第十一話

光陰 上

「本当にそう見えますか?」

 柔らかい笑顔を浮かべたまま、老人は空を見上げてそう言った。

 釣られて私も空を見る。

 真っ青な空と眩しい太陽の下、小さな雲が二つ浮かんでいた。


 いつの頃からだったか忘れたが、ずっとイライラしていたように思う。

 原因は、ぼんやりとした不安、突然蒸し返してくる正体不明の罪悪感だ。

 一体何に対する罪悪感なのかはよく思い出せない。忙しくしていれば思い出さないと、忙しくした所為だ。

 車に関係した何か――だったような気がするが、考えてみると私は免許を持っていない。

 だから、結局イライラしているだけなのだ。


 そんな状態なので、たまの休みの日でも、気が休まらない。家人も私がいると何かと気を使うようだったので、仕方なく、ふらりと散歩に出た。

 気温は普通だったが、陽射しは強い。

 帽子を被って来ればよかったと思いながら、私は住宅街をぶらぶらと歩く。なるべくいつもと違う道を、と選んでいたら、目の前に公園が現われた。

 長いことこの辺りをぶらぶらしているが、ここに公園があるのは知らなかった。

 小さな砂場と、ベンチが二つ。四方は一戸建てに囲まれており、昼時の所為か、それとも気温の所為で窓が開いている家が多かったのか、テレビらしき音がさわさわと重なって聞こえてきていた。

 ベンチには老人が座っていた。

 深々と腰かけたその人は、ゆったりとした表情をしていた。

 私は妙にその表情に魅かれた。

 ああいう表情をしてみたい……。

 私は、ふらりと公園に入った。


 流石に隣に座るというわけにはいかないし、話しかけようという気持ちも無い。ただ、そのゆったりとした空間に混ぜてほしかったのだと思う。

 老人は私の顔を見ると、ちょっと驚いたような表情になった。

 昼日中とはいえ、公園に一人の状況で、誰かが自分めがけてまっすぐ歩いてきたら、怖いだろう。

 私は笑顔で軽く会釈した。

 老人のはまだ私をじっと見ていたが、肩の力はやや抜けたようだった。

 ベンチは二つある。そして手にはさっき衝動買いした缶コーヒーがある。

 もう一つに私が座っても、多分大丈夫なのではないだろうか。


「いい天気ですね」

 老人が先に話しかけて来てくれた。

 私は顔をほころばせ、まったくですと答えた。

「こういう日は、のんびりとしたいものです……はは、若い人間の言う事じゃないですよね」

 老人は私の言葉に顔をこちらに向けた。

「……そろそろお昼ですが、どうしてこちらにいらっしゃったのですか?」

 老人は相変わらずにこにこと笑っているが、やはり、まだ警戒されているようだ。

「いやあ、家にいても掃除の邪魔と言われてしまいまして」

「ああ、成程。失礼ですが、奥さんですか、それともお子さん、いや、お――」

「さあ、どっちだったか……あ、いや息子は部活か何かに行っているんだから、妻ですね。はは、陽気の所為かな、ちょっとド忘れしてしまいました」

「はあ……それは大変ですね。まあ暇な時間というやつは厄介ですからね。ご趣味とかは?」

「ううん、その……」

 私は急に顔が赤くなるのを感じた。

「あるにはあるのですが――まあ、ゲームなんで、こういう昼間からというのは――」

 老人は、ほうと短く言うとスマートフォンをポケットから出した。

「私もやりますがね、不思議な事に忙しい合間にやる方が楽しいんですよね」

「はは、そうですよね」

 老人は横に置いた水筒を口元に持っていくと、ふうふうと息を吹きかけた。お茶か何かだろうか、うっすらと湯気が見えた気がした。

 老人は飲み物を啜ると、ポケットを探り、セロハンに包まれた小さな饅頭を二つ取り出した。

「どうですか、お一つ。私の好物でして、近所のスーパーのものですが、中々いけますよ」

 私は礼を言って饅頭を受け取り、一口齧った。

「あ、かりんとう饅頭ですか。私も好物ですよ。美味いですね」

 老人は、そうでしょうと言うと水筒を再び啜る。

「コーヒーに合うんですよ」

 老人の水筒もどうやらコーヒーのようである。

 私も缶コーヒーをあおると、饅頭を齧った。

 車が一台、ゆったりと公園の前を通り過ぎる。風がふっと吹き、木が小さくざわめいた。近隣から聞こえてくるテレビの音もあまり気にならない。

「のどかだなあ……」

 私が呟くと、老人は、ふふっと小さな笑い声を上げた。

「まあ、もう少しすればお昼を終えた親子連れが大勢来ます。しばしの静けさというやつです」

 私は老人を眺めた。

 整った身だしなみに清潔な服。使い込まれた綺麗な靴と水筒。

 満たされているな、と思った。

「羨ましいな……」

 私は漏らした言葉に、老人は首を傾げた。

「はい? 今何と?」

 私は再び赤くなった。

「あ、いや――その、なんと言いますか、理想の老後を送ってらっしゃるように見えて――」


「本当にそう見えますかな?」

 柔らかい笑顔を浮かべたまま、老人は空を見上げてそう言った。

 釣られて私も空を見る。

 真っ青な空と眩しい太陽の下、小さな雲が二つ浮かんでいた。

「確かに私は今、悩みの無い生活を送っております。ですが、それはそれで中々――」

 私は慌てて頭を下げた。

「あ、いや、お気に触りましたら申し訳ありません。対した経験も無い若造の妄言と言いますか――」

「若造、ね」

 老人はいやいやと首を振ると、苦々しく笑った。

「あなたがそう見えたのも無理はないんです。ちょっとした理由がありまして、私は今、悩みの無い生活を送っているのです。

 ずっと『穏やか』なのです」

「理由――ですか?」

 老人は再び空を見上げ、目を細めた。

「今日は陽射しが強いですな」

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