第22話 願いを

 ひるんだら駄目だ。周りは皆敵なんだ。

 一瞬でも躊躇ちゅうちょすれば、数に物を言わされて私なんてすぐに倒されてしまう。


 だから、ためらわずに、息もつかずに、すぐに行動を!


 私はハコさんから預かったセイ君の筆を振るう。


 彼女が言っていた言葉がよみがえった。


『この筆には別に特別な能力などありません。これはあくまで仕事道具ですので。精々字を書くくらいの使い方しかできないでしょう。まぁ、書くくらいならどこにでも書けるでしょうし、多少の加護があるでしょうが』


 彼女の言う通りであった。

 セイ君の筆は望むところどこにでも文字を書くことが出来た。

 空中にルーンを刻むことさえ出来た。


 ディートフリート先生が私の事を睨みつけるようにしてみている。


 その口が開き言葉を放とうとしている。

 私を殺す言葉を。周りの生徒達に私を攻撃させるための言葉を、先生が口に出そうとしていた。


 だけど、私の体はそれよりずっと早く動いていた。

 自分の弱さを知っていたから。自分の未熟さを理解していたから。

 だから、一切の加減なく私の体は全力で動いていた。


 中空にまたルーンが浮かぶ。

 彼と一緒に何度も何度も練習したルーンが、私の前に刻まれていく。

 『爆裂する炎』のルーンが、そこに姿を現す!


 私はすぐさま起動用の呪文を叫んだ!


「『ラ・ディエンナ・ヒィ』! 炎よ爆裂せよ!」


 中空に刻まれたルーンが音を立てて割れると、そこから前方に向かって爆炎が上がった!


 その炎は本当に何もない空間で爆発しただけだ。


 結界によって守られているディートフリート先生には、炎のその熱ささえ届かないだろう。


 だけど、この爆発によって、先生は言葉を口にするのをためらわせた。

 一瞬だけ、奴隷と化した生徒や先生たちへの命令の言葉を紡ぐのをやめた。


 その一瞬が私の欲しかったほんの一瞬だった。


 前へと進む。

 爆炎の中へと、体を晒して、足を踏み入れる!


 熱気が体を包むのにもかまわず、私はまっすぐに、先生に向かって駆けだした!


 体が焼ける。炎にまかれて熱さが鋭い痛みとなって私をなめる。


 それでも、私は前に進んだ。


 私は弱い。そう自覚している。

 そんなこと、とっくの昔に分かっている。


 それでも、それでも私に出来ることがあるのであれば。


 誰かの事を助けることが出来るのであれば。


 私の事を助けてくれた彼の事を救うことが出来るのであれば。


 体を焼く炎なんて熱くなかった。


 この痛みが本当に辛い痛みではないと、私はもう知っているのだ。


 本当に辛いのは、本当に苦しいのは、あの時懲罰房で感じたあの胸の痛みなのだ。


 無力感に打ちひしがれて、何もできない自分を自覚した時の、あの胸の痛みこそが真実の痛みなのだ! 


 あれに比べればこの熱さだって辛くはない!


 体を舐め、髪を燃やすこの炎にだって、恐ろしさは感じない!


 本当の辛さを、本当の苦しさを、本当の痛みを私は知っている、私は知っているんだ!



 だから、どんなに痛く苦しくても前に進んで行ける! 前に、前に、前に!!



 炎を通り抜け、先生の目の前までたどり着く!


