第2話

 ──一体、こんな時……どうしたらいいのか。

 空っぽな僕の頭は、既にオーバーヒート寸前である。

「ううん……」

 眼前には、妙になまめかしい声を上げる正体不明の金髪女。だが、不思議と色気は一ミリも感じなかった。

 理由は単純だ。

 彼女が顔を突っ込んでいる物……それが、我が家の洋式便所に他ならないからだ。

「ヴォエエエエエエエ」

「はぁ……」

 二度目の咆哮に、僕は嘆息する。

 数分前、僕はどうにか彼女を吐瀉物から守ることに成功した。

 しかし、間抜けにも助けたその先のことを、一ミクロンも考えていなかった。

(一体、これからどうしたらいいんだ……)

 思考がグルグルと回り続ける。だが、答えは一向に浮かんでこない。もちろん、それを教えてくれる人もこの場に居ない。

 Google先生によると、とりあえず吐かせて水を飲ませる。そして、楽になったら対象を寝かせる……とある。

 確かに、それは指針としては正しいのだろう。だが、一体どのタイミングで、どれ位の水を飲ませればいいのか。あるいはどのタイミングで彼女を眠らせればいいのか。

 その事細かな条件までは調べ切ることが出来なかった。

 つまり、最終的には自らの判断でこの事態を収拾しなければならないのだ。

 この一見、世の中にありふれているようで、しかし、僕の人生にはあり得なかった光景を……。

 だって、この場には自分と彼女しか居ないのだから──。


(そんなの、初めから分かっていることじゃないか……)


 ところが、そんな思いとは裏腹に……現実として僕は、情けなく彼女を前にフリーズしているだけだった。コンピューターで言うのなら、まさにブルースクリーン状態である。願わくば、誰か頭でもぶっ叩いて再起動して欲しいくらいだ。

(あぁ、なんて自分は無力で役立たずなんだろう)

 僕は自らを呪う。

 きっと、コミュニティに属している者達であれば、手慣れた様子で彼女を介抱して見せることだろう。


 ──でも、空っぽな自分にはそれが出来ない。


 止めどなく溢れだす冷や汗に極度の緊張感……油断するとこっちまで嘔吐しそうだった。

 そんな僕の耳に、天啓のように言葉が響いた。

「み、みずぅ……」

「は、ハイ!!」

 僕は、とっさに返事をして、冷蔵庫に保管していた東京水を金髪女に与える。

 彼女はそれを瞬く間に飲み干すと、そのままトイレのドアに寄り掛かり、再び夢の世界へと旅立っていった。さらば、東京水。お前のことは忘れない。

「ハアアアアァァァァ……疲れた」

 腰から力が抜け、特大の溜息と共に僕はその場に座り込む。

 イレギュラーへと対応した全身は、かつてない徒労感を主張していた。

 だが、このまま眠るわけにはいかない。

「よいしょ……っと」

 僕は自らに鞭打って、彼女を引きずるように布団へと寝かせる。

 この行動が正解かどうかは分からない。しかし、少なくとも女性を便所で一晩過ごさせることが正しいとも思えない。

 ふと見た時計は午後一〇時を示していた。結局、夕方から夜へかけての数時間を、この金髪女のために費やしたことになる。

(まったく……なんて日だ)

 流石に彼女と同じ布団で眠りわけにもいかず……僕は廊下で横になりながら、強く願った。

「どうか、夢でありますように……」


 ****


 昨春──念願かなって僕は大学へと進学した。


「いい大学に入りなさい」


 地元では耳が腐り落ちるくらいに聞き飽きた言葉だ。両親や先生方……時にはマスメディアさえも、繰り返してきた主張──僕はその言葉を信じ、彼らに指示されるままに勉強を続けてきた。

