呼ぶ声 下
その日は曇っていた。
天気予報によると、これから長い間雨になり、俺のいる地域も激しく降るかもしれないとのことだ。だから確認は早いうちにしなければならなかった。
トタン壁の隙間から中に入りこむと廃工場はひっそりとしていた。てっきり子供の遊び場にでもなっているかと思ったが、ボール一つ転がっていない。まあ、外で遊ぶなんてめんどくさい事を今の子はしないだろうな、と俺は歩を進める。
事務所の建物は三階建てだった。俺は外側に取付けられている鉄階段を登りながら中を覗いていく。
一階は休憩所のようになっていて大きなテーブルがあり、二階は事務所らしく机と椅子、古いパソコンが置いてあった。三階、四階は倉庫らしくダンボールが転がっている。
屋上は鉄の柵に囲まれ、剥き出しのコンクリのひび割れから雑草が生えていた。
思いの外見晴らしが良かったが、俺は中腰で用心深く辺りに目を走らせる。
やはりここに来るには今来た階段しか手段が無い。急に消えたり現われたように見えたのは、もしかしたら俺の見た角度がどれも階段が見えなかったからかもしれないが――
屋上の縁に男が現われた。
ぱっとテレビを付けたようにいきなり何も無い空間に男は出現したのだ。
俺は息を飲む。
やはり、何処をどう見ても『俺』だった。
なんだこれは? これは――ドッペルゲンガーとか言う奴か? だが、あれは自分と同じやつが普通に町とかを歩いているという話で、こんな風に毎日同じ時間に同じ行動をとるなんて話は――
ん?
混乱する頭で俺は『俺』の上着に違和感を感じた。
濡れてるぞ。
びしょびしょだ。まるで服を着たまま風呂にでも入ったような……髪も濡れてるじゃないか! いや、靴もズボンも全身びしょびしょだ! なんだ? なんだこれは?
『俺』は手を振り続け、何かを叫んでいる。
声は聞こえない。必死に体動かし、手を振っている。
まるで、誰かに何かを知らせようとしているみたいな――
まさか、と俺はスマホを取り出し、天気予報のページを開いた。
――××地域は明後日より記録的な豪雨になる可能性があり、河川の氾濫、土砂災害の危険が――
『俺』が横を向いた。
勢いがあった所為か、それとも『強い風に吹きつけられたのか』濡れた髪が飛沫を飛ばしながら横を向いた。
『俺』は呆然とした顔をしながら、すーっと消えて行った。
『警告』みたいなものなのだろうか? 明後日からの大雨で何かが起きて、それを知らせる為に未来から俺が送った警告……。俺にそんな力があるのだろうか。それとも偶然が積み重なって、そういう風景が一部切り取られて送られてきた?
何にしろ答えなんてわからない。今はともかく用意しておくことだ。
次の日、俺はホームセンターで防災グッズを漁った。
どのくらい買うべきか……もしかしたら、あの屋上に大勢が避難してくるかもしれない。なら、できるだけ水やら食料を買い込んで備えて――
嫌味なババアや、五月蠅いガキ、めんどくさい隣人やボケた爺共の為に何を買うって? 大体、自転車を盗まれて徒歩で来ているのに、そんな大荷物は運べない。
俺は一人分だけ防災グッズや食料、水を買うと帰宅した。
日が変わり、昼過ぎに雨が降り出した。小雨だ。だがテレビではしきりに避難を進めている。今日ではない。多分、明日だ。俺はそう予想し、自宅のベランダでいつもの時間に廃工場を眺めた。
『俺』はいつも通りに現れると、川に向かって手を振っている。
これだけ長期間、ああいう事をやっていれば普通なら誰かがあそこに調べに行くはずだ。だが、今朝調べた限りでは俺以外の人間が来た形跡は全く無かった。
つまりあれは、俺に向けられたメッセージなのだ。
俺以外のやつは皆、流されてしまうのだろうか。いや、確か防災訓練をするとかババアがぬかしてたから、それなりに生き残るに違いない。
