第39夜 合宿所の怪異

 大学二年生の兄から聞いた話です。


 兄の大学はたいへん辺鄙な場所にあるんですが、開学からそうたっていないので、講義棟や教職員棟、講堂、体育館などの建物はみんな新しいし、立派なんです。


 ただ、野球部の合宿所は、古いアパートを買い取って流用したものなんです。きっと、そこまで予算が回らなかったでしょうね。


 他の運動系のサークルも、古い合宿所ばかりらしいのですが、野球部ほどではないそうです。


 その古い合宿所は、建物自体はそう傷んでいないし、全体に明るい雰囲気なんですが、一階の十畳の部屋で寝ると必ず金縛りにあうんです。


 それで、部員の間では「不思議の間」と呼ばれているそうです。


 ある晩、不思議の間で四人が寝ていたところ、ひとりがふと目覚めてトイレに立ったんです。


 寝ぼけたまま廊下を歩いていますと、何か庭の様子がおかしいのに気づきました。どこか、違和感がある。


 目をこすりこすり見てみると、数本立っている庭の木のうち檜の梢に、黒い人型の影が浮かんでいました。


 暗くてはっきりとはしないけれど、どうも女性のようだ。


 ――と思った瞬間、その女性が声を発しました。


 つづけて、何かをしきりにいっているけれども、ガラス戸越しだし、距離からいっても、とても聞こえるはずがありません。


 いえ、ちょっとは聞こえたんです。


 ボソボソと、かろうじて聞こえる程度に。


 その人は、何をいっているのか気になったんですね。少しだけ聞こえるけど意味をとれない状態って、よけいにそうなりますよね。人間、好奇心がありますから。


 ガラス戸の鍵をパチンとあけ、カラカラと戸を引いていくと、ようやく何をいっているのかが、わかりました。どうも女は、


「どうして、そんなひどいことを。子供を落としてなんて」


 と、しきりにくりかえしているらしい。


 茫然と見ていると、檜の梢の上から黒い影がするすると降りてきて、あっという間に彼の腕をとらえました。


 叫び声をあげたはずが、のどの奥がつまって声になりません。


 なにせ体力がありますし女の力とあなどって、渾身の力をふるって引き離そうとしたんですが、全く敵わない。無我夢中で手足を振るうものの、女の手はますます彼の腕にくいこんでくる。


 そればかりか、ズルズルと引っ張られて庭へおりさせられたかと思うと、瞬く間に洞穴のような暗い場所へと引きずりこまれました。


 女はその入口を、戸板のようなもので塞ごうとします。ですが、彼の腕をつかみながらなので、なかなかうまくいきません。


 すべて入口が覆われようとしたとき、その隙間に、ちょうど誰か通り過ぎるのが見えました。


 彼は意を決して、再び渾身の力をこめて戸板に体当たりしましてね、戸板がむこうに倒れるやいなや、通りかかった人の腰のあたりへと飛びつきました。


 その飛びついた人というのがですね、同じ部屋で寝ていた野球部員だったのです。


 いいえ、彼がいなくなったからと捜していたわけではありません。


 彼と同様に、トイレに行っただけ……というか、ここが不思議なところですけれども、彼が体当たりした戸板は、トイレの扉だったんです。


 ちょっと下品な話ですが、彼はちょうど用便中のチームメイトの腰にすがりついたと、まあこういうわけなんです。


 どっちもびっくり仰天、大声をあげたので、建物のあちこちで明かりがつき、やがてつぎつぎに部員たちが集まってきました。


 彼は懸命に今起きたことを説明したんですが、誰も信じませんでした。説明するにも混乱していたし、話の順番は間違えるしで、夢でも見たんだろうということで片づけられました。


 翌朝になって、食事の際に彼はからかわれたんですね、その一件で。肝っ玉の小さいやつだ、臆病にもほどがあるって。便所の戸を壊しましたから、弁償するなり自分で直すなりしろよ、なんて声もありました。


 そうやって、わいわい笑い合っていると、奥から賄いのおばさんが出てきましてね、こういうんです。


「ここはもともと、いわくのある家だからね。変なことが起きてもおかしくないよ。いったい何があったの?」


 彼がぽつりぽつりと、あまり要領を得ない様子で語り始めたところで、おばさんがその話をさえぎりました。


「ここでベビーシッターをしていた女の人がね、まちがって赤んぼに怪我させたっていうんで、クビになっちゃったのね」


 エプロンの前掛けで手を拭きつつ、部員一同の前に出てきました。


「それから精神的におかしくなっちゃってさ、あんたが見た場所―― 檜の枝に縄かけて、ぶらさがっちゃったのさ」


 一同、押し黙っていると――


「あんたたちが『不思議の間』っていっているところ。あそこで赤んぼを落っことしちゃったみたいよ」


 ひとりが聞いたんです。そんな怖いことが起きるなら何で今まで言わなかったんだ、ってね。するとおばさん、


「一日に十杯も二十杯もごはんを食べる、あんたらの方が怖いよ」


 そういって笑ったそうです。

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