 別に、勉強が好きな訳ではないし、地頭が良いわけでもない。スポーツや芸術の才能もない。無論、見た目が特段良いわけでもない。

 全てにおいて平凡、凡才……そんな僕には将来の目標も、なりたい物も見つけられなかった。

 だから、頭の片隅に巣くう、その言葉だけを頼りに生きてきた。


「いい大学に入りなさい」


 娯楽を禁止されていた訳ではない。人並みにテレビドラマに漫画や小説、ゲームやアニメ等々……それなりにインドア生活を楽しんだりもしている。

 親友とは言わないまでも、日ごろ、会話をするぐらいの友人も居た。居たはずだった。

 だが、心から何かにのめり込みそうになるその直前、どこかでストッパーが掛かるのだ。

 ──果たして、コレがお前の人生にとってプラスになるものなのか……と。

 その答えは……正直、今でも分からない。

 ただ、確かなことは、中途半端に揃えられた漫画や読みかけの小説、購入したままに積まれたゲームソフトが残ったということ。

 そして、僕が友人だと思っていた彼らは、学年が上がる度に疎遠になっていき……いつしか連絡を取ることすらなくなっていったということだけだ。

 結局、当時の僕にとっては、受験こそが全てだった。それだけが、自分の人生を何よりも明確に豊かにするのだと、そう信じていた。

 結果として、頭の出来が良いわけでもない僕が取れ得る選択肢の中では、最も上等な大学から合格通知を勝ち取ることが出来た。

 八王子に学舎を構える明応大学──超名門とまでは行かずとも、そこそこの知名度を誇る、そこそこの大学。ちょうど偏差値的にいうならば50くらい。

 飛びぬけて良いわけでも、悪いわけでもない。世間ではまずまずの評価が下される……そんな位置づけである。皮肉にも、それは教師陣から下された自分自身の評価そのものだった。


 高校を卒業した後に僕は上京した。

 別に自ら望んだわけではない。地元である栃木市から八王子までは、物理的に通うのが難しく、親元を離れただけのことだ。

 だが、そのことに全く期待をしていなかったと言えば、それは嘘になる。

 初めての引っ越しで、慣れない事ばかりで手惑いながらも、これまた慣れないスーツを引っ張り出し、明応大学の入学式へと参列した。

 きっと、その時の僕は胸を弾ませていたのだろう。今思えば、かなり浮足立っていたし、何よりも頭の中を占めていたのはある種の期待感に他ならなかった。

 この先には一体どんな新生活が待っているのだろうか……と。

 ところが、結果はまさしく惨敗だった。

 結局、環境を変えたところで僕自身は何も変わらなかったのだ。無論、何もしなかったという訳ではない。入学当初の期待感に身を任せ、無理矢理に数多のサークルの新歓活動に参加したりもした。

 しかし、結局は物にも人にも興味を持てなかった。これまで、途中で投げ捨てた数多の漫画や小説のように、一歩引いたところから彼らを見てしまう自分が居た。

 ──果たして、コレがお前の人生にとってプラスになるものなのか……。

 いつしか、サークル活動からは足が遠のき、自らどこかへと外出することも無くなった。後には徒労感と、一生連絡することが無いであろう多数のLINE IDだけが残された。

