第4話
結論から言うと、僕は彼女──日野 岬を完全に侮っていた。
厄介な隣人を無事に部屋へと帰し、それから僕はいつもの日常へと舞い戻った……その筈だった。
だが、翌日……その日常に亀裂が生じた。
大学のキャンパス内。今日も僕は学食のマダムに「カレーライス 大盛で」とだけ告げる。それで、僕の舌は役割を終える筈だった。
(閻魔大王に舌を引っこ抜かれてもあまり困らない気がするな)
そんな馬鹿馬鹿しいことを考えながら、学食で具なしのカレー(三〇〇円也)を食す。そんな僕の周りでは、相も変わらず……ご学友達があれやこれやと話に花を咲かせていた。
「いやー、マクロ経済のテスト範囲広すぎっしょ。マジ殺す気かっての」「それなー、マジでふざけんなよ」「バイト決まんなーい」「おーい、じーん」「いやいやいや、合宿って言えば海でBBQっしょ。山とか言ってる奴、マジ陰キャ」「あん? 喧嘩売ってんのか!?」「じーん!」「マジでさ、今期のアニメが熱いわけよ。演出も作監も脚本もレベル高くてさ」「いや、最後まで見てみないと分かんねーだろ」「あー、やっぱ唐揚げうめえわ」
何となく、聞き覚えのある声が聞こえた気もするが……きっと、気のせいだろう。
「幻聴だ……うん。ここ最近、変なことが続いていたからな……」
この学内で僕に話かける人間など、学食か購買のおばちゃん以外にはあり得ない。
僕は自らを納得させ、ただ黙々とカレーを口へと運ぶ。
「さて、ここからひと踏ん張りだ」
これは、一見すると単純な動作のように思えるだろう。ただ、このカレーの食べ方にもコツがあるのだ。
早々に食べ終えてしまえば、ぼっちたる僕はそれだけ早く席を譲らなくてはならない。そうなると、この冷房の効いた学食の席をキープすることが出来なくなる。
故に、僕は怪しまれない程度のスローペースでカレーを食べ続ける必要がある。
カレーとルーを7:3の黄金比で掬い、所定のペースで……ゆっくりと、しかしリズミカルに口へと運ばなければならない。
僕がこの一年で身につけた、たった一つの技……そんな繰り返しの動作を行おうとした瞬間、その声は響き渡った。
「おーい、うーつーろーぎーじーん!! 聞こえてるんでしょ!! 無視すんなー!! コラー!!」
まるで天地が引っ繰り返る程の声量に、周囲が静まり返る。マクロ経済学も、アニメも、唐揚げですらその場からすっ飛んだ。
やがて……群衆はまるでモーセの出エジプト記のように左右に割れていく。
声の主は「失礼」と口にしながら、ツカツカとこちらへと歩み寄ってきた。
「そこ、動くんじゃないわよ!!」
別に彼女の声に従った訳ではない。だが、あまりの状況に僕はフリーズしていた。
当然、頭の中は混乱の二文字で埋め尽くされる。
(な、なんだ。一体何が起きたんだ。どうして僕の名前が……くぁwせdrftgyふじこlp)
思考が要を為さない。
もはや意味不明な言葉を出力し続ける僕の脳内に、再び彼女の声が響く。
「やっと、こっち見たわね」
だが、そんな僕にはお構いなしに声の主……日野 岬は僕の前に立ち塞がった。
静まり返っていた筈の群衆は、しかし騒ぎの中心である僕らを遠巻きに見守っている。
何だ、一体何が起きるんだ──と、その場から、何かに期待する声が聞こえてくるようだった。そして、例によって彼らはヒソヒソと噂話を始めた。
「なになに、どしたん」「何か、ウツロギ ジンって人がイチャモンつけられてるっぽい」「これはあれだ……痴情の縺れってやつだ」「おい、アイツやべえぞ……大人しそうな顔して六股掛けてるらしいぞ」「ウッソ!? マジで!?」
とんでもない尾ひれが装着されていく。小さなフナ程度だった筈の噂は、あっという間に天に登る竜の尾ひれの如く……超進化していた。デジモンで言えばワープ進化だ。
もう、この場を収める方法など思いつきもしない。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっとこっち!!」
三十六計逃げるに如かず。
僕は慌てて日野 岬の手を取り、その場から脱兎のごとく逃げ出した。
