バーン・アウト

いさき

第1話

 気が付けば、僕──空木 尽うつろぎ じんは空っぽだった。

 別に、身体の中身が空洞だとか、臓器が抜け落ちてるとか、そういうファンシーな話じゃない。

 ただ、世間一般にはモラトリアム真っ盛りとでもいうべき、大学二年生の夏──学校にも慣れ、就活に縛られることもない……そんな人生のボーナスタイムにおいてなお、僕の両手には何も無かった。そんなつまらない話だ。

 もう少し具体的な言葉にするならば、夢や理想、あるいは趣味や友人、恋人だとか……そういった持って然るべき物、持つことが推奨される物を一切合切持ち合わせていなかった。そんなところだろうか。

 こんなはずじゃなかった──とは思わない。思う資格すらない。

 そんな不満を言える程の中身が僕にはないのだし、もはや悔しいと思う心すら消失しているような……そんな気もする。

 ただ、いずれにしろ二〇歳にして、何も積み上げてこなかった人間が辿るには、これはふさわしい末路なのかもれない。

 そして、そんな空っぽの自分とは対照的に、目の前の彼らはこのボーナスタイムを謳歌していくのだろう。


「ねぇ、今日どうする? この後、飲みに行かね?」「いくいくー。時間と場所はどするー?」「いやー、昨日のカラオケのオールがしんどくてさー」「やばくね、あの法学部の子……何とか、LINE交換とか出来ねえかなー」「お前にゃ無理だろ、諦めろよ」「うわっ……外出るとやっぱ暑いわ」「タピオカ! インスタ!!」「いいかね、魔法少女というものは……」「今度の休みさ、どこか行こうよ~」

 周囲の声が、否応なしに両耳から流れ込んでくる。

 今日も八王子の片田舎に位置するキャンパスには人が溢れていた。

 ちょうど、四限の講義が終わったばかりのようで、辺りにはチャイムの音が鳴り響き、講堂からは続々と受講者達が出てくる。

 休校で時間を持て余した僕は、日陰からそんな空間をボンヤリと眺めていた。

 まるでお花畑のように、カラフルな頭髪を携えた男女五人組、カップルと思しき数組の男女、それから執拗にタピオカの話をする女性群に、アニメか何かの設定を語る男達……etc.

 一括りにするには、あまりに多種多様な人種がその場に存在していた。人間観察でもするならば、選り取り見取りだ。まさに欲張りセット状態である。

 ところが生憎と、僕にそんな趣味は無い。そもそも趣味と呼べるであろう物がないうえに、特別……観察眼に優れているわけでもない。

 しかし、そんな僕でも彼らを見ていると嫌でも分からせられることがあった。

 まず一つは、同じ大学に属する学友だということ。(言うまでもないことだが……)

 そしてもう一つは居場所──彼らは皆、何かしらのコミュニティに属しているということである。

 各々、この場に集う学生達はそれぞれの居場所を持っている。もっと言えば、この場に居ない人ですら……大学という大きいようで小さな箱において、ほとんどの人がそれを持っているのだ。

 

 だが、僕にはそれが無かった。

 

 毎日、一人で講義に出席し、何の興味も沸かない授業内容の板書を取る。その作業を繰り返した後にアパートに帰宅する……そんな日々。まるでプログラムのように、規則正しく僕の日常は過ぎていく。

 人と会話をするのは「カレーライス。大盛で」と、学食のおばちゃんに注文する時くらいのものだ。

 そんな僕を端的に表現する、便利な言葉が世の中には存在している。

 ──ぼっち、陰キャ、コミュ障、真面目系クズ。

 決して、一匹狼を気取りたいわけではないし、僕自身の心にそれほどの強度も無い。さながら、群れからはぐれ、しかし何も出来ずに一人で彷徨う子羊……それが妥当なところだろう。そして、きっとどこへも行けずにこの箱の中を彷徨い続けるのだ。