 結果、僕は最後には家と大学を往復するだけのマシーンと化した。

 当初はそれほど辛くは無かった。つまりは、以前と同じ状況に戻っただけなのだから。

 ところが、それから一月が過ぎ、二月が経過したある日……ふと、他ならぬ僕自身の内側から疑問の声が沸き上がった。

 お前はこれから先、一体何がしたいんだ──と。

 途端、目の前が真っ暗になった思いがした。

 ただ、盲目的に周囲の言うことを信じ、勉強をし続けた僕は、そこそこの成果を出した。だが、その先に待つものが……何も無かった。


 お前には何もない。空っぽなんだ──。


 滑稽なものだ。

 人生にプラスだ何だと言いながら、結局は自分自身の人生が一ミリも見えていなかったのだ。

 これまでは明確にあった『大学受験』という目標は既にない。周囲には答えをくれる人も居ない。

 そして、ただただ日々は無味無臭のままに過ぎ去っていった。

 答えを見つけられないまま、僕のモラトリアムは今日も着実に消費されていく。

 僕は、どこまでも一人だった。


 ****


「な、なによ!! これ!! 一体なんなのよ!!」

 その日、早朝からホワイトサンクチュアリ・野猿には女性の叫び声が木霊した。

 無理矢理に、意識を底から引きずり上げられた僕は、眠気眼を擦りながら体を起こす。

「痛ッ……」

 慣れない廊下で寝たせいか、身体中が悲鳴を上げていた。

 このままでは敵わない。ストレッチで全身を解そうと、前屈みになったその時……彼女、すなわち昨夜の金髪女と目が合った。

「あっ……」

「あ、あんた!! 一体何のつもりよ!! どこなのよここ!!」

 こちらが何かを言う前に、素早く問い詰める昨夜の金髪女。

 言動から察するに、昨夜の記憶は一切無いらしい。

「いや……その、どこと言われても……」

 朝一から矢継ぎ早に問い詰められたところで、頭がうまく回らない。

 どうにか事情を説明しようと、僕は言葉を探す。

 だが、それよりも早く、彼女は自らの携帯をポケットから取り出した。

「け、警察を呼ぶわよ!!」

「ま、待って!! ちゃんと説明するから!!」

「いい? 正直に言えば、そのままの内容を警察に連絡する! 嘘をつけば容赦なく警察に通報するわ!」

「どっちにしろ、ゲームオーバー!?」

「いいから、早くしなさい!!」

「分かった。分かったから!」

 こちらを睨みつつも、金髪女はその手を止める。そして、顎でこちらに指図した。

(ドア前を占拠されて……通報したいのはこっちの方だ)