 爆炎の中から姿を現した私の事を驚愕した表情で先生が見た。


 だが、それでも何か言葉を口にしようとしているのが見える。


 それよりも早く私の筆が動いた。


「『ラ・ヴィエナ・フゥ』! 風よ吹き荒れよ!」


 もう一度先生の身を豪風の拳が襲う。

 結界に守られてない至近距離で攻撃を受け、先生が再度痛みに呻いた。


「こ、この糞ガキィ!」


 だけど先ほどより弱い風しか吹かない。

 文字が、ルーンが正しく描けていなかったせいだ。


 先生がすぐさま体勢を立て直すと私に掴みかかってくる。


 筆を持ってない方の手で、その左手で私のローブを掴みにくる。


 私はそれを受けて、左手に持ってるナイフで先生の右手を狙った。


 筆を、セイ君の力が閉じ込められたあの筆をとり返すために。


 先生が私の胸ぐらをつかむ。同時に私の振るったナイフが先生の二の腕の辺りに刺さった。


「ッ! この、この糞が!」


 それにも構わず先生が筆を持った右手をそのまま握りこむと私の顔に向かって思いっきり振り切った。


 鋭い衝撃が頭全体を襲う。

 グラっとして視界が一瞬歪んだ。


 ナイフから手を離し、倒れこもうとする私の体を、ローブを握った先生が無理やり立て直させる。


 二の腕に刺さったナイフを見て、先生が忌々しそうに言った。


「この私に……この神に! よくもやってくれたな! ただでは殺さんぞ!」


 そう言うと私の顔を何度も何度も殴りつけてくる。


 鋭い痛みが繰り返された。

 何かがひしゃげるような鈍い音が中庭に響き渡る。


 痛い。意識が朦朧とする。


 だけど、それでも手に魔力を込めると、私は先生の腹の辺りで筆を動かした。


 彼が、セイ君が見てくれたルーンを震える手で書いていく。


 酷い字になるはずだ。

 まともなルーンになるはずがない。

 殴られながら、きちんとした文字を書けるはずがない。


 ただでさえ私は字が下手なのだ。こんな状況で綺麗なルーンを書けるはずがない。


 それでも私はそうした。手を、動かした。


 弱くて何もできなくて、ただ一人、孤独な日々を耐えていた私の前に彼は現れた。


 寂しくて苦しかった私の傍に彼はいてくれた。

 寝る間を惜しんだ私のおしゃべりにいっぱい付き合ってくれた。

 こんな私の、何もできない私の事を彼は助けてくれた。


 朦朧とする意識の中で、温かさが胸にあふれて手が自然に動く。


 手に持った『聖筆』がそれに答えるように光を放ち、文字を刻んでいく。


 ルーンが描かれる。ただそうあるように。


 文字として、そうあるのが正しいことを示すかのように。ルーンが私の手を通して描かれる。


 それに気づいてディートフリート先生が私の事を笑い飛ばした。


「なんだそれは? 炎のルーンか? だがなこの距離で使ってみろ。私だけではないお前も無事では済まないぞ?! それにこれだけ殴られてまだ起動用の呪文を唱えることが出来るか? 出来るものか! 劣等生のお前に! 愚図の貴様なんぞに!」


 いや、出来る。


 私には出来る。


 何故なら私はあの温かさを知っているのだから。


 隣に誰かがいるその温かさを、セイ君の温かさを知っているのだから。


 それを失うことに比べたら、炎のルーンの直撃だって怖くはない。


 どんな困難だって私は恐れはしない!


 この胸の気持ちは挫けなどはしない!


 前に進もうとする、強くありたいと願う私のこの想いは!


 けして折れたりなどはしない!!


 朦朧とする意識の中で起動用の呪文を、私は唱えようと口を動かす。


「ラ……ラァ……」


「お前……!」


 ディートフリート先生が急いで右手に持った筆を握りなおすと、私の書いたルーンを弄ろうとしてくる。


 しかしその筆は何かに阻まれて、目的のルーンまでは届かなかった。


 ハコさんだ。彼女が姿を現し、その筆の動きを体で受け止めていた。


「おやりなさい。私に構わず」


 そう声を私にかけてくる。


 その声に私は答えた。

 大きく息を吸い、『爆裂する炎』のルーンのその起動呪文をはっきりと口にする!


