第21話 折れない何かを この胸に


 夜の学校を私は走る。


 そのそばには宙に浮いたハコさんが飛んでいた。


 懲罰房の中で私たちは先生から今学校で何が起きているか、かいつまんで説明を受けていた。


 ディートフリート先生が暴走している。


 セイ君の筆の力を使って人の事を操っているらしい。


 ハコさんはそれを聞いて、唸るような声で『塗りつぶしの次は、洗脳ときましたか。人間の創意工夫には頭が下がります』と、そういった。


 人当たりのいい先生は、これまで築いてきたイメージを生かして多くの人間を騙し、既に大勢をその配下に従えたそうだ。


 そう言えば先生は私にもあの筆を使って何かをしようとしていた。結局何もできず失敗に終わってはいたが。


 ハコさんに聞いてみるとその疑問に彼女は答えてくれた。


「セイ様を召喚したあなたです。その加護が多少その体に宿っているのでしょう。それが『記述』の力を弾いたのかと……」


 ハコさんが言うには、先生が使っている力は私の時とくべれば微々たるものであるらしい。


 ディートフリート先生は、筆の力を最大限に使う事が出来ていないのだ。


 あの塗りつぶす黒の力は私がセイ君を召喚して、権能の持ち主である神と繋がっていたからこそ発現出来たものであったらしい。


 だが、厄介さはあまり変わっていない。


 シンシア先生が使い魔を通じて見た光景では、筆によって何かを書き込まれた人間は、その通りに動くようになってしまうらしかった。


 しかも、その身に結界魔法を張り巡らせることによって、心ある生徒や教師の抵抗を無力化させている。


 シンシア先生が苛立たし気に語った。


「過去の馬鹿な王族が行わせていた魔法の類です。数十人の魔法使いが互い違いに結界を維持し続け対象を守る。普通なら考えても出来やしません。余りに力を無駄に使い過ぎますから……。ですがそれが出来てしまっているのです。この魔法学校の人間を奴隷にすることで……」


