第九話
危機一髪
俺が『それ』に気がついたのは、女性の悲鳴を聞いたすぐ後だった。
今から数分前、物凄い音――水の詰まった袋を固い物に叩きつけたような音――を聞いて、俺のいた飲食店は一瞬にして静まり返った。
ついで窓際に座っていたおばちゃんが口を抑えてトイレに駆け込むに至り、店の親父が「飛び降りだ!」と叫んだ。硬直する者、腰を浮かすが結局座る者、店員を呼んで事情を聴く者、そして外に飛びだす者……俺は店長に駆け寄ると、ちょっと外を見てくると小声で言った。
常連の俺の言葉に店長は何度も頷き、スマホを取り出す。俺はそれを手で制し、自分のスマホを取り出した。状況を見ていない人間が通報しても仕様が無い。
外に飛びだすと野次馬が歩道に溢れかえっていたが、誰も何も喋っていない。ただ、同じ方を見て固まっているのだ。
俺は野次馬をかき分け前に進んだ。と、急に広い空間が目の前に出現した。
反対側の歩道と車道の間の段差、そこに人がうつぶせに倒れていた。血が頭の下と足の下に大きく拡がり、俺が今立っている場所にまで飛沫が飛び散っていた。
スーツを着た男性だった。
あれは――間違いなく死んでいる。
そう考えた途端、意識がぽっかりと何処かに沈み込んでしまった。
一体どうなってるんだ――昼食の時間だってのに――どこの会社のやつだろうか――顔は――靴を履いてるぞ――遺書の類は――
空白の頭に意味のない思考が浮かんではすぐに消えていく。
鼻が、血と誰かが吐いた反吐の臭いを認識し始める。
しかし、どうしてこんな事をしたんだ――しかもこんな街中で――
ぼんやりとしていた頭をはっきりさせたのは女性の悲鳴だった。若い女性ではなく中年のそれだ。
途端に現実が戻ってきた。鼓動が激しく打ち出し、靴の中にジワリと汗が浮くのを感じる。
周囲もざわざわと騒がしく動き出す。
警察ですか、という通報の声があちこちから聞こえ始め、誰か担架を持ってこい、という叫びも聞こえた。
俺は向かいの建物を見上げた。
デパートだ。
ここから飛び降りたのだろうか。屋上は金網が張っていないようだから、高い手摺を乗り越えれば可能だろう……。
ん?
視線を降ろしていくうちに、『それ』に気がついた。
デパートの壁面に空が映っている。その空に……。
俺は振り返った。
俺のいた飲食店の向こうには高い建物が無かった。だから空がはっきり見てとれる。
朝見た天気予報によれば低気圧が日本全土に横に長くかかり、各地に大雨をもたらしているという。ここ関東も今日の夜から長雨になるらしい。
それ故か、遠くの空に大きな雲が横たわっていた。
真っ白な長く大きい雲がむくむくとカーテンのように拡がり、その少し前に噴煙のような黒い雲が二つある。その黒い雲の間に、『それ』はあった。
やや黄色がかった雲だった。
ただ、その形が妙であった。
巨大な赤ん坊のように見える。
しかもじっと観察すると、更に妙な事に気がつく。
上は風が強いらしく、白い雲と黒い雲は刻々と形を変えている。
だが、その赤ん坊雲は形を変えないのだ。
勿論動いてはいる。ただ、赤ん坊の形を留め続けているのだ。まるで全身を震わしているようで、小さな手をこっちに向かって振っているようにも見える。
俺はそれをじっと見つめ、もっと良く観察したい誘惑に駆られた。
どこか、もっと近い場所――高い場所からだ。
俺はデパートに入ると、エスカレーターを駆けあがった。窓の外で、段々と視点が上がるにつけ赤ん坊の全体像がはっきりとしていく。
赤ん坊は胡坐をかき、その弛んだ腹を揺らしながら笑っていた。目を細め、とても楽しそうに手を振っているのだ。
人が飛び降りる。
そこに様々な理由があれども、結果は大体一つだ。
命が消え去る。
一つの貴重な命が消えるのだ。
学生の頃、この世界の命の総量は決まっているそうだ、と嘯く奴がいた。
人間も犬も蜥蜴も虫もひっくるめて、命の総量が決まっていて、どれかが増えればどれかが減る。人間の厄介な所は、文明という道具を使って増殖し続け、そのバランスを崩す所なのだ、と奴は語った。そんな無茶な、という俺達のツッコミに、奴は質量保存の法則を知らんのか、とニヤニヤして返してきた。
あの馬鹿話は実は本当なのではないか。
もしかすると、この自殺は自然界のバランスを保つために行われた側面も持つのだろうか? あのサラリーマンが飛び降りたことにより、今この時この世界の何処かに一体生き物が産まれたんだろうか?
となれば、あの赤ん坊は、世界のバランスを保つための神のような存在で――
女性の悲鳴が響いた。
さっきの女性の声のように思えた。
はっとして、手に力を込める。
俺は手摺にしがみつくと、前に投げ出されようとしていた体を何とか止める事ができた。
どっと全身に浮かんだ汗が、ふと吹いた風によって氷のように冷たくなって俺の体を震わしていく。
俺はゆっくりと屋上の手摺から手を放すと、へたりと尻餅をついた。
危機一髪だった。
何という馬鹿な考えに浸っていたのか。
目をやると、正面にはまだあの赤ん坊雲があった。
笑っている。
目を細めて、小さな手を振っている。
こっちにおいで、飛んでおいでと手を振っている。
俺は目を引き剥すと、四つん這いのまま屋上の入り口の方へ向き直った。
髙い所にいてはダメだ。ともかく下に降りなくては――
屋上の入り口から、大勢の人間が走ってきた。彼ら彼女らは俺の横をすり抜けていく。靴が手摺を蹴る鈍い音が連続して聞こえてくる。女性の悲鳴がまた響いた。どさどさと重くて水っぽい物が固いアスファルトに叩きつけられる音が延々と続く。
なんだこれは――どうなってる――一体どうなってる――
遠くから近づいてくるサイレンの音を聞きながら、混乱した俺の頭にふっと一つの考えが浮かんだ。
そういえば、さっきまでいた飲食店の料理の代金を、まだ払っていなかったな。
俺はよろよろと立ち上がった。
まさかこの年で無銭飲食とか、ありえないだろう。しかし、後から後から人が屋上へ雪崩れ込んでくる。
これじゃあ階段はダメかな。
エスカレーターもダメだろう。
エレベーターは絶対にダメだな。
となれば、一番の近道、つまりこのデパートの正面にある飲食店への最短の道は、一つしかないんじゃないか?
まるでゲリラ豪雨のように鳴り続ける、重い物が叩きつけられる音の中、俺は振り返って手摺の方を見た。
それは決まってる。勿論決まってるさ――だけど――
ああ、どうしてか、早く、早くあの女性に叫んでほしい、と俺は心の底で願うのだった。
了
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