****
「一体、何してくれてるんだ……」
講堂裏、知る人ぞ知る隠れ涼みスポットで僕は頭を抱えていた。
昨日まで存在を認知されてすら居なかった僕──空木 尽がたちまち学内で有名人となったのだ。
それも六股とかいう、とんでもない尾ひれが付いて……。
「明日から、どう過ごせばいいんだ……」
とてつもなく大きな亀裂が生じた日常を思い、途方に暮れる。
そんな僕に彼女は笑顔で告げた。
「大丈夫だよ。どうせ、みんな直ぐに忘れる」
「そんな、適当な……ハァ……」
あまりにも楽観的な日野 岬の言葉に思わず溜息が零れる。
「大体、誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ……」
「尽」
「え……何で、僕が悪いことになるの?」
愚痴った僕の言葉に、しかし、日野 岬は真っすぐにこちらを指さしている。
僕はその意味を理解出来ずに、彼女に問い返した。
「聞こえてるくせに、さっさと返事しないで……私のこと無視したでしょ」
日野 岬は頬を膨らませながら、その答えを口にする。
「そ、それは……」
思い当たる節が無いわけではない。確かにあの時、僕を呼ぶ声が聞こえたような気もする。
「ねぇ、どうなのよ」
彼女の剣幕に押され、仕方なく僕は白状することにした。
「いや、その……てっきり幻聴かと……」
「なんでよ!?」
まるで、心外とでも言わんばかりの日野 岬。
彼女が納得するかどうかは分からないが、僕は自らの日常の一部を開示せざるを得なかった。
「学内での話し相手なんて、学食か購買のおばちゃん位しか居ないし……」
日野 岬は、僕の言葉に疑わし気な眼差しを向ける。
いわゆる、ジト目という奴だ。
「ほ、本当なんだ。その、僕は……空っぽだから……」
徐々に語感がしぼんでいくのが自分でも分かる。何だか、酷く情けない心地がした。そんな僕に、日野 岬は問いかける。
「また言ってるね。空っぽって……ねぇ、それどういう意味?」
「それは……」
言葉に詰まる。そして、訪れるしばしの静寂。
まるで空間を切り裂くかの如く、夏鳥が僕らの頭上を飛び越えていった。
「別に言いにくいなら良いけどさ。誰だって秘密の一つや二つ位持ってるしね。
でもさ、話してみたら尽も少しは楽になれるかもしれないよ」
日野 岬は、飛んでいく鳥を目で追いながら僕へとそう告げる。
「まだ、数回しか会ってない私が言うのも変かもしれないけど……尽はさ、自分で自分を縛り付けているような気がするんだよね」
「えっ……」
まるで、内側を見透かされたような気分だった。
「何があったのか、話してみれば?」
穏やかに、彼女は言う。
これまで、誰にも語ったことの無い自分の内側。それを彼女に打ち明ける……その行為はどこまでも苦行でありつつも、しかし、耐え難い甘美な誘惑を兼ね備えていた。
あるいは、僕は本当は誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
この、心の叫び声を──。
「何も、無いんだ」
そう切り出した僕の言葉を、彼女は黙って聞いていた。
「僕には……何も無いんだ。夢が無い。目標がない。本気で取り組める趣味もないし、サークルにも入ってない。大学に入ったら、友達も居なくなった。もちろん彼女だって居ない。僕の人生は……空っぽなんだ」
気が付けば、喉から声を絞り出していた。
これできっと、彼女の僕を見る目も変わることだろう。相容れない、異物のように思うかもしれない。だが、それも仕方のないことだと思う。
彼女と僕とでは最初から、違う
「何だ、そんなことか」
ところが、僕の身勝手な告白を耳にした日野 岬の言葉は、あまりにもアッサリとしたものだった。
「えっ!? それだけ?」
思わず聞き返す。
──うん。
すると彼女は、至極簡単に頷いてみせた。
「気味悪いとか、気持ち悪いとか、変人だとか……そうは思わないの?」
「別に。私と大して変わらないじゃん」
(僕と、彼女が変わらないだって? そんなこと、あるわけがない!!)
