光陰 下
遥か昔の事、私がまだ『若造』だったころの話です。
今よりも素早く動けたあの頃は、私は何をしても上手くいく、と奢っておりました。
だから、必然だったのでしょう。
私は事故を起こしてしまいました。
酷い事故です。
車でした。
死人が出ました。
私は責められました。
しかし、最悪な事に私は塀の向こうには行けませんでした。
私の姉が、法律にあかるく、うまく立ち回ったのです。
私は――ホッとしました。
罪の意識は大きくありました。だけども無罪なのだからそれでいいじゃないかとも思ってしまったのです。
死にたいと思いながらも、生きていたいとも思ってしまったのです。
そうこうするうちに、私は何もできなくなってしまいました。
体が重い。
頭も重い。
心も重い。
だから、ずっと横になっていました。
そんな時です。
姉は一人の男を連れてきました。
祈祷師だか拝み屋だか、山伏だか……胡散臭い格好をした、胡散臭い喋りをする男でした。
男は私の手を取りました。
――事情は聞いている。お前を楽にしてやろう――
何を言ってるんだこの男は、と私は思いました。
私の心の中がどうなってるのかも知らずに、何を言っているんだ。
男はそれを見透かしたように笑いました。
――いいから、外に出ろ。そして、しかるべき場所で、こう印を結ぶのだ――
印というのは、仏教とかで手で様々な形を作るあれです。
私が教えてもらったのは、簡単なもので、親指と人差し指で丸を作るだけでした。それを頭の後ろにかざせと男は言うのです。
そうそう、OKサインですね。
私は、何も言いませんでした。
心底くだらないと思ったし、完全に無気力でしたからね。
ですが、結局姉と男に強引に外に出されてしまいました。
久しぶりの外です。
私はふらふらと歩き回り、結局事故現場に行ってしまいました。
私は強烈な吐き気と、脱力感に襲われました。
眩暈がして、立っていられずに公園の――そう、このベンチに座ったんです。
事故現場ですか? 区画整理で道路自体が無くなってしまいましたので、今はどこだったかも思い出せません。
ともかく、私はこのベンチに倒れ込みました。
眩暈はどんどん酷くなります。
そして、目が開けられないくらいに眩しいのに気がつきました。
久しぶりの外なので、こんな風ないい天気の日の太陽が眩しすぎたんです。
私は太陽の光を遮ろうと、手を翳しました。
瞬間――私は印を結んでいました。
理由は今に至るも判りません。
あの瞬間、今か、とすとんと感じたのです。
指で作った輪から光が目を射てきます。
私は顔を背けました。
ベンチのこの背もたれに、私の影があります。
光がどんどん強くなってきている気がします。
影がどんどん濃く、強くなっていく気がします。
辺りが判らなくなるくらいに光が強くなっていきます。
私は自分が脳卒中か何かを起しているのではと思いました。
後頭部がどんどん熱くなっていくにつれ、私が見ている背もたれの自分の影がゆらゆら揺れているように見えてきたからです。
私は目を細め、影を見つめました。
影の中で何かが動いている――いや、何かが渦を巻いている。
影が動きました。
ベンチの背もたれを滑るように下に流れていきます。
そして、私の足元に黒い水溜りのように大きく拡がりました。
まるでカメラで何十台も一斉にフラッシュをたいたかのように、光が一際強く、大きく光りました。
私の足元の影が押し潰されたように地面に向かって凹み、そこから真っ黒い何かがどろりと流れ出ました。
そいつは地面をするすると滑って、私からどんどん離れていきます。そして、徐々に盛り上がっていくのです。
黒い波のように盛り上がったそれから、手と足らしき物が突然湧きあがりました。
それは四つん這いで這いずり始め、やがて中腰になり、そして二本足で走り始めました。
呆然とした私が瞬きをするのと、真っ黒いそれが公園の外に飛びだして行ったのは同時でした。
もう何もありませんでした。
真っ黒いそれも、強い光も、そして私を縛っていた色々な重さもです。
私は、ゆっくりと手を降ろしました。
親指と人差し指はまだ印を結んでいます。しっかりくっついて動かないのです。
反対の手を使って引き剥すと、指先の皮がごっそりと剥け血が滲みだしました。
ですが、私はその痛みすらも気にならなかったのです。
以降、私はずっと『穏やか』なのです。
『穏やかに』、呆けて、姉の残した金で、ただ『生きているだけ』なのです。
老人は口を閉じた。
相変わらず柔和な表情をしている。
しかし――私は老人の足元の影が、やけに薄い事に気がついた。
こんなに強い陽射しなのに――私の足元の影――同じくらいに薄い――どうして――
「しかしですね」
老人は再び空を見上げた。
「最近、また光が強くなってきている気がするのです」
私はゆっくりと腰を上げた。
「すいません、そろそろ家に帰らないと……」
老人は水筒を覗きこんだ。
「最近……あれが私の所に戻ってくる予感がずっとしていました。一時的に切り離しただけですからね。いずれは――そう、人生の終わりには戻って来るのでしょう」
私はベンチを後にした。
この老人は、きっと認知症か何かを患っているのだろう。それとも酷い妄想の類か。
いや、きっと正気じゃないのだ。
「ところで、あなたの家はどこなのでしょうか? 私はここらに長年住んでいますが、あなたとは初対面です。越してきたばかりですか? そうじゃないでしょう?」
体が重くなる。
頭が重くなる。
心が重くなる。
「私から離れたあれは、今どうしてるんでしょうか?
もしかしたら、自分が誰であるか忘れて、何処かを彷徨っているんじゃないでしょうか?
私が憧れた普通の生活を夢見て、ただひたすらに彷徨って、そしてある日、私の元に戻って来る――」
ブレーキ音。
酷く固い物に乗り上げる感触。
小さく聞こえて、途中で途切れた子供の声。
家に帰らなくては――家では――誰が待っているんだっけか?
私は公園の入り口で、誘惑に耐え切れず、肩越しにそっと振り返った。
真っ青な空。一つに合わさった雲。
それをバックに、老人は私の背後に影のようにぴったりと立っていた。
「私を正気じゃないと思っているんでしょう? ほら、そこのカーブミラーを見てみなさいよ。私と話している、私そっくりの老人は、一体誰なのか? 手でも振ってみたらいいんじゃないでしょうか?」
私はカーブミラーを見なかった。
陽射しが――光が強くなってきて、目を開けているのが困難になってきたからだ。
「おかえり」
老人はにっこりと笑うと、親指と人差し指で印を結んだ。
陽射しが更に強くなったように感じ、私の頭の後が熱くなりだした。
私は目を閉じ、瞼に裏で渦巻く明るい闇に向かって絶叫した。
了
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