第6話 神の個人授業
召喚の儀式が失敗に終わってから一夜が明け、太陽が過ぎ去り、また夜が来た。
魔法学校の学生寮の小部屋に光が差し込む。
ドアが開かれ、そこから漏れこんだ廊下の燭台の灯りが、部屋の中を薄く照らし出した。
女学生のリアが自室の中へと足早に踏み入れると、外からの灯りを頼りに机の上のランタンを操作して火をつける。
部屋の中に光が灯った。
少女はそうした後に、扉まで戻ってそれを音をたてないようにゆっくりと閉じた。
ほっと息を少女が吐く。
リアは一人になれる場所にようやくたどり着き、そっと胸を撫でおろした。
ため息を吐き、狭い部屋を歩くと、肩にかけていた荷物を机の上に降す。
そうした後に着ていたローブを脱ぎ、備え付けの外套かけにかけた。
学生のために用意された寮の小部屋は一人部屋であった。
これは虐めを受けている少女にとっては幸運なことだったろう。
少なくとも夜だけは誰にも害されることがないのだから。
部屋の中を歩く少女は白いドレスシャツと膝越える程の長さの紺色のスカートを着ている。
学校の制服だ。
そのシャツのボタンを一つ開け、肌着を引っ張って一息つく。
その後、机の前の椅子に座るとカバンから教科書とノートを取り出しそれを開いた。
パラパラと教科書をめくり目的のページを見つけると、かじりつくようにしてその教材をじっと見つめ始めた。
その様子を後ろから半透明な神、アメノセイが覗き込む。
何とはなしにそれを見ながら、セイは自身の背後に浮かぶハコへ話しかけた。
「この子ってば結構苦労してるみたいだねぇ」
「その様ですね。しかもその大半の理由はこの子にないように見受けられます」
「そだねぇ……」
リアが開いたノートにペンを走らせ何かを書き込む。
教科書に書かれた一文字の字を真似て書いているようだ。
それを何度も何度も練習するように書き記す。
ノートの上を歪み狂った、地を這う死人のような文字が描かれ始めた。
それを見ながら、セイ達は思わず声を漏らす。
「うわぁ……酷いよ。字が可哀そう……」
「前代未聞な悪筆でございましょう……。セイ様、なんと書いてあるか読めますか?」
「『風が世界に語りかけ吹き荒ぶ嵐の力を開放する』……。今写してる教科書にはそう書いてあるね。多分、呪法か方術か何かを、一文字に短縮させてるんだと思う。文字魔法ってとこかな? でもこの子の字の方はちょっと……見てられないよ」
セイはその力の大部分を失ってしまっていたが、記述の神としての力はほんの少しだけ残っていた。
そのためセイがいた世界と、この世界の文字は全く違ったものであったが何の問題もなく読むことが出来た。
だが、少女の書く文字の方はあまりに汚く読むこと自体が難しい。
ノートの上を這いまわる文字を目で追いながら、今日一日少女の後ろをついて回って、起こった出来事をセイは思い浮かべた
同級生にもひいては教師からも無視されているような節があった。
それだけではない。少女を見てあざけ笑うような様子や、紙のゴミを投げつける様な小さな嫌がらせ、わざと足をかけるなどの悪戯。
そういった虐めがただの一日で何度も何度も目に付いた。
「酷いよねぇ……。結構頑張ってるとおもうんだけど……」
リア自身は何もしていない。
むしろ勉強についていくために人一倍の努力をしているはずだ。
すくなくとも、今の様子を見る限りではそのはずである。
だが、授業で問いに答えるように言われると口を開こうとして、言葉を紡げず、分からないと答えていた。
恐らく分かっているだろう問題についてもそのような調子であった。
極度の緊張しいなのか。
もしくは答えることによる別の悪影響を気にしているのか。
何にせよそれが少女にとって良くない現状による物からなのは間違いなかった。
今日だけではなく今までも、おそらくはセイ達が目にした出来事より酷いことを少女は体験したに違いない。
「こういうのって、あんまりよくないと思うけどなぁ……」
顔をしかめてそういう主へ、ハコは言い返した。
「前にも言いましたが、それが人間というものでございます。自身のコミュニティにとっての敵を仕立て上げ、それを攻撃することで一体感を得るなどは、人間と言う生き物が最も得意とする策略でございましょう」
「それは……否定できないところだけど……」
セイが頭をかきながら、ハコの言葉を渋々と言った様子で認める。
こういったことはセイの元居た世界の人間界でも、よく起こっていたことだったからだ。