 その仕草にやや、ムッとしながらも僕は事情を説明する。

「ええと、つまりは昨日……まずはドアの前で酔いつぶれた君を抱きかかえて……」

「この変態!!」

 いきなりのストップ。これは先が長そうだ。

「いや、あの……とりあえず最後まで話を聞いてよ……」

 僕は頭を抱えながら、ため息をつく。

 すると、彼女はブツブツと何かを思案しているようだった。

「まぁ、確かに昨日は飲んでたし……酔いつぶれていてもおかしくはないか……で、それで? 続きは?」

 一応、彼女の中で辻褄が合ったらしい。金髪女は不意にこちらへと問いかけた。

 その、あまりにも上からな態度にイラっとした僕は、ささやかな復讐の意味を込めて、ありのままの事情を口にする。

「君の頭を、そこの便器へ突っ込んだ」

 数秒間の静寂。その後、黙って彼女は携帯を操作する。その目は、まるでゴミでも見るかのようだった。

「ちょ、ちょっと待って! 君が今にも嘔吐しそうだったから、家の中まで運んだんだよ!」

「何よ、初めからそう言いなさいよ」

 僕の釈明を耳にした彼女は、再び携帯をポケットへとしまう。

 危なかった。もう少しでブタ箱送りにされるところだった。

 慣れないことはやるもんじゃない……と、そう心に誓う。

「それで、そこから先はとりあえず、君が胃の中の物を……」

「ストーーップ!! その辺りは私の女としての尊厳に関わるからカットでお願い!」

 再びのストップ。今更そんなことを言われたところで……実際に僕はその場面を目撃しているわけで「あぁ、そう」と、酷くドライな返事しか出てこなかった。

 内心、すこぶるどうでもいい。

「それで、ひと段落した頃に水を飲ませた。そのあとは、再び眠った君を布団まで運んだ。これでおしまい」

 早くこの無益な問答を終わらせたかった僕は、一気に結論を述べた。

 すると、彼女は目をパチクリとさせながら、意外そうな表情を浮かべる。

「えっ……そんな、本当に何もしなかったの」

 その問いに対する、僕の答えは決まっていた。

 別に誠実に生きようとか、そんな大それたことを考えていたわけでもない。ただ、彼女に対して嘘はつけないと……そう思った。

 だから、僕は真実をそのまま告げる。

「便器に顔を突っ込む君を見ても、そんな気はサラサラ起きなかった」

「うっさいわね!!」


 怒りの一発が、昨日痛めた左頬へ飛んだ。


 ****


「その……少々引っかかるところもあったけど……ありがとう。助けてくれて」

 ややあってから、彼女はそう告げる。

 酷く遠回りをしたような気もするが、自分の置かれた状況を正しく認識出来たらしい。

「ど……う……いたしまして」

 おおよそ一年間……ほぼ使うことの無かった言葉が、少々つっかえながらも放たれる。何だか、酷く照れくさかった。

 そんな僕の様子に彼女は小さく笑う。そして、こちらへ問いかけた。

「それで、あなた……名前は?」

じん空木 尽うつろぎ じん。空に樹木の木、それから尽くすって書く。一応、この部屋の住人」

「ふうん、変わった名前ね。歳は幾つ?」

「今年で二〇になった。一応、明応文学部の二年生」

「あら、同級生」

「そうなんだ」

「そうなんです」

 まさしく、偶然の一致だった。僕達は互いに苦笑する。

 思えば、お互いのことを何一つ知らず……僕らは一夜を共にしたということになる。

 順番が滅茶苦茶とか、そういうレベルの話ではなかった。

 だが、そんな状況だったからだろうか……ふと、僕は彼女に尋ねていた。

「えっと……君は?」

「私は日野ひの みさき。ウツロギ君に比べたら、どこにでもある名前。東京都日野市に、海の岬で日野 岬」

 あまりにも自然で、ありふれた自己紹介。時間にして、僅か数秒。

 この程度の簡単なことすら、僕は放棄していた。

 そのことを実感し、心がズキズキと痛む。

 ──僕は、一年間……一体、何をしていたんだろう。


「ところで、ウツロギ君」

 彼女……日野 岬の声に僕はふと、我に返る。

 空木と書いてウツロギ、僕の生まれた一族を示す苗字。そこに潜むウツロという単語……それがまるで自分自身を揶揄しているようで、僕はこの苗字が嫌いだった。

 初対面の女の子に自分の名前を呼ばせるのも、中々のハードルだが……ウツロウツロと連呼されるよりはマシだろう。

 意を決して、彼女に告げる。

「あ……ええと、尽でいいよ。同い年だし」

「あら、そう……。それじゃあ尽。教えて欲しいんだけど、ここはどこ? 私はどうやって帰ればいいの?」

 唐突に投げかけられた質問。

 だが、その問いに答えるだけの情報が、僕には無かった。

「まず、キンパ……日野さんの家を知らない」

 危うく、金髪女と口走りそうになった僕を訝しげに眺めてから、彼女は小さく呟いた。

「まぁ……それもそっか」

 むしろ知っていたら怖い。ストーカーの疑いがある。

「私、八王子の野猿街道沿いのアパートに住んでるんだけど……。ホワイトサンクチュアリ・野猿といかいう、謎センスの名前のね」

 偉く聞き覚えのある名前に、僕は床を指差した。

「……ここです」

「えっ……」

 僕の言葉に、虚を突かれた様子の日野 岬。

 だが、それも当然のことだろう。

 遥か遠くかと思っていたアパートに、意図せずとも既に辿り着いていたのだ。人によっては「帰巣本能ってスゴい!!」とか言いだしかねない。

「ここ、ホワイトサンクチュアリ・野猿の二〇一号室」

 そう告げて、僕はカーテンを開け放つ。

 すると、見慣れた八王子の街並みが現れた。所々に緑が顔を出し、アパートが乱立している。そして、少し遠くには多摩丘陵が一望出来る。

 そんな、如何にも田舎の学生街といった風景に彼女は静かに頷いた。

「私、二〇二号室……」

「隣だ」

「うん……」

 顔を真っ赤にして、彼女は俯く。

 壁一枚隔てた向こう側が自らの住居だった……それをまるで、遥か遠くのように言っていたのだ。心中察して余りある。

「歩いて二秒で帰れると思う」

 冗談のつもりで言った言葉に、しかし彼女は答えなかった。


 結局、真相はどこまでもありふれている話だった。

 酔いつぶれた彼女は、アパートまでは戻ってきた……だが、あと一歩のところで自分の部屋までたどり着け無かった。

 ただ、それだけのありふれた話だった……その筈だった。

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