 なぜなら、僕は空っぽなのだから……。


「さて、帰るかー。暑いしなー」

 傾き始めた夕日を背に、僕は一人声を上げる。無論、話し相手など居ない。

 だが、これは必要な行動だった。

「今日は何を食べようかなー」

 人は言葉を発しないと、まるで、喉元に何かの詰め物がされているかのように言葉に詰まってしまう。とっさに言葉が喉から出てこなくなってしまうのだ。

「うん……今日も大丈夫だ」

 そのことを、僕はよく知っていた。


 ****


「ったく、遠いな」

 明応大学から徒歩二〇分。そこそこの距離に位置する場所に僕は居を構えている。

 主な通学方法は徒歩。故に今日も、野猿街道を自らの足で西へと進んでいく。

 春秋であればさほど苦労もしないのだが、この7月の日差しの下での行軍は中々に堪えるものがあった。

「しんど……」

 あえて不平を口から零しつつ、歩を進める。まるで嫌がらせのような蝉の合唱に嫌気が刺し始めた頃……唐突にその建物は姿を現した。

 ホワイトサンクチュアリ・野猿──何とも御大層な名前だが、実際は築三十年の1K……要するにただのボロアパートだ。

 家賃は月四万円。何とか仕送りだけでやっていける格安物件を探した結果……ここへと辿り着いた。

(白の聖域って、しかもそこに合わせる言葉が野猿って……)

 趣味の悪い初老の大家さん(61)のセンスに苦笑しながら階段を上り、僕の住居である二〇一号室へと向かう。

 キンキンに冷やした、ペットボトル入りの東京水がドアの向こうで僕を待っている。まさしくこれは、天国への階段だ。

 (あともう少しだ)

 額の汗を拭いながらも、最後の階段を登り切った時……。

 事件はそこで起きる──いや、起きていた。


「って、えぇぇぇぇぇぇ!?」

 自室のドアの前、そこで僕は堪らずに声を上げた。

 だが、それも仕方のないことだと思う。

 ──いやいやいや、おかしいだろ!?

 何せ、見たことの無い金髪の女がドアに寄り掛かるようにして、倒れこんでいたのだ。

(ま、まさか、死んでる!?)

 最悪の状況を想像し、心拍数が一気に跳ね上がる。

 ある種、現実離れした光景を前に、僕は何とか状況を把握しようと努めた。

 金色のロングヘア―に、白のミニスカート。そして桜のような薄ピンクのサマーニットにブランド物と思しきバッグ──ファッションには疎い僕でも分かる程、女は妙に気合の入った服装をしていた。

(って、そんなこと気にしてる場合じゃないだろう!)

 しゃがみ込み、荒ぶる呼吸を落ち着けた後に口元に耳を寄せる。すると、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。

 呼吸は正常なようだ。特に外傷も見当たらない。

(良かった……)

 僕はホッと胸を撫でおろす。

 だが、程なくして彼女がこんな状態になっている原因も否応なしに理解させられた。

「うっ……酒臭い……」

 恐らくは、飲み過ぎで前後不覚に彷徨い、自分の家まで辿り着けなかったのだろう。夕方から人の部屋の前で泥酔とは、まったくいいご身分である。

 嫌味の一つでもくれてやりたい気分だ。

 しかし、実際問題このまま放置しておく訳にもいかない。この光景を誰かに見られ、あらぬ誤解を掛けられては面倒だし……何より、このままでは僕が部屋に入れない。

(ええい、待ってろよ。東京水!!)

 意を決して、僕は金髪女に声を掛けた。

「あ、あのぉ……」

 蚊の鳴くようなボリュームだった。当然、彼女は気が付きもしない。

「あ、あの! 起きてくれませんか! そこ! 僕の部屋なんですけど!」

 先程よりボリュームを上げ、僕は声を掛ける。

 普段から一人でも声を出している成果が出た。きっと、何もしなければ喉で言葉がつっかえていたことだろう。

「う、うーーん……」

 すると、金髪女は薄っすらと目を開けた。

 そのまま僕は、ため息交じりに彼女に告げる。

「やっと、起きてくれた。あの、そこは僕の──」

 ──パァン!

 だが、彼女がまず放ったのは謝罪の言葉や、ましてや照れ隠しの類でも無く……鋭いビンタの一撃に他ならなかった。

「痛ッ……い、いきなり、何するんだ!」

 突然の出来事に戸惑いながらも、僕は金髪女へと文句をぶつけた。

 左頬が痛い。ジンジンと腫れ上がっているのが分かる。

 だが、眼前の女から放たれた言葉は、僕の予想の斜め上を行くものだった。

「この浮気男! 大嫌い!」

 僕の胸倉を掴みながら、彼女は僕へと告げる。

 そして、そのまま僕の頭を前後に揺さぶった。

「アヴアヴアヴ……」

 脳が揺れる。何だかこのままどこかへ飛んでいきそうだ。主に意識が。

「私が……どんな思いでアンタのこと待ってたと思ってんのよ! 亮平!」

 完全に酔っ払いだ。まるで周囲の状況を理解できていない。

(な、泣いてる……!?)