難し気な表情をしながら、一柱の神が体を傾けて、リアの横顔を見る。
顔立ちはそこまで悪いとは思わない。
だが、彼女が纏う空気はあまりにも悪すぎた。
リアの行動は常に、周りの行動に対して背中を丸め、見るだけで何かに恐れを抱いているのが丸わかりな様子なのだ。
少女を虐める人間にしても、反撃しない砂袋を殴るのに躊躇するような優しい人間はいないらしい。
「セイ様いかがいたしましょうか?」
「いかがいたしましょうかって?」
ハコの問いかけに姿勢を戻すと、セイがそのまま聞き返す。
「この調子では権能探しの手伝いなど、させられようはずもございません。この小娘、今は自分の事で手一杯と言った様子。手を打つなら早い方がよろしいかと思われますが」
「確かにねぇ。この子から離れられない以上、手伝ってもらわないといけないのは間違いないし。ハコさんは、具体的にどうすればいいと思う?」
「そうですね。セイ様に残った唯一の御力、『想起する歴史』の権能を使い、この娘に学問の神の知啓を想起させるのはいかがでしょうか? 自分を虐める凡愚共より頭脳明晰となれば、この陰気な性格も多少マシになるかと思われますが」
「う~ん……」
「もしくは百戦練磨の戦神の記憶と経験を想起させるのは? こう言う話もございます。『生意気な奴が百人いても俺は気にしない。なぜなら百回殴れば全員に言うことを聞かせられるからだ』と。力は自信になり、自信は行動力になります」
「なるほどねぇ……」
煮え切らないことを言うセイにハコが噛みつく。
描かれた鳥が嘴を尖らせると、羽を広げて威嚇しながら主に向かって叱責するように食いかかった。
「セイ様、しっかりしてください! 座して待っていれば確実な死が来るのは明白です。忘れられた訳ではないのでしょう? あなたの肩には我々の世界の存亡がかかっているのですよ?」
「分かってるよ、それぐらいさぁ……」
ハコの言うことは真実だ。
セイの元いた世界は今、管理者が全くいない状態になってしまっている。
世界の管理の、そのほとんど部分は残してきた式神たちがこなしてくれているはずだが、『死者の国』の管理については話が別だ。
セイの持つ権能の力がなければ、管理が行き届かない部分が多い。
そのせいで他の神が眠りについても、セイは眠りにつくことが出来ずにいた。
死者の国の管理が行き届かない状態になれば、人間界に死者の魂があふれ出し、悪影響を及ぼすのは間違いないだろう。
もしくは悪影響を及ばさずとも、人の転生に問題が生じてその体が化け物に変じてしまう可能性もある。
そういった現実的な問題がある以上、ハコの言うように行動を起こすなら早い方がいいというのは間違いない。
だが、どうもセイの様子がおかしかった。
一柱の神は少女が文字を書き写すのを眉間にシワを寄せながら見続けている。
自分で聞いておきながら、ハコの言葉を上の空で聞いていたようだ。
「セイ様……?」
主の様子がおかしいことにようやくハコは気が付いて、主に問いかけた。
その声さえセイは無視すると、頭を掻きむしりながら苛立ちに尖った声を上げた。
「あぁ! もう我慢できない! この子、字汚すぎぃ! 何さこの虫が這いずり回ってるような字はぁ! このボクを前にしてこんな……こんな字……! 許せないよ! 馬鹿にしてぇ! 顕現!」
突然、セイが両手を勢いよく打ち合わせると神の力を励起させ、現実世界に対して干渉を始めた。
一柱の神の体が、実体を持ってその場に姿を現し始める。
元々、神は物質としての体を持たない。
セイが言う顕現とは、神の力を用いて世界に干渉し、無理やり自分がその場に体を持っていると、存在する世界に勘違いさせることだ。
うすぼんやりとした姿から変わって、実体を持った神が椅子に座る少女の背後に現れる。
リアは集中しているらしく、背後にセイが体を持って立っても、変わらずノートに文字を書き続けていた。
その背後に近寄ると、一柱の神は少女の体に覆いかぶさるようにしてノートを覗き込み、リアの持つペンのその上側を握った。
「きゃっ……!」
突然自分の持つペンを握られたリアが小さな悲鳴を上げる。
セイはそれに意を介さず、逆に少女に注意の声を飛ばした。
「静かに! 集中して!」
「え、え……何……誰……⁉」
「いいから! ほら! 今から君が書いてた文字を一緒に書いてあげるからよく見て!」
「え……えぇっ?!」
セイの勢いに押されるようにして、少女がノートへと視線を戻す。
リアが今開いていたのはルーン魔法の教科書だ。
