第20話 リアの決意
「絶望でございましょう」
中空に浮かぶハコさんが、誰に告げるわけでもなくそう口にする。
見てみれば、彼女の表面に描かれた月には雲がかかり、鳥もどこか力なく肩を落としていた。
ゴン、と固い物が何かに勢いよくぶつかる音が響く。
絶望。
ハコさんが口にした言葉を心の中で繰り返す。確かにそうだとしか言えない。
筆は奪われた。
セイ君の力が閉じ込められた筆は、ディートフリート先生によって奪われてしまった。
先生に連れられて、私たちは学校にある懲罰房に連れてこられ、その中に閉じ込められてしまったのだ。
独房の中からは外の様子は分からない。
でも明り取りの小さな窓から判断するに、もう夜が来ているらしい。
何とか抜け出そうと頑張っていたが、その行動も全て無意味に終わった。
時間が、セイ君が消えるまでの時間が、刻一刻と近づいてきている。
ハコさんがまた言葉をつむぐ。
「命運尽きましたか。やはり人間などを頼ったのが間違いでございました」
ハコさんの言う通りだと思う。
元々、彼と私なんかじゃつり合いが取れていなかったのだ。
セイ君は言っていた、自分は神様だって。それに比べれば、私はただの小娘で、本当に何の力もない人間だ。
もう一度、何かが勢いよくぶつかる音が響く。
「なんの取柄もない人間風情を信じて、それを救うために力を全て使い切ってしまうなど、我が主ながら信じがたい愚行です」
その通りだ。
この言葉には頷くほかない。
私が、私が間違っていた。
その私の間違いを正すために彼は今、消えかけているのだ。
もう一度、ぶつかり合う音が響く。
「あなたも、その無意味な行為をいい加減におやめなさい」
手が滑り、独房にあった石が地面に落ちる。
石は赤く汚れていた。手を見てみる。
血だ。真っ赤な紅が手の平一杯に広がっていた。
もう何回この石を独房の扉に打ち付けたか分からない。
何かのタイミングで切ってしまったらしい。
痛みが確かにする。
ズキズキという痛みが、突き刺さるように体に鳴り響く。
「ハコさん……痛いよ……」
そういう私の声にハコさんがため息をつくと答えた。
「それはそうでしょう。あなた達人間はもろく、脆弱な生き物です。ちょっとした傷でさえ命の危険に発展するほどなのですから、大人しくしていなさい」
「違うの……痛いのは手じゃないの……」
「はぁ? ならあの男に殴られた頬ですか? セイ様にも同じところをぶたれていましたね。もしくは倒れた時にどこかすりむきましたか?」
「違う、違うの……痛いのは……」
血で汚れた手で、胸の辺りを強く握りしめる。
体が痛いんじゃない。肉体の痛みなんて、もう感じられない。
胸の奥の奥、体とは関係ない心の奥底が、悲鳴を上げるような痛みを訴えかけてきていた。
手の痛みとも、頬の痛みとも、比べ物にならないほどの痛みが溢れかえって、苦しくて辛くてたまらない。
息をするのも苦しい。体が震えて、涙がひとりでにあふれ出てくる。
「ハコさん……。私のせいだよね……こんな事になったのって」
そう彼女に聞いてみる。
ハコさんはセイ君があの時、言葉にしなかったことをあっさりと言いのけた。
「はい。貴方のせいです。貴方が暴走しなければ、セイ様は消えかけずにすみました。もっと言うならば、貴方が私達を召喚しなければ、このような問題自体、起きはしませんでした」
「そうだよね……ほんとに、そうだと思う」
地面に落ちた石を拾い上げるともう一度、入り口のドアに向かって振り下ろす。
ゴン、とまた音が鳴り響いた。
でも無駄だ。傷一つそこにはつかない。
分かっていても私はその無意味とも思える行動を続けようと腕を振り上げた。
「おやめなさいと言ったのが分からなかったのですか?」
ハコさんが私に近づいてきてそう言う。
でも手を止める事は出来なかった。今何もせずにいたら、それこそ気が狂ってしまいそうだったから。
もう一度石を振り下ろそうとする。
「貴方がたはワタシの言葉を聞かないことを、生きがいか何かにしているのでしょうか?」
ハコさんが、私の顔の目の前にやってきて無理やりそれを止めた。
「でも……でも……」
「そのようなことしても、どうしようもないでしょう。馬鹿なのですか、貴方は?」
ハコさんの厳しい言葉に、私の胸に溢れかえっていた思いが、意図せずに飛び出した。
「なら……なら教えてよ! 私はどうすればいいの! 私はどうすればセイ君を助けることが出来るの! どうすればいいの?! 教えてよ! 教えてってば!」
ヒステリックな声を上げてそう叫んでしまう。
ハコさんに描かれた鳥が驚いたように羽ばたくと、再度枝にとまりなおした。
それにも構わず私は声を張り上げる。
「教えてよ! 私はただの人間で! セイ君みたいな神様じゃない! 魔法もちょっと使えるだけで、ここにいる生徒達の中で一番出来が悪くて! 何もできないのと一緒で! 皆に馬鹿にされてて! 私! 私……! 私……。何もできなくて……。どうすれば……どうすればいいの……教えてよ……誰か……」
