第十話
あの人は誰?
古い木製のドアを潜り、丁寧だが何処か冷たい雰囲気の女性に案内され、男性は店の奥に歩いていった。
ベージュ色の壁には大小様々な絵が掛けられ、淡い照明に照らされている。
値札の類が無いのが、男性の不安を掻きたてた。
ここは確かに妻の言った店で間違いはない……はずだ。
私の懐事情はよく知っているはずだし、そう高価な物をねだるとは思えないのだが――もしかしたら額縁の裏に値札が貼ってあるのだろうか?
男性が手近にある絵に手を伸ばそうとした時、店の奥から男性の声が聞こえた。
「素手で触れてはいけませんよ。絵は繊細なものですので」
柔らかな初老の男性の声。果たして、店の奥を見ればイメージ通りの、白髪に白いシャツ。赤黒いチョッキをまとった痩身の老人がこちらを見ていた。
案内嬢は男性と老人に頭を下げると、すたすたと絵の海の透間を縫って歩き去ってしまった。
「そちらの絵――気に入りましたか?」
老人は背筋をしゃんと伸ばし、滑るように近づいてきた。
ふわりとコーヒーの匂いが漂う。
「いや、その――妻の誕生日プレゼントにおねだりをされまして、この店の絵を一つ欲しいということで――ですが、その――」
男性は頭を掻きながら、老人と絵の間を何度か視線を往復させた。
「ああ、お値段ですか。そう、下は5千円から、上は三十万といったところでしょうか」
老人は男性の肩に手を回した。
「まあ、ご相談といきましょう。実は私、最近珈琲に凝っていましてね。一杯つきあってもらえませんでしょうか? ふふ、勿論無料ですよ」
男性は、はあと返事をした。
「あの――カードは使えるんでしょうか?」
老人は目を細めた。
「無論です。決済方法に関しましては、受付の彼女が取り仕切ってくれております。最近始まった携帯会社の――ええっと、なんでしたかな? まあ、ナントカカントカまで全てできる、とか?」
老人がウィンクをする。男性は釣られて笑った。
「おお、緊張が取れたようですな。ところで奥様のご要望は何かおありでしょうか?」
男性は、首を捻った。
「それが――あなたに任せるとか、行けばわかるとか、ボンヤリとしたことを言われまして」
「ふむ。難題ですな」
「いや、まったく。美術の授業が苦手だった私には荷が重いです」
老人はいやいや、と手を拡げた。
「あまり深刻に考えないでください。何しろ絵ですからね、気に入らなければ選び直せばいいのです」
老人はそう言って、声を潜める。
「まあ、決済に関しては面倒な事になるらしくて、あの受付の子に怒られちゃうんですが、なあに、最終的には何とかしてくれますよ。彼女実にマメですから」
「はは、それを聞いて、少し気が楽になりました」
男性は辺りを見回し、少し離れた所にある先程手を伸ばそうとした絵に気がついた。
油彩だろうか、部屋の椅子の上に座っている女性が描かれていた。服は地味な青色で、スーツのようだ。
先程はニコニコと無邪気に笑っているように思えたが、よく見てみると眉が下がり、悲しそうな笑顔であった。
女性のいる部屋はフローリングで、脇に置かれた小さなサイドテーブルには懐かしのガラケーが描かれている。
とすると、時代は九十年代といったところだろうか?
「あの人は誰ですか?」
男性の質問に、老人は小さく笑った。
「ああ、彼女は――最初の人です。私が描いた最初の人」
「え? あ、もしかして、ここにある絵は全てあなたが描いたのですか?」
老人はうやうやしく礼をすると、名刺を差し出した。気取った髭文字で、老人の名前と職業――画家・画廊オーナーとの明記があった。
「まあ、自分で自分をプロデュースしている狭い男ですよ。ささ、ここでは私がいれたコーヒーを飲むのがルールですぞ」
男性は老人に促され、奥の扉を開けて中に入った。
********************
まあ、珈琲をどうぞ。
え? 健康診断で? まあ、一杯くらいは良いじゃないですか。
……どうですか? ふふ、そりゃあ、良かった。
さて――ああ、あのキャンバスですか。依頼が入っておりましてね、あそこには夫婦を描く予定になっているんです。夫婦が幸福そうに座って珈琲を飲んでいる絵ですよ。
さて……ああ、絵ですか。そう、高校の頃には描いておりましたから、彼此五十年程になりますか。いや、下手の横好きと言いましょうか、ここまで続けておれば技術も積み重なりまして、そこそこの物が描けるようになるのです。
ところで、先程の質問ですが――そうそう。『あの人は誰?』です。
彼女は私が描いた――いや、正確に言いますと『このシリーズとして完成させた絵』の最初のモデルですね。
名前は――ふふ、ここで言うのは止めておきましょう。勿論覚えておりますし、額縁の裏にも記載されていますが、この場ではどうでもいいことです。
今から彼女との出会いを少々語ろうと思いましてね、その際リアルな名前は夢想の邪魔になりますでしょう?
