第16話 終わる日常②


 その時、セイは突然の出来事に戸惑いながらも、ギリアムに向かって一歩踏み出そうとしているところであった。


「リアちゃん!」


 急いで顕現して少女を助けようとするセイをハコが止めた。


「お待ちくださいセイ様。何度もいいますが、姿をさらすのは避けるべきです」


「馬鹿言わないでよ! そんなこと言ってる場合じゃないことぐらい見ればわかるでしょ!」


「セイ様こそ少しは考えてください! 顕現した所でどうやって助けるつもりなのです! 貴方のその小さな体で、この野蛮な猿共全員をどうやって打ち倒すおつもりですか?! 別段あなた本人の身体能力が高いわけではないでしょう! 失っている御力があれば話は別ですが、今のその体ではこの子供たちにさえ勝てませんよ!」


「でも黙ってみているわけにはいかないよ!」


「黙ってみていればいいのです! どうせ殺す気なんぞあるわけないのですから、放っておきなさい!」


 言い募るハコを手で脇にどけるとセイは一歩前に進んだ。


「放っておけるもんか! 放っておける訳ないじゃん! 大切な友達を見捨てるなんて、そんなの二度も出来るわけないよ!」


 さらに力強く一歩前に進むと、そのままの勢いで顕現し、セイはギリアムに向かって飛びかかった。


「この!」


 声を上げながらギリアムにぶつかっていったが、少年の体は小さく揺れる程度で別段何か効果があったようにも見えない。

 年の割に成長の早いギリアムの体は大きく、セイよりも頭二つ分は優に身長が高かった。

 体格の差からか有効打を与えることは出来なかったようだ。


「なんだお前……。おい!」


 取り巻き達がギリアムの声を聞きセイの体を引きはがすと、少年のうちの一人がその体に膝を打ち込んだ。

 セイの体がくの字に曲がり、地面に倒れる。リアがそれを見て悲鳴に似た声を上げた。


「セイ君! いやぁあ!」


 その様子を見てギリアムが笑いながら、水球を少女へと近づけていく。


「人の心配してる場合か? さぁ始めるぞ……」


 ゆっくりと近づけられた水球がリアの顔を覆い、息が出来なくなる。


 水の中目を開くと、蠢く水の向こう側で、少年たちにいたぶられるセイの姿が見えた。倒れ伏したセイに対して何度も足を叩きつけている。

 日頃ギリアムに顎で使われている鬱憤を晴らすかのように、取り巻きたちはセイをなぶりものにしていた。


 絶望が少女の胸を支配する。

 ほんの数日前までは、全て、全てが上手く行っていると、そう思えていた。だというのに気が付けば、見慣れた深い絶望が目の前に横たわっている。


 息以上に心が苦しい。

 自分の事を助けようとしてくれたセイが地面に倒れ伏しているのが見える。

 締め付けられるような痛みが胸を引き裂こうとしている。

 自分のせいで大切な誰かまでいたぶられている。

 その現実がリアの小さな胸を締めあげた。


 少女の心に暗い憎悪が顔をのぞかせる。


 自分が何をしたというのだ。

 何もしていないではないか。だというのに何故こんな理不尽な責め苦を味わなければならないのか。涙が流れそうなほどの悔しさが、絶望が胸に膨れ上がる。


 ギリアムはその様子を笑いながら見ていた。数はまだ数え始めていない。初めから数える気などないのだ。


 その陰惨いんさんな状況に別の声が聞こえた。


「何をしているのですか?」