「『ラ・ディエンナ・ヒィ』! 炎よ爆裂せよ!」


 私の精一杯の力を込めて描いたルーンが割れ、そこから炎が吹き荒れる!


 私と先生の間で先ほどよりも大きな炎が爆発し、私達の体を吹き飛ばした!


 体が浮き、地面に打ち受けられ何度も転がってしまう。


 少しして、なんとか体が止まった。全身を固い地面に打ち付けて痛みが止まらない。


 だけど、その痛みにも顔の痛みにも構わず私は上空を見上げた。


 感じたからだ。その方向に私が求めている力を。


 灰色に輝く筆が中空を舞っていた。


 先生が手放してしまい、爆風によって空まで舞いあげられた筆が、天高くクルクルと回転している。


 ディートフリート先生も私が上空を見上げているのを見て、同じようにそこを見た。

 そして勝ち誇ったような顔で言ってくる。


「馬鹿め! こっちに落ちてくるぞ! 私の! この神の元へだ! 所有者の元へ落ちてくる! お前の負けだ小娘ぇ!」


 先生が笑いながらそういう。


 だけど私は知っているのだ。


 神様は、少なくとも私が知っている神様は。


 頑張る者の、足掻く者の、未来に向かって進む者の!


「来て! こっちに!!」


 上空で筆の軌道が不自然に変わった。


 何かに当たったかのように動きを変えると、ディートフリート先生の元へ向かう軌道から私に向かってくる軌道へとその動きが変わる。


 中空に黒い直方体の影が見えた。

 ハコさんだ。彼女が筆に体を当ててこちらに落ちてくる軌道に変えたんだ。


 そう知っている。私は知っているのだ。


 神様は苦しみ、それでも前へと進む者のその味方だということを!

 

 私は知っているのだ!!


「馬鹿な……! 馬鹿なァアアアアア!」


 立ち上がった私は、上空から落ちてくるその筆を確かにつかみ取った。


 セイ君の力がこもった筆を握り締め、胸元でそれを抑え込む。


 決して離さないように、決して逃がしてしまわないように。大切に大切に握り締める。


 ハコさんが上空から私の側まで飛んでくると、私に向かって言ってきた。


「勘違いしないようにしてください。私が協力したのはセイ様のためであってあなたのためではありません。ですが、ひとこと言わせていただきます」


 鳥がそっぽを向くと、照れくさそうな声音で彼女は告げた。


「よくやりました。お見事です」


 ハコさんが珍しくも私の事を褒めてくれる。


 それが嬉しくて、体の痛みにも構わず、思わず笑みがこぼれた。


 だがすぐにそれを抑え込む。


 状況はまだ好転した訳ではない。

 すぐに手に持った灰色の筆を、今持っている『聖筆』と持ち替えジークフリート先生に向ける。


 先生がそれを見て狼狽したように後ずさると、声を張り上げて、周りの生徒達に命令した。


「な、なにをしている! 私を守れ! 壁だ! 奴隷共! 私の前に体を使って壁を作れ!」


 奴隷と化した人たちが先生の命令通りに動く。

 数十人の人間に囲まれて、先生の姿は完全に見えなくなった。


 その人の生垣の向こうから声が響く。


「ハハ、ハハアッハハ! どうだ! 筆を奪って私に勝ったつもりか! こっちには奴隷がまだまだいるんだぞ! さぁどうするこの愚図がぁ! ここにいる全員を朝のように消すか? そんな覚悟お前にあるか?! それとも私がやったように全員を奴隷にするか?! 出来ないねぇ! その前にお前は死ぬんだからなぁ! 奴隷共! 精霊魔法を使え!」


