第3話

 あれから数日が経った。

 僕は相も変わらず、無味無臭の毎日を送っていた。

 良くも悪くも平穏で空っぽな日常。そこに何かが入り込む余地などない。いや、無い筈だった。

 そう、彼女を除いては……。


 先日、去り際に──日野 岬は確かにこう言っていた。

「ごめんなさい! 今後は、気を付けるようにするから!」

 その言葉に一体、どれ程の意味があったのか……今、激しく疑問に感じている。

「またかよ!!」

 そんな僕の声が、ホワイトサンクチュアリ・野猿に木霊した。

 夏、夕方、ドアの前で眠りこける金髪女……目の前に広がる光景は、完全なるデジャヴだった。

 強いて言えば、その服装は黒のTシャツにジーンズと、前回よりもラフな印象を受ける。加えて彼女──日野 岬の表情はどこか柔らかく、機嫌は多少良さそうに思えた。

 ──とは言え、ドア前を塞がれている事実は変わらない。

 僕は、またしても自室のドアの前で溜息をつく羽目になった。

(いっそのこと、警察に突き出してやろうか。あるいは……大家さんに相談してみても……)

 そこまで考えて、ふと馬鹿馬鹿しくなる。

 こんな下らないこと、誰かに相談したところで、まともに取り合ってもらえるとは思えない。今のところは大した実害があるわけでもないし、所詮はただの隣人トラブルだ。

(仕方ない……か)

 僕は彼女の頬を軽く叩く。

「おーい、日野さーん」

 ペチペチと周囲に小気味いい音が響く。しかし、彼女は一向に目覚める気配を見せなかった。

「相変わらず……酒臭い」

 僕は独り言ちる。

 元々、アルコールなんて大して好きでもないし、飲食を共にする仲間なんて居るはずもない。そんな僕の部屋前に、毎度アルコール臭をばら撒くのは御免被りたかった。

 あるいは、このまま彼女を退かして自分だけが自室へ入っても良いのかもしれない。ただ、このまま夜明けまで眠りこけているであろう彼女を、そのまま放置するというのも気が引けた。

 悔しいが、日野 岬は美人と言って差し支えない。モデルのような圧倒的な美しさかと言われると少し違うが、割と整った顔立ちをしているように思える。

 このまま放置すれば、良からぬ輩に目を付けられることも無いとは言い切れなかった。それにもし、何か事件が起きれば僕も無関係ではいられないだろう。

 さらには、熱中症のリスクだってある。ドア前でミイラなど出来てしまっては堪らない。

「これは、僕自身の心の安定のため……」

 そう、自らに言い聞かせつつ……僕は彼女の肩を担いで自室の戸を開けた。


 ****


「また、やっちゃった……?」

 翌朝、目を覚ました日野 岬は気まずそうに告げた。

 僕は静かに頷く。

「……ごめん」

 シュンとした様子で、俯く彼女。

 色々と言いたいことが有ったはずなのだが……彼女を前に、いつしかそれらは心の奥で鳴りを潜めていた。

 だから、僕は最低限の言葉を発する。

「別に……いいけど。一体、どうしてこうなるの」

「私、大分酒癖が悪いみたいで……」

「知ってる。何でそんなに酒を飲んでしまうのか……それを聞いているんだけど」

 少々棘のある言葉に日野 岬は視線を伏せる。

「ごめん……ちょっと言いたくない」

 その場を重苦しい沈黙が支配した。ただただ、気まずい時間が流れていく。

(なんだこれ……)

 黙りこくる彼女を前に、ふと、こちらまで申し訳ない気分になってくる。一体、彼女を責めて、僕はどうしたいというのだろうか。

 それで、僕の心は満足するのだろうか。この行為が、自分のためになるのだろうか。

(変なこと、言わなきゃ良かった)

 早くも僕は、自らの言動を後悔し始めていた。とにかくこの場をどうにか収めたい……気が付けば、僕の心の中を埋め尽くしていたのはただ、それだけだった。

「あの……」

 もういいから、とそう彼女に告げようとしたその時、その場に似つかわしい音が響き渡った。

 ギュルギュルギュル──。

 途端、その場の空気が弛緩する。

 見れば日野 岬の顔面は熟れたトマトのように真っ赤だった。

「えっと……お腹……空いたの?」

「ま、真面目な話してるのに、ごめんなさい!!」

 日野 岬は顔を真っ赤にしたまま、頭を下げる。

 僕は、そんな彼女に告げた。

「朝御飯……食べる?」

「えっ……?」

 ポカンとした表情を浮かべる日野 岬。

 それもそうだろう。自らの行動が責められているはずが、目の前の男は不意に「モーニングなどいかが?」などと言い始めたのだ。

 ついていけないのも無理はない。

 ただ、もう僕には彼女を怒る気も、責め立てる気もさらさら起きなかった。

「サトウのご飯が余ってて……賞味期限も切れそうだから、申し訳ないと思うなら手伝って欲しいんだけど」

 嘘だ。ついこの前買ったばかりで、あと半年以上は保つはずだ。

 だが、この一言が彼女の腹の虫に響いたらしい

「……いただきます」

 そう、殊勝に彼女は頭を下げた。


 ****


「あのさ……尽は怒ってないの?」

「え?」

 朝食の後片付けを終えた後、日野 岬は僕に尋ねた。

 不意に問われた僕は、間抜けな言葉を返す。

「だって、この前……今後は気を付けるって言って……それで、早くもこんなザマで……」

 僕は彼女の言葉を反芻する。

 確かに、初めは同じことを繰り返した彼女に対して苛立ちを覚えた。

 だが、その感情は彼女を前にした途端、すぐに形を失った。あの時の僕は、とにかく、気まずさから逃げ出したいと……そう思うばかりだった。

 結局、自分自身のことしか考えられていなかったのだ。

 そんな僕に、彼女に対して怒りを持ち続ける権利などない。

 加えて、食事をご馳走になったのだから、責めて後片付けぐらいはやると……そう言って彼女は自ら食器洗いを買って出た。

 そのことで、今や彼女に対して思うことは特には無かった。

「別に、怒ってない」

「……そっか」

 彼女は、ホッとした様子で胸を撫でおろす。そして、笑顔で僕に告げた。

「ありがと。尽は優しいんだね」

「優しい……? 僕が?」

 考えたことも無かった。結局、空っぽな僕はいつだって自分のことしか考えていない。そんな言葉を受け取る権利なんかない。

「そんなことないと思うよ」

「えっ……?」

 正面から自らの言葉を否定され、驚きの表情を浮かべる日野 岬。

 そんな彼女に僕は告げた。

「僕は……空っぽだから」

 なぜ、そんなことを言ったのかは分からない。あるいは、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

「なに……それ」

 日野 岬は僕の言葉に目を見開く。その表情は、まるで理解出来ない物を見るときのソレだった。

「ねぇ、ちょっと!!」

 僕は彼女の言葉に答えずに、鞄に手を伸ばす。そして、彼女にも家に帰るように促した。

「そろそろ、家を出ないと……一限、遅刻する」

 その言葉に、彼女は何かを悟ったらしい。ただ一言「ありがとう」と……そう告げて我が家を後にした。

「飲みすぎは、ダメだよ。僕が大変だから」

 去っていく背中に、そう告げる。

 バタン──。

 徒歩二秒、すぐに隣の部屋からドアが閉まる音が聞こえた。

 これできっと、彼女との奇妙な関係もおしまいだ。二度と僕らの人生が交わることも無いだろう。

 そう、思っていた。

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