なんとなく怖い話
島倉大大主
第一話
呼ぶ声 上
またかよ。
俺はドアの新聞受けに斜めに突き刺さっている回覧板を見て、盛大に溜息をついた。大学生でアパート住まいの人間に町内の情報なんて流して何になるんだ?
回覧板を引っこ抜くと、一緒に突っ込まれていたチラシがバサバサと廊下に散らばる。
ああ、嫌だ。本当に嫌だ。
大家のババアは町内の清掃作業とやらに駆りだそうとするし、向かいの家のガキはしょっちゅう泣いている。しかも多分隣の家には赤ん坊がいて、ぎゃんぎゃん夜泣きする。変な臭いのする煮物をおすそ分けとか言って持ってくる下の階の爺もムカつく。足が痛いんなら、家で寝てりゃあいいじゃねえか。
ついでに言えば、隣の女子大生は学部もサークルも違うんだから生活時間帯が全然違うのにやたらと俺に町内のなんやかんやに出ろと五月蠅い。それを大家のババアが持ち上げて、年寄り連中やら主婦連中が同意するもんだから更にめんどくさい。公園で勝手に豚汁でも何でも作ればいいだろうが、誘うんじゃねえよ!
俺は頭を振りながら鍵を開け部屋に入った。
むっとする暑さが襲ってきて、クーラーのリモコンをとると電池切れだった。仕方がないから電池を探すが見つからない。
じゃあ、一キロ以上離れたコンビニまで行かなきゃならないって?
家賃が安くて最高の環境だぁ?
ふざけんなよ! 車どころかバイクの免許も持ってない奴にはただの地獄じゃねえか。自転車は盗まれちまったし、最悪だよ……。
俺は窓を開け、狭いベランダに出た。猛烈にタバコが吸いたくなったからだ。勿論室内で吸うと大家のババアがうるさい。だからわざわざこんな事をやっているのだが、手摺の埃を払い、酷く汚れた手を見た途端、何もかもが嫌になってくる。
ふざけんなよ、何が壁紙を張り直したばっかりだから、だ。はっきり中で吸うなって言えよ!
しかもこのベランダ土手が邪魔で涼しい風なんて来ないじゃねえか!
なのに土埃ってのは何できっちり積もるんだよ!
もう何もかも諦めた俺は、そのまま手摺に寄り掛かった。シャツにきっと土埃の縞が入るだろうが、しった事か。なんならそのまま大学に行ってやる。めんどくさい。何もかもめんどくさい。馬鹿ばっかりだ。大体、見晴らしも良いって、正面は土手で左右は住宅地、その向こうは――
廃工場。元は何をやっていたか全然分からないが、前を通る時、ボロボロのトタン壁の隙間からクレーンや鉄くずが散らばっているのが見えるから、製鉄関係だと思われる。結構な規模で、俺の住むアパートから百メートルは離れているだろうか。
やはりボロボロになった屋根と、そこから少し突き出した事務所のような建物が見える。
その屋上で誰かが手を振っていた。
時刻は四時半だ。まだ薄明るいが距離があるので服装などは判らない。俺と同じく川の方を向いているので、横からなのだが、何となく男性に思えた。声は聞こえない。右手を激しく頭の上で振っている。
俺は目を細める。耳をそばだてる。
やはり声は聞こえないし、男の細かい表情などは判らない。
廃工場と土手の間には畑があって、そこには誰もいない。土手の上にも誰もいないように見える。となれば、俺には見えない髙い位置にいるのだから、川か、向こうの土手、対岸の町の誰かに手を振っているのだろう。
ああ、と俺はまたムカついてくる。
中学生か高校生か、それとも大学生か、とにかくどっかの馬鹿があそこに登って他のやつに手を振っているのだろう。それを撮影してSNSにでもあげているのだろう。
俺はベランダから唾を吐くと、部屋に戻った。
ところが、二日後の事だった。
電池を買ってきたのに、クーラーの送風口から水がボタボタ垂れてきて、俺は嫌気がさしてまたベランダに出ていた。
百円ショップで買ってきた雑巾を腕の下に入れて手摺に寄り掛かり、ふっと横を見るとまた誰かが――いや、男が手を振っている。
は?
スマホで時間を確認してみると、多分大体同じ時間だ。
目を凝らしてみると、前回と全く同じ服装で身長のように思える。
何してんだ、あいつは?
何か――犯罪か? いや、手を振っているだけだよな。
また撮影か? いや、でも、そんな動画面白いか? それとも廃工場を使って何かしてて、その締めがあの手を振る行動なのか?
俺は煙草をふかしながら男を眺め続けた。
男は必死に手を振り続けている。
声は聞こえない。誰かに勘付かれるのが嫌だから声を出さないのか? だったらなんであんなに目立つ場所で、あんな手を――
男が手を振るのを止めた。
ふっとこちらを見た――ような気がした。
ぞくり、と背に何か冷たい物が走る。
男の姿が掻き消えた。
幽霊を見た、ということなのか。
俺は部屋に慌てて引っ込むと、その晩は電気を付けたまま眠った。だが、何も無かった。次の日、試しに同じ時間にベランダに出てみる。
男は手を振っている。そしてしばらく後に昨日と同じように消えた。ただし、今回は俺は窓からスマホのカメラを出して、それ越しに観察した。
全く同じか。
なんだこれは?
次の日、今度は同じ時間に川の土手に登って観察した。距離は十分とってある。
少し早い時間から観察をし始めると、男がふっと屋上に現れた。
やはり手を振っている。角度が変わった事によって男だと確信が持てた。そして、あの時、俺を見たのではないことも判った。
男は体を激しく動かしながら手を振り、それから横を向くと、現われた時と同じように、ふっと消えたのだ。
それから一週間、俺は観察を続け、遂にオペラグラスを購入することに踏み切った。
いつもの時間にいつも通りに男は現われ、手を振り始めた。
俺は、オペラグラスを使い、そして屋上に行くことを決心したのだった。
男は俺のような顔をしていたのだ
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