 信じられないけど、信じられないような出来事は、ここ最近で自分の身に幾つも起こっている。


 シンシア先生は諸々の事情を話し終わると、私にここから出て、どこかへ隠れるようにと告げた。


 ハコさんの事も、私が何をしたのかも聞かずに、先生はそう言った。


 多分これも、私が見ようとしていなかった事なのだ。


 厳しく恐ろしい教師としか見ていなかったシンシア先生の事をよく見てみると、私の事を真剣に心配している気持ちがその瞳の奥に宿っているのが分かった。


 助けを呼んでくるから、その間何とか隠れて逃げのびろと、そう告げて先生は外へと出て行ってしまった。


 あんな事件を起こした私の事をまず一番に心配して、その私が無事だと分かると別の誰かを助けるためにすぐに行動しようとしているのだ。


 凄い人だとそう思う。私もそうなりたいとも。


 先生には隠れていろと言われていたが、それを聞きいれるわけにはいかなかった。


 セイ君を助けなければならない。

 私が起こしてしまった事件の始末は私自身がつけなければならない。


 どこかで魔法が爆裂する大きな音が響いた。それに続くようにして女性の声も。


 シンシア先生だ。きっとどこかで見つかって戦いになってしまったんだ。


「あの女、見つかったようですね……」


 ハコさんが私にそう告げてくる。


「そうみたいだね……」


 音が聞こえた方向に目を向ける。

 魔法が行使される音が、断続的に同じ方向から聞こえてきていた。


「初めに言っておきますが、私は役にたちませんよ? この身は戦闘用に作られていませんので」


「うん、分かってる……」


 ハコさんが戦うことが出来たら、先生に筆を取られてしまうようなことはなかっただろう。

 だけど、今はそんなこと言っている状況じゃない。


 彼の力を取り戻す。

 これは例えハコさんが戦えたとしても、戦えなかったとしても、決して変わらない目標なんだ。


 音が鳴った方向から、視線を戻すと前方から足を引きずりながら歩いてくる人影に私は気が付いた。

 思わず立ち止まり、その姿を確認してしまう。


「バング先生……」


 片手に汚い雑巾とバケツを持って、バング先生が私の横を通り過ぎていく。

 前に立った私の事など気にも留めず、虚ろな目で先生が廊下を進んでいく。


 すえた匂いが先生から漂っていた。

 既にディートフリート先生の手によって自意識を奪われているようだ。


「先生……」


 バング先生が教員棟で私に語ったことを思い出す。


『折れない何かを胸に持て』


 それが今、私の心の中で何度も響き渡る。


 歩き去ろうとする先生の後ろ姿を見た。


 あんなに怖くて、恐ろしくて、大きく見えていたはずのバング先生の体が、今あまりにも小さく見えた。


 心だ。

 人を、人たらしめているのは、きっと胸に宿った心なんだ。


 だから先生は私に、折れない何かを胸に持てと、そういったのだ。


 胸の中を自嘲じちょうするような気持ちが行き来する。

 私は何もできない能無しで、ただの劣等生で、力なんて何もないただの子供だ。

 でも。それでも。


 先生を追いかけ、追いつくと横を歩きながらそのローブを探る。


 あった。

 目当てのよく手入れされたナイフを私は見つけ出し、それを手に取る。


「ごめんなさい……。ちょっとだけお借りします……」


 バング先生は答えない。

 何も言わず、どこかへ向かって歩いていく。それを見送って私は先ほど魔法の爆発が聞こえた方向を見た。


「何も出来ないって分かってる……。私は弱くて、きっと何も出来ないって。でも……でも。戦うよ、私……。きっとこの願いが私の折れない何かだって信じたいから……」


 宵闇の中へと私は駆けだした。


――――――


「シンシア先生。いい加減諦められたらいかがですか?」


 学校の中庭の一画にて、ディートフリートが肩で息をつきながらひざまずくシンシアへと告げる。


「誰が……!」


 シンシアは結界魔法の教師だ。

 ディートフリートが纏う結界の、その弱点も良く分かっている。


 至近距離での魔法、結界を破れるほど強力な魔法、もしくは物理的な攻撃だ。


 だが、そのどれもをたった一手でディートフリートは防いでいた。


「素直ではありませんねぇ。さぁ奴隷共、シンシア先生がもう少し素直になるまでいたぶって差し上げなさい」


 魔法学校の生徒達がディートフリートの前に並び、シンシアへと弱い精霊魔法を放ってくる。


 この生徒達がシンシアの行動を制限していた。

 近づくにしても強力な魔法を使うにしても、この生徒達を傷つけずには、こなすことが出来ない命題だ。


 シンシアは何度も逃げようと足を動かしたが、既にこの学校のほとんどの生徒を、そして教師をこの男性教員は配下に加えてしまったらしい。


 どこに行っても誰かがいて、その誰かがシンシアを狙って攻撃をしてくる。


 シンシアがローブに仕込まれた魔法陣を行使すると、向かってくる魔法を防ぐ結界が現れた。


 攻撃を防ぐ女教師へ、ディートフリートが話しかける。


「シンシア先生。以前も言いましたね。あなたは美しい。貴方の事を私は奴隷になどしたくはありません。貴方さえよければ一人の伴侶として私の傍に立っていてほしいのですが……」


 魔法の攻撃を受け、傷つくシンシアがその声を笑い飛ばした。


「残念ですが、私、人の事を踏みにじる様な人間が嫌いなのです。特にあなたのように自己の利益にばかり目を向ける矮小わいしょうな男が……!」


 ディートフリートがため息をついてシンシアの事を見た。

 

「仕方ありませんねぇ。それではやはり、私専用の性奴隷として飼って差し上げましょう。奴隷共、もういいですよ」


 暗い笑みを浮かべて生徒達の魔法の行使を止めると、ディートフリートがシンシアへと近づく。

 シンシアの体が既に限界に近いことを見抜いての行動だ。


 防衛のために女教師は魔力を使い過ぎた。

 自身としても、力が欠乏して体の感覚が薄れている現状を自覚している。

 もはやほとんど力は残っていない。


 ディートフリートがシンシアの目の前に立つ。


 最後のチャンスだ。

 そう思い、女教師が最後の力を刹那の瞬間に込めた。


 ディートフリートが筆を自分に向けようとしたその瞬間!

 シンシアはローブの袖に隠していた羊皮紙を素早く取り出すと、男性教師の体へと押し付け呪文を唱えた!


「『ジエリアル・マロゥ・ヒィラ』! 火炎球よ敵を穿て!」


 バング直伝のルーン魔法の起動呪文を唱える。

 しかし、魔法の炎がディートフリートを穿つことはなかった!


「危ないですねぇ。この距離で炎の魔法とはお互い無事ではすみませんよ? まぁ無駄ですけどね。授業で習いませんでしたか? ルーン魔法を使う時に何を注意すべきか」


 ディートフリートが右手に持った筆を左右に揺らす。

 シンシアが唖然として、自分が手にもつ羊皮紙を裏返して見てみると、その描かれたルーンには大きく真っ黒な線でバツ印が描かれていた。


 目を見開くシンシアの顔を拳を固めたディートフリートが殴りつけた。

 その衝撃に女教師は耐えることが出来なかった。

 勢いよく横に倒れこみ、ついにシンシアも力尽きる。


 その倒れ伏した女体へ、ディートフリートがゆっくりと近づく。

 体に自身の奴隷とするための文言を刻み付けるために、ゆっくりと舌なめずりをしながらにじり寄っていく。


「さぁ、先生。痛くはありませんよ。私と一緒に新しい世界を見ようではありませんか。私が神として世界を支配する世界を……。グフ、フハハハハハハア!」


 笑いながら歩く教師は、ふと背後から何かが近づく小さな物音に気がついた。

 笑った表情のままその音の元へと振り返る。


 小さな少女が自分に向かって歩いてくるのが見えた。袖に手を隠して少女がゆっくりと近づいてくる。


 ディートフリートは笑みを浮かべたまま疑問に思った。


 誰だ。

 自分が奴隷にした生徒のうちの一人だろうか。


 いや、近づいてくるように命令などしていない。

 それにあの藍色の髪には、あの小さな体には、どこか見覚えが――


 そこまで考えて、少女の正体に、ディートフリートは気が付いた。


「お前……お前は!」


 男性教師がそう声を上げると同時に、少女は一気に教師へ向かって飛びつき、その左手に持ったナイフを男性教師に向かって振り下ろした!


「…………ッ!」


 ディートフリートが間一髪のところでそれをかわす。

 しかし、その体勢が整う前に少女は次の攻撃へと移っていた!


 右手に持った漆黒の筆が煌めく。

 筆が中空に文字を刻み込むと、ディートフリートの脇腹の辺りにルーン文字が浮かび上がった!


 風のルーンが、吹き荒ぶ疾風のルーンが、男性教員を覆う結界の、その内部に浮かび上がる!


 少女が、リア・パンテンが、目を見開き、ルーンのその起動用の呪文を叫んだ!


「『ラ・ヴィエナ・フゥ』! 風よ吹き荒れよ!」


 教師の腹部で風が吹き荒れる!


 強い衝撃波を受けて、ディートフリートの体が吹き飛んだ!

 転がり倒れ伏した教師は苦し気に呻きながらも、すぐさま立ち上がると、自身に魔法をぶち当てた少女を見た。


 リアが体を震わせながら、それでもまっすぐに彼の事を見ていた。

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