 その場にいる全員がその声の主を見た。

 金髪の白い装束に身を包んだ優男風の男性がそこに立っている。

 魔法学校の教師であるディートフリート・エーデルクロスだ。


 声を聞き、一瞬ギリアムの顔が青く染まったが、ディートフリートの顔を見て安堵のそれに変わった。


「ちょっとしたゲームですよ、先生」


 ギリアムがそう答える。

 ディートフリートはその言葉に答えず、少年の使い魔が口にくわえた灰色の棒を見た。


「それは……」


「あぁ、先生。言ったでしょ? 僕の使い魔は鼻が利くって。あの生意気な女教師の持ち物。お探しだったのはこれなんじゃ?」


「そう、見えますが……」


 ディートフリートは内心で驚いていた。

 女教師シンシアを貶≪おとし≫める材料として、彼女がこの少女をえこひいきした証拠をつかもうと、様々な網を張っていたが、それを見つけ出すのがギリアムだとは思ってもいなかったのだ。


 ディートフリートはそんな心情をお首にもださず、少年を賞賛した。


「なるほど。さすがはギリアム君ですね。まさか、こんな容易く見つけ出してしまうとは、驚いてしまいましたよ」


「当然ですよ。僕は優秀ですから!」


「そうですね……。さぁそれを渡してください」


「待ってください。今、丁度面白い所なんです……」


 そう言い、ギリアムの視線がリアへと戻る。

 水球の中で息苦しそうに見悶える少女の姿を、愉悦に眩んだ目で、彼は見た。


 ディートフリートもまた内心でほくそ笑みながら苦しがる少女を見た。

 彼にしてみれば、自分の出世になんら寄与しない農民出身の子供など視界に入れる価値もない存在だ。


 だが、苦しんでもがく姿を見るのに嗜虐的な楽しみがないと言えばうそになる。

 また、こういった魔法を使って他者を害するという、魔法学校で禁止されている行為を見て、それでギリアムを、引いては彼の実家である国内有数の貴族を強請≪ゆす≫ることが出来るとくれば、楽しくないわけがない。


 また出世への道が一歩開く。


 ディートフリートは暗い笑みを浮かべると、面白そうにリアの顔を見た。


 リアの息が切れ、口から漏れた空気が浮かぶ。


 少女の脳裏に言葉に出来ない思いが幾つも浮かんでは消えていった。


 もう嫌だ。全てが、全てが嫌だ。

 苦しい。何故誰も助けてくれないのだ。

 自分はこんなに苦しんでいるのに。何故。

 痛みが走る。今まで受けた虐めを思い出して、体に痛みが。セイが蹴られて心に痛みが。

 胸の空気が重くなり、意図せず体が脈動する。


 限界が近くなって、口から大量の空気が漏れた。

 一瞬だけ胸が楽になって、その後一気に苦しくなる。


 水を大量に飲む。手先の感覚が消えていく。

 息が詰まり意識が朦朧とする。視界がぼやける。


 もう嫌だ。全てが嫌だ。苦しい。何故。やめて。死なせて。こんな、こんな。やめて。嫌。

 こんなことが続くなら。こんな苦しみがこの先ずっと続くなら。

 もう何もかも、全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て全て――




 消えてしまえばいいのに。





 突如、少女の側の空間から黒い波動が弾けた!

 その力の爆発がリアを捕まえていたギリアムを、またセイをいたぶっていた取り巻き達を全員まとめて吹き飛ばす!