 先生に命令されて生徒達が一様に手を前に出して魔力を込め始めた。


 先生の前にいる生徒達だけではない。

 中庭のそこら中にいる生徒たちが全員、私を狙って、魔法を行使しようと力をため始めている。


「火を使うのが得意なものは火を放て! 水が得意な者はあいつをおぼれさせろ! 風が得意な者は奴を切り刻め! 土が得意な者はあの小娘を押しつぶしてしまえ!」


 命令の通りに、それぞれ詠唱を始める。


 そんな状態であったが、ハコさんは変わらない様子で私に話しかけてきた。


「大変な事態ですね。いかがいたしましょうか? あなたの腕前ではこの状況いかんともしがたいでしょう」


「大丈夫だよ。絶対大丈夫」


「ほほぉ。その心は?」


 ハコさんの問いに私は行動で示した。


 灰色に輝く、先ほど手にしたばかりの筆を振ると地面に魔法陣を記す。


 思った通りの、描こうと思った通りの紋様が、一振りしかしてないのに私の足先に出来上がった。


 セイ君の力の大部分が宿ったこの筆は、『聖筆』とよばれた彼の筆より、ずっと大きな力が宿っているようだ。

 思った通りの、そう書きたいと願った通りの魔法陣が、地面に出来上がる。


 あの地下室で、私がセイ君を召喚した時に使った物と同じ術式が、召喚術の魔法陣が地面に現れる。


 確信に似た閃きだ。


 この筆にはセイ君の力が閉じ込められている。

 その理由は何か。


 元々この筆は儀式で触媒として使われたものだ。


 それには召喚される対象の力を捉えておくような機能はない。触媒の効果は、あくまで召喚を円滑に行うための呼び水のようなものなのだから。


 私はそのことを教科書で何度も確認したから知っている。


 だから、この筆に、神遺物とはいえただの触媒に過ぎないこの筆に、神の力が宿ってしまっているのはおかしいことだ。


 理由なら分かる。

 儀式が失敗してしまったせいだ。召喚の流れに淀みが出来てしまったのだ。その淀みにセイ君の力が囚われている。


 だから、だからもう一度。もう一度。あの時は失敗してしまったけど、今度こそもう一度!


 私は体中の痛みにも構わず、魔力を全力で魔法陣に送り込むと、声を張り上げて詠唱を始めた!


「刻む時に、輝く精霊よ。我が名はリア・パンテン! 古より続く盟約の、召喚の門を今ここに! 我が魔力を糧に新たなる誓約を! 今より果ての命尽きるその時までの、魂の密約をここに記さん!」


 生徒達の手に私を攻撃するための力の奔流が宿る。


 それと同時に魔法陣も私の魔力を受けて藍色の光を灯し、雷光に似た火花を散らし始めた。


 繋がっている。確かに、あの時と同じように。


 知らない場所のどこかの誰かにではない。

 私が知っているあの優しくて温かい彼のもとに!


「精霊よ! 創世の神よ! 我らが契りはここに成る! 遥かなるかの地より! 呼びかけに答えよ! 魂のともがらよ!」


 生徒達の詠唱が終わる。


 いくつもの魔法が私に向かって放たれた。

 当たれば容赦なく私の命を刈り取るであろう死の疾走だ。


 でも大丈夫だ。


 どんな脅威がこの身に迫っていても、もう恐れることはない。

 なぜならば、私は一人ではないのだから。

 ここにいる私は今、一人などではないのだから。


「来て! セイ君!」


 叫ぶとともに陣の中に手に持った筆を放り入れ、自分の魔力を更に送り込んだ!


 魔法陣の光が一際強くなり、そこから黒い何かが生まれ出ようとし始める。


 それが完璧な実体を持つ前に、魔法の奔流が私を襲った。


 衝撃が体を襲う予感がする。

 私は目をつむり、腕を前に出して少しでもそれを防ごうとした。


 だけど、その衝撃は私が予想していたものよりもずっと小さく弱いものだった。


 確かに魔法がさく裂した音が聞こえたのに、私の体には何の痛みも襲ってはこなかった。


 恐る恐る目を開き前を見る。


「全く、出てきてそうそうこれって、神様相手にやることかい?」

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