はは、まあ老人の思い出話です。かなりの美化があると思いますから、話半分に聞いてください。
彼女との出会いは二十年くらい前でしょうか。当時の私は喫茶店を経営しておりまして、そこのお客とした彼女が来たんです。
一目で気に入りましたよ。これは最高の題材だ、とね。ま、カッコ良く言っておりますが、要は好みのタイプだったんです。地味目の美人、最高ですよね。
私は早速、交渉しました。
自己紹介をし、名詞の交換をしました。彼女は某出版社の経理をやっている人でした。
私は、自分は趣味で絵をやっているのだけど、長年ここに飾る絵で悩んでいた。しかしあなたを見て閃くものがあった。ついては絵のモデルをやってはもらえないか、と。
モデル料も妥当と思われる値段を掲示しましたね。
断られましたよ。
理由は自分の絵が飾られるというのは恥ずかしい。ここの店の珈琲は美味しいので、ここに来れなくなるのは嫌だ、とね。
失敗ですね。まったく愚かでした。初めて来店された方に、珈琲の味を引き合いにして断られる……常連になったかもしれないお客さんを手放したという点において、経営者としても失格でしたね。
彼女は二度と喫茶店には来ませんでした。
『生きた状態』では。
彼女が前と同じ窓際に座っているのに気がついたのは、二月も経った頃でしょうか。
前来た時と全く変わらない服装でした。春から夏に変わったっていうのにね。ついでに言うと店は開店前でドアは施錠されてました。更に言うと、窓から差し込む光が微妙に彼女の体を通り抜けてるんですよ。まあ、つまりは透けてるんですよ。
そう、幽霊ですね。
私は呆気にとられてしばらく観察してたんですが、別に何するわけでもない。ただひたすらに座っているんです。
開店時間が来まして、私がドアを開けて看板を出して戻って来たら彼女は消えていたんです。
それが、それからずっと続きました。
三日、一週間、一ヶ月、そして半年。
彼女はただそこに座っているんです。
だったら――そう、そうなんです。私はそう考えたんです。
休憩やモデル料を気にしなくて良い、全く同じポーズをとってくれる最高のモデルじゃないですか?
そうやって、私はあの絵を完成させました。
彼女ですか? 絵を完成させた後はもう現われませんでしたね。
彼女の絵は好評でした。ふふ、気持ち悪いくらい賞賛されましたよ。まるで生きているようだとか、絵の女性に見つめられているような錯覚に捕らわれる、とかね。
そして依頼が来るようになったんです。
勿論、断りましたよ。だって、幽霊をモデルにしたものですからね。同じ物を描いてくれと言われてもねえ?
ところが――世の中は不思議な物なんですよ。
あの絵の正体をなんとなく察した人達が依頼しに来るんですよ。
死別した夫、天寿を全うした猫、病死した祖母、まあ色々です。
え? 描きましたよ。
お金――まあ、そちらも魅力でしたが、何よりも幽霊というモチーフに魅かれたんでしょうね。
ん? ああ、勿論動くものもいますよ。
でも、ちょっとしたコツがありましてね。幽霊ってのは、どんなに動いても最後に私の視界に入って来なくてはいけないんです。それが特性なんでしょうね。観察されることによって、初めてこの世に形を留めておけるんです。
はい? 成仏?
さて――私は宗教はやっておりませんので判りかねますね。それにモデルの事情等はなるべく聞かない事にしているんですよ……。
まあ、手元に置かれた方々は満足したようですが、その方たちは例外なくいずれ亡くなりましてね、不思議な事に絵は私の手元に戻ってきてしまうんです。
そうして、あの絵たちはあそこにずっと飾られているというわけです。
時折、あなたのような人に、『あの人は誰?』って言われながらね……。
********************
老人は話し終えると、少し冷めてしまったコーヒーを美味そうに啜った。
「いやあ、少々長く話してしまいましたね」
男は椅子から崩れ落ちた。小刻みに震え始めた体は、鉛のように重く全く動かせなかった。
「あの人は誰? 最高の褒め言葉ですね。人は死んでしまうと、僅かな人々の記憶のみの存在になってしまいます。ですが絵のモデルになれば、何世紀も先まで名前を問われる存在になれるのです。
ほら、ライトノベル――ですか? あれのジャンルに転生物というのがあるんでしょう? あれに近いんでしょうね、私がやっている事は」
老人は珈琲を飲み干すと、男を愛おしそうな目で見降ろした。
「人の理想や憧れを切り取って、絵の中に封じ込める。それは魅力的に映りますよ。だって、ショーケースの向こうの物は何だって輝いて見えるでしょう?」
「あ……あんたは――こうやって――さっきの話も――」
老人はふふ、と小さく笑った。
「話半分に聞いてくださいと申しましたでしょう。ところで――あなたは真面目で実直、少々鈍い所もあるようですが、流石に状況は理解しているのでしょう?」
「つ――妻が――うそだ――ぼくは――ああ――」
老人は小刻みに痙攣する男の耳元に口を近づけた。
「奥さんはあなたの事が大好きなんです。だから――健康診断であなたの余命が幾ばくも無いという事実に酷い衝撃を受けました。そして巡り巡ってここにあなたを向かわせたのです。
安心してください、苦しくは無いでしょう?
ゆっくりと目を瞑って、そのまま上に向かってください。そう、いいですよ。そうすれば体から出られる。最期のちょっとした苦しみの前に魂が外に出れるのです。
涙を拝借しますよ。これが重要なんです。
ああ、そうそう、私からの最後のお願いがあるのですが、あなたが座っていた椅子、そこに腰かけてくださると大変嬉しいです。
ところで、奥さんも明日ここに来ることになっているんです。
そう、あの白いキャンバスにあなたと奥さんは並んで座るのです。
誰にも邪魔されない、穏やかな永遠があそこにあるのですよ……」
了
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