飄々と告げる彼女に、僕は激しい違和感を覚える。
「いや、そんな筈は……だって、君には少なくとも酒の席を共にする仲間が居て、想いを寄せる相手が居て……だから、僕みたいな人間とは違っていて……きっと、君には中身が詰まってて……」
「そう聞くと、どこぞのお菓子みたいだね。最後までチョコぎっしりのやつ」
言ってない。
でも、そんな彼女の冗談で、混乱した心はどこか和らいだ気がする。
伝えるべきこと、本当に聞きたいことを僕は言葉に乗せた。
「ごめん……取り乱した。でも、やっぱり君は空っぽな人間とは違って……間違いなく、意味のある充実した日々を過ごしている。それが、君の居るべき居場所なんだと思う」
──だから、僕みたいな奴とは関わらない方がいい。
そう、言外に告げる。
きっと、これでようやく彼女も僕から興味を喪失することだろう。それがきっと、日向に暮らす彼女のためにもなるはずだ……。
「はああぁぁぁ………」
しかし、そんな僕の想いは、特大の溜息と共に彼方へと吹き飛ばされた。
「あのさ、尽。勝手に人の大学生活、決めつけないでもらえるかな?」
有無を言わさない彼女の迫力に圧され、思わず僕は後ずさる。
顔は笑っているが、きっと腸は煮えたぎっている……間違いない。
「ご……ごめん」
つい、謝罪の言葉が口をついて出る。
一体、何が彼女の癇に障ったのかも分からないし、僕がどう悪かったのかすら分からない。だが、ある種の防衛本能から、僕は彼女に頭を下げていた。
「別に、私だって将来の夢だとか……目標だとか、そんなご立派なこと考えたこともない。サークルだって去年の暮に辞めたし、好きだった相手には……その時に、振られちゃった。それにこの前飲んでたのだって……居酒屋で一人酒だよ!? 場末のサラリーマンかっての!!」
「そう……なんだ……」
最後には、日野 岬はケラケラと笑っていた。
何だか、その笑顔が無理に明るく振舞っているようで……どこかいたたまれないものを感じる。
そんな僕の気を知ってか知らずか、再び彼女は僕の前に立ち塞がった。
「だからさ……自分に何か足りないと思っているのは……空木 尽……君だけじゃない」
「そう……なのかな……」
「そうだよ。きっと、誰しもが足りない何かを抱えてて、それを他の誰かと補いあってる。私には難しいことは分からないけど……きっと世界っていうのは、そうやって成立しているんだと思う。
だから、尽の言う空っぽっていうのは、きっと自分一人じゃ解決しないことなんだよ」
本当にそうなのだろうか。
今まさに、青春とやらを謳歌しているであろう人達……いわゆるリア充達も、そんな風に生きているのだろうか。
──分からない。
そのことを理解するには、僕の世界はあまりにも狭すぎた。
「つまりさ、私も君も大して変わらないんだよ。尽が自分を空っぽだって言うなら、私だって中々に空っぽな女だってこと。結局、私もサークル内で揉め事を起こして、友達も、好きだった筈の人も……何もかも失った」
そう語る日野 岬の目は、どこか遠くを見ているようだった。
「大津
その口調から察するに、良い話であるはずがない。
しかし、恋愛だなんだという事情に疎い僕には、想像も付かなかった。
「ごめん、分からない」
正直に告げた僕に彼女は笑いかける。
そして、その答えを口にした。
「三番手ならいいよ……って言われたんだ。
それで、私……カッとなって、手を上げちゃった」
三番手……ただの一つも、居場所ですら手に入れたことが無い僕にとって、その言葉は遥か遠い世界の出来事のように思えた。
「それから先は早かったよ。人気者の亮平に暴力行為を働いた私は、すぐにサークルから除名処分。皆から総スカンを食らって、LINEはブロック。
一年間掛けて積み上げてきたものが、あの日……一気に崩れ落ちた。私に残された物なんて何も無くて……それで、私はアルコールに逃げた」
初めから繋がりも何も無かった僕と比べて、彼女のその苦しみは想像を絶する物だったことだろう。
「でも、尽はさ……あの時……そんな、どうしようもない私を助けてくれたんだ。
君からしたら、ただ迷惑なだけだったかもしれないけれど……それでも、誰かと普通に話が出来るって、それだけで私は嬉しかった。
だから、空木 尽……君に足りない物を私が埋めてあげる。それが、縁もゆかりもない私を助けてくれた、君へのせめてもの恩返しだと思うから」
「それって……どういう……」
肩に軽い衝撃。見れば、彼女の拳がそこに置かれていた。
「私が君の居場所になってあげる。お節介だって言われても、今日みたいに逃げても、辞めてやらないからな……覚悟しろよ、この空っぽ野郎!」
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