ」

 叔父は近所の友人に、あの日私が来ることを話していたのだそうだ。

「司法解剖でも何も出なかったしね。しかし……」

「しかし、なんですか?」

「……すいません、不謹慎だとは思うのですが、その――あまりにもお顔が安らかで……」

 私は我慢できずに、実は、と叔父の椅子の話をした。

 刑事は黙って聞いていたが、最後に苦笑した。

「最初にそれを聞かされていたら、あなたを締め上げていたかもしれませんね。ですが、今なら――まあ、そういう話もあるのかもしれませんね。

 それで、その――椅子はどうなさるおつもりですか?」

「ああ……そうですね…………許可が頂けるなら、叔父と一緒に荼毘に付したいと思います」

 刑事は、二度三度うなずくと窓の外を見た。

「しかし……私にも、そういう椅子があるのでしょうかねえ? 何だか気になりますねえ……」

 私も窓の外を見た。

 風が吹いて、木の枝が揺れている。

 しかし防音が効いているのか、全く音がしなかった。

 私は自分が座っている椅子の背もたれを撫でた。

 スチール製の古ぼけた折り畳み椅子だが、背もたれ部分の黒いクッションが思ったよりも柔らかく、私の背骨にぴったり合う。


 いつまでも座っていられそうだ。


 嗚呼――


「……多分、誰にでもそういう椅子はあるんですよ。ただ、気づかないだけなのでしょう」

 刑事は私の顔を見て、それから椅子を撫でる手を見て、また私の顔を見た。

「……それ、今度改装する時に捨てる予定なんですけど、その時に、その――取りに来ますか?」

「いえ――」

 私は立ち上がった。

「見つけましたから、いつか必ず椅子の方から来るでしょう。だから、その時――」

「……座るだけ、ですか」

 私は頷くと立ち上がり、刑事と一緒に取調室を出た。

 肩越しに一度だけ振り返る。


 椅子は、ただ静かに、一定の距離を保って、私を待っているようだった。

 了

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