力尽きるようにその場に座り込む。
涙が、瞳からあふれ出てくる。
力のない自分への情けなさから、熱い涙があふれ出て止まらない。
その涙と一緒に、あの時彼の胸の中で言うことが出来なかった言葉が、口から転がり出た。
「強くなりたいよ……。強く、強く……。セイ君を助けることが出来るぐらい。大切な物を守ることが出来るくらい。強く……強くなりたい……そしたら、そうしたら……」
でも無理だ。
ディートフリート先生はあの筆を奪って今何をしているだろうか。
私から筆を奪った時に見せた暗い喜びに満ちた顔を思い出す限りでは、碌な使い方をしていないだろうと思う。ほんの数時間前の私と同じように。
それが分かっていても、今の私では何をすることも出来ない。
ハコさんがそんな私を見て、ため息をつきながらくちばしを開いた。
「高々人間が贅沢な望みを口にするものです」
「…………!」
私はハコさんの事を見上げた。
「強くなりたいなどふざけたことを。ご自身の事を
「分かってる……。分かってるよ、そんなこと!」
それでも、思わず言葉が転がりだした。弱い自分を自覚しながらも、口からそれがこぼれ出た。
出来ることなら、彼の事を今すぐにでも助けてあげたい。
孤独な私の心を彼が優しく照らしてくれたように、私自身も彼の事を救ってあげたい。
でもそんなこと出来ようはずもないのだ。
弱い私では、こんな暗い独房に閉じ込められている私では、なんの力も持たない子供の私では、誰かのことを助けるなど出来ようはずがないのだ。
でも、それでも、それでも――――
もう一度石を握りなおす。
立ち上がり振り上げたそれを、鉄製の頑丈な扉へもう一度振り下ろそうとする。
ハコさんがまた私の前に立ちふさがった。
「馬鹿な真似はやめろと言ったのが聞こえなかったのですか……!」
「分かってるよ……。でも、でも――」
一歩でも前に、少しでも前に。
「やらなきゃ……。こんな私でも、何か出来ることがあるなら、少しでもそれをしないと!」
でなければ信じてくれた彼に顔向けできない。
私はハコさんを押しのけると、振り上げた石を扉へともう一度振り下ろした。
それを見て、ハコさんが少し呆然としながら、口を開く。
「愚かな……。なんと愚かな……。あら……?」
ハコさんに描かれた鳥が小首を傾げると同時に、体を揺らしだす。
突然の事に驚き石を振り上げた態勢のまま、彼女の事を私は見た。
いや違う、描かれた鳥が揺れているわけじゃない。ハコさん自体が、彼女の体自体が揺れているんだ。
「これはまた……なんと……?」
驚いたような声を上げた後、ハコさんの体の、絵が描かれた上面が左右に別れ開いていく。
彼女の体の後ろ側から後光のように見える光が輝いた。
その箱の中に黒く輝く細長い何かが見えた。
筆だ。夜空に白い星が瞬いているかのような、そういった装飾の入った美しく黒い筆が、ハコさんの体の中に納まっていた。
「『
真っ二つに割れたハコさんが、独り言を呟くようにそう言う。その後私に向かって言葉を放ってきた。
「……セイ様からの伝言でございます。これを受け取れ、と」
「セイ君が?!」
「はい」
「あの、これは……?」
「『
「それを……何で……?」
「さぁ? あの方のお考えは、私でも測りかねることばかりでございますから。ただ――」
ハコさんが何か考えるように一呼吸置いた後、言葉を続けた。
「あの方は貴方の事、嫌いじゃなかったみたいでしたから。貴方の不器用な頑張りや、無意味にも見える努力が、嫌いではなかったようですから。ですから、これはきっとそういうことです」
二つに分かれた鳥が私の事を見た。
「貴方の事を信じている。そういう事でしょう」
「……セイ君」
私は手を伸ばす。
ハコさんの中にあるそれを手に取る。滑らかな手触りのそれは見た目よりずっと軽くて、まるで雲を加工して作ったような感触さえした。
手に持ってしっかりと握る。不思議とそれは長く使った愛用品のように手になじんだ。
「……まだやれるよ、私。まだ……まだ……!」
そう自分に言い聞かせるように言う私に、体を元に戻しながらハコさんが告げた。
「左様ですか。まぁここから外に出れない事には何も始まりませんが」
確かにその通りだ。
そう思い固い懲罰房の扉を見たら、そこから何か音が聞こえてきた。
誰かの声と扉を弄る小さな物音が聞こえてくる。
「確かに……この房から音が……。ええい……」
女性の声だ。
どこかで聞いたことがある女の人の声が聞こえて、その後扉がゆっくりと開き始めた。
「リア・パンテン……! ようやく見つけましたよ!」
扉の向こう側から汗を額に浮かべたローブ姿の女性が現れる。
シンシア先生だ。それを見て、ハコさんが私に声をかけてくる。
「どうやら、運の神には見放されていなかったようですね」
私はその言葉に頷いて、先生の事を見た。
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