「うわっ! 何! 何が起こったの?!」


 突然の力の暴風を受けて、慌ててセイは倒れていた体を起こすとその力の元を見た。

 元々セイに実体はない。散々いたぶられていたように見えたが、特に痛みなどは感じていないようであった。


 一柱の神が目を見開いてそれを見る。


 リアが宙に浮かんでいた。その胸の前に灰色の棒が同様に浮いている。


 いや、もはやただの棒ではない。徐々にその形が変わっていっていた。

 棒の先に黒い毛が生え揃い、大きさもどんどんと大きくなっていく。

 リアの体と同じほどの長さまで巨大化すると、筆と化した遺物を少女は握った。


 それを無造作に横に振る。

 筆先から漆黒の墨のようなものが飛び出し、立ち上がろうとするギリアムの元へと向かった。


「まっず!」


 セイはリアのその動きを見た瞬間に動いていた。

 急いでギリアムに飛びかかると、その体をもう一度地面に押し付ける。

 力の爆発に朦朧としていた少年の体は今度こそ、セイの狙い通りに地面に倒れこんだ。

 彼らの体のほんの少し横を漆黒の何かが飛んで行く。


 黒いそれはセイ達に当たることなく、背後の木に当たった。


「今のは……!」


 セイが慌てて、飛んで行った先見る。


 木にぽっかりと伽藍洞な空間が出来上がっているのが見えた。


 切り取ったような人為的な跡はない。まるで元からそこに何もなかったかのように木の一部が消えてしまっていた。


「なに……これ……」


 ハコが姿を現すとセイの言葉に答えた。


「セイ様の御力の、その発露でございましょうか……」


「あの筆が? でもボクこんな権能持ってないよ! それに何でリアちゃんがボクの力を?!」


「分かりません。ですが、現状を考えるに、それしかないのではないですか?」


「でも、だって……!」


 そこまで言い争って、主従二人の目が、リアがもう一度手に持った巨大な筆を横に振ろうとしているのを捉えた。


「ッ!!」


 慌てて体を地面に押し付け、その漆黒の暴威をかろうじて避ける。

 

 ドロリとねばつく余韻を残して、黒い力が、彼らの上を通って行った。


 セイがその力の行く先を見る。


 木が、林が、その姿をまるっきり変えてしまっていた。

 中庭に確かに存在していた木々が、まるで虫に食われてしまったかのように、穴だらけの姿になっている。


 まるでそこにあったという歴史が消えてしまったかのように、違和感なく、元からそうであったかのように姿を変えてしまっていた。


「歴史が……消えてる……」


 セイが目を見開いて呆然としながらそうこぼす。

 そして、二度の力の放出により、一柱の神はこの力が何によるものなのか感じ取っていた。


「『刻み込む暦』の権能……! そんな、嘘でしょ……!」


 セイに唯一残った神の力である『想起する歴史』の権能、この権能と対になる力だ。

 セイは『記述』の神として、職務である『神々の歴史書』を書くために使っていた力と、同じ波動をリアが振るう黒い筆から感じ取っていた。


「でも、こんなこと出来ないはずなのに……」


 元々は文字を書く程度にしか使えない力のはずだ。

 それがまさか物の歴史を塗りつぶすように使われるとは、セイ自身としてもにわかには信じられなかった。


 驚き、動きを止めた一柱の神をよそに、リアが空に浮かびあがり始めた。


 漆黒の力が少女の体を遥か空の彼方へと持ち上げ、どこかへと運んでいく。

 渡り廊下を超えてその先へ、邪魔になる壁や屋根を塗りつぶしの力で消しながら、リアが飛んでいく。


 その目の焦点が合っていない。夢うつつのように何かを呟きながら、天空へ向かって浮き上がり、飛んで行ってしまう。


「消えちゃえ。もう知らないこんな世界……。こんなに苦しいなら、もう、もう……」


 セイがそれを目で追う。

 吹き飛ばされていたディートフリートが立ち上がると、セイに向かって声をかけてきた。


「君! あれは何だ?! あの力が何か君は知っているのか!」


 その声に答えもせず、セイがリアを追って走り出そうとした。

 ディートフリートが近寄ると、セイの肩を掴み自身の方を向きなおさせる。


「答えたまえ! あの力は一体何なんだ!」


 苛立たし気にセイは答えた。


「うるっさいよ! 神の力の一部さ! 何かを記述する力を全てを塗りつぶす力として使っちゃってんの! 分かった?! 邪魔しないで!」


 一柱の神が腕を振り払うと、リアを追って走り始める。

 その場にただの人間たちだけが残された。倒れ伏し痛みに呻く人間と、暗い笑みを浮かべる人間だけが。

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