まあ、俺には関係ない事だ。
日が変わり、雨足は強くなっていった。俺は昼食を済ますと貴重品をまとめ、廃工場に侵入した。
椅子を何脚か事務所から持ってきて屋上に並べる。仮に足が痛いとか爺どもがぼやいても、勝手に座らせておけばいい。毛布は俺のものだけだが。
風が強くなってきた。
俺は三階の倉庫に潜り込むと、段ボールの上に横になった。
あの大家のババアが避難して来たら、俺に感謝するだろうか。そうしたらただでクーラーを修理してくれるかもしれない……アパートが無事ならば。
雨と風の音を聞きながら俺はいつの間にか眠っていた。
揺れを感じた。
酷い揺れだった。
俺は跳ね起きる。
時刻は――四時十五分!? なんてこった、寝過ごしてしまった――
倉庫から飛び出すと鉄階段が揺れていた。
土手が切れ、茶色い水が廃工場に押し寄せて来ている。俺は慌てて階段を上がると屋上に転がり込んだ。
豪雨。大風。真っ黒な雲が、渦を巻きながら空を流れていく。
町は水浸しだった。
俺のアパートが、夜泣きがうるさい家が、ガキが喚いていた家が流されていく。
ざまあみろ。
俺は笑っていた。
どいつもこいつも馬鹿で鬱陶しかった。
これで、綺麗になる。
すっきりする。
なんて涼しいんだろう、と俺は川の方を見た。
対岸も同じような状況だった。土手が切れ、家が流されていく。川はごうごうと真っ黒い水が勢いよく流れていく。
あれ?
俺はもうすぐ手を振るんだろう?
誰に?
ぐらりと足元が揺れた。
金属の軋む音が響き、足元のコンクリが一瞬波打った。はっとして振り返ると、屋上への鉄階段がぐっと持ち上がって離れていく――いや、違う。
この建物自体が、回っている?
慌てて縁まで這って行き下を覗きこむと、凄まじ勢いで水が渦を巻いている。建物が小刻みに揺れ、軋み、ぶるぶると揺れ出す。
俺は四つん這いのまま、茫然と視界がぐるりと半回転するのを見ていた。
濁流に飲み込まれた町の遥か彼方、小高い丘の上にある避難所が正面になった。
そこに小さな人たちが見えた。
何かを叫んでいる。手を振っている。
俺は震えながら立ち上がった。
しまった――とんでもない勘違いを――
俺は手を振った。
助けて! 助けてぇ!
風が唸りを上げ、雨が叩きつけ、俺の声は俺自身でも聞こえない。体を動かし、ありったけの声で叫び、手を振って、そして――
何か大きな物が建物にぶつかったようだ。
屋上がゆっくりと傾き、俺はそちらを向いた。
身体が傾き、濡れた髪が横に――いや、下に垂れた。
「あー! 駄目だーっ!」
大家のおばちゃんの本橋さんは悲鳴のような声を上げた。廃工場は音を立てて崩れ、濁流に飲まれた。玄関に居たあたしは、車椅子に座った清田さんのお爺ちゃんの手を握った。
「あそこに、人、いたよなあ」
清田さんが悲しそうな声で言った。避難所の前で叫んでいた人達が、頭を振りながら中に戻ってくる。
「とりあえず消防とか警察には電話しといたけど――」
神田さんの旦那さんは赤ちゃんをあやしながら、溜息をついた。
「あれじゃあ、ねえ……」
「……あれ、誰だったのかな?」
吉野さんの家の小学生の息子さんがポツリと呟いた。
「遠くて雨が凄くて、よく判んなかった……」
あたしは溜息をついた。
「私にもわからないわ。町内会の人はみんな来てるし、あんな場所にこんな時に登るなんて……」
大家の本橋さんがタオルで頭を拭きながら悲しそうに言った。
「でも手を振ってたのよ……遠すぎて声は聞こえなかったけど、助けてほしかったんでしょうねえ……」
了
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