 さらに、その目元にはキラリと光る雫を蓄えていた。

 きっと彼女にとっては余程、辛いことがあったのだろう。それこそ昼間から酒に溺れなければやっていけない程の……。

 だが、残念ながら僕の名前は亮平ではないし、そんなことに巻き込まれる謂れもない。

「あああの、ぼぼボブはリョヴヘイなんてナナバエじゃ──ブヘッ」

 揺れる視界の中、必死にそう主張する。正直言って、言葉になっていたかも怪しい。

 だが、彼女にとって、そんなことはどうでも良かったようだ。

 揺すりが止まったと思った、その瞬間──僕の言葉は再度の衝撃によって遮られた。

「今度は、右かよ!」

 先程と同等の痛みが右頬に走る。

 きっと腫れ上がった両頬は、まるでアンパンのヒーローのようになっていることだろう。もちろん、生憎とそんなところにシンメトリーは求めていない。

「ちょ、まっ……!」

 慌てて目の前の女を制止しようとする。

 だが、そんなことは意にも介さず、彼女は再び僕に罵詈雑言を投げつけた。

「私は三番目って何よ! 馬鹿にするのもいい加減にしろ! この最低男! ヤリ○ン! 外道!」

(あぁ、もうこれは駄目な奴だ)

 内心で僕は白旗を上げ、金髪女の為すがままに任せることにした。

 諦めと共に見上げた空は徐々に紫紺へと染まりつつあった。そして、地平線へと沈みつつある夕日がやけに眩しく感じられたのだった。


 ****


 謎の金髪女に絡まれてから数十分……夕日が完全に沈み、アパートの蛍光灯が灯り始めた頃。ようやく彼女は大人しくなった。

 まるで充電が切れたかのごとく、罵詈雑言は鳴りを潜め、最後の力を振り絞って僕の胸元を掴んでいるようだ。

(やっと収まったか……)

 ホッと胸を撫でおろし、彼女を見る。

 これでようやく面倒ごとから解放されたと、喜んだのもつかの間……それは次なるラウンドの幕開けに他ならなかった。

「ぎ、ぎもぢわるい──」

 彼女は小さくそう呟いた。顔色は真っ青。沖縄の海も裸足で逃げ出す程の青さである。

 瞬間、僕の脳に稲妻が走った。

 それは、かつて闇雲に参加した新歓コンパでの記憶だ。

 もう、何のサークルだっだのかも、誰が参加していたのかも覚えてはいないが……しかし、その光景だけは今でもクッキリと脳裏に焼き付いている。

「うぇええい!! バーボン、いっちゃいまーす!!」

 そう声高に宣言し、周囲の制止を振り切ってワイルドターキー(40度)を一気飲みしたワイルド先輩(仮)も青白い顔で同じ台詞を呟いていたはずだ。

 ぎ、ぎもぢわるい──と。

 そして、彼は気を失い、自らの吐しゃ物にまみれていた。それは、最高にワイルドかつ凄惨な結末だった。

 まさしく、金髪女の置かれた状況もあの時と同様である。さらに、このままではこちらにも被害が及びかねない。

 相も変わらずに僕の胸元を掴んだままの彼女……その顔の向け先……それは、紛れもなく僕だった。

(角度的に避け切れない……ええい、ままよ──!!)

「し、失礼します!!」

 上ずった声と共に、僕は彼女を抱きかかえた。

「お、重い……」

 思わず言葉が漏れる。

 きっと、平常時に聞かれていれば拳が飛んでくるであろう台詞だろう。

 だが、仕方がない。人一人抱えているのだ。ただの大学二年生たる僕にとって、重くない筈がない。

「ぐ、ぐぬぬ……」

 震える手で鍵を開け、ドアノブに手を掛ける。

 あるいは、このまま彼女をどこかへ放り出しても良かったのかもしれない。元より、知り合いでも何でも無いうえに、僕は絡まれて迷惑を被っていた……謂わば、被害者である。

 だが……どうしても、その気合の入った服装が吐しゃ物に塗れ、ワイルド状態へと変貌するのは忍びないように思えたのだ。

「間に合ええええええええ!!!」

 辛うじてドアを開けると、彼女をトイレへと放り込む。

 そのまま便座に頭を固定し、身体を支えた。

「ヴォエエエエエエエ!!」

 間一髪──饒舌に尽くしがたい雄たけびを上げながらも、彼女はワイルド危機を脱することに成功する。

 これが、空っぽな僕と彼女……日野ひの みさきの鮮烈過ぎるファーストコンタクトだった。

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