長く複雑な魔法術式を簡単な文字へと短縮させる魔法であった。
少女は担当教員から簡単なルーンを書いてくる課題を出されていて、それを行っている所であったのだ。
ペンを持ったセイの手が動く。
その動きに釣られるようにして少女の手も動く。
「えっ……あ……」
少女が言葉を漏らす。
これまでノートに書かれていた汚い字とは、まるで質が違う字がノートに記されていく。
緊張で力のこもったガタガタな文字ではない。
まるで教科書をそのまま映したかのような、いやそれ以上に流麗で美しい文字がそこに浮かび上がる。
一文字、書き終わった。
ノートの中で異彩を放つほどに美しい文字がそこに記されている。
まるで文字自体が生きているような、それほど強い印象を受けるほど美麗なルーン文字がそこに生まれていた。
「うん……この字はこうじゃなきゃね」
セイが満足したように頷きながらそう言う。その顎の下で、リアが困ったように声を漏らした。
「あの……その……」
「あっ…………」
「考えなしもここに極まれりといったところでございましょうか」
半透明なままのハコが主にそう告げる。
リアは体をねじって、自分に覆いかぶさるセイの事を困惑したような顔で見上げている。
「誰……ですか?」
困りながらもリアがそう聞いてくる。
セイの中性的な幼い見た目が功を奏した。
これがもし五十代のおじさんの顔で、低く濁った声をセイがしていたのであれば、大人しい性格のリアであってもすぐさま叫び声をあげて逃げていたであろう。
しかし、少女は同い年くらいの少年に見えるセイの姿を見て、恐怖よりも先に驚きや困惑の方が出たらしかった。
逃げるでも叫ぶわけでもなく、不思議そうな顔でセイの事を見ている。
逆に困ったのはセイのほうだ。
その顔には何も考えずに、向こう見ずな行動を取ってしまったことへの反省の色が見えた。
そのセイが返答に窮≪きゅう≫して、小声で隣に浮かぶハコに問いかけた。
「ハコさん、どうしよう……!」
「はぁ……。どうしようも何もこうなった以上、あとは野となれ山となれでございましょう。適当に話を合わせればいいかと」
「その適当が分からないの! 助けてよ!」
「あの……」
リアが虚空に向かって話し続けるセイの事を見る。
前髪で隠れた深緑色の瞳が見え隠れして、セイの事をじぃっと見ていた。
その視線を受けて、セイが意識を少女へと向ける。
何はともあれこのまま無視し続けるわけにもいかない。
そう意を決すると、一柱の神は少女の問いに答えた。
「え~と、どうも! ボクはアメノセイ! 神様です!」
「アメノセイ……。神様……? 神様……。あぁ、そっか……」
セイの言った言葉を口の中で転がした後、少女が失望したかのように、ため息をつくとうつむいてしまった。
「え~と……」
「この娘、セイ様の言った事信じていませんね、まぁ当然と言えば当然ですが」
リアからしてみれば、突然どこからともなく見たこともない少年が現れて自分は神様です、と言いだしたのだ。
現実的な状況ではない。
少女は、自分は気づかないうちに眠ってしまって今見ているのは夢に違いないと、そう決めつけていた。
「う~ん。どうしよう……。まいっか」
少しどうするか考え込んだ後、セイは持ち前の適当さで、そう考え直し少女が握っているペンを再度動かした。
それについていきながら、少女が戸惑ったように声を出す。
「あの……。何を……」
「何って、字を書く練習の続きだよ。付き合ってあげるから、ほら?」
「続きって……でも夢の中でやっても……」
「一応現実なんだけどね……。まぁそれはいいや。君にしてもやらないよりはやった方がいいでしょ? 違う?」
「そうだけど……」
そう言葉にしながら、セイに釣られて動く自分の手を見る。
教科書を見るだけでは分からなかった細かなペンの動きが、セイと一緒に書くことで良く分かった。
はね、とめ、曲線の書き方、その勢い。
芸術品のように美しく記されていく文字を見て、知らず少女は息を詰めてそれに見入った。
四回ほどそうやって一緒にペンを動かした後、セイが手を離し、一歩後ろに下がると少女に声をかけた。
「ほら次は一人でやってみて?」
「一人で?」
驚いたような声を上げて、少女がセイへと振り向く。
一柱の神は頷きリアへと答える。
「そうだよ。ずっとボクがやってても仕方ないじゃん」
「でも……」
自分一人ではこのように綺麗にルーンを記すことなど出来ない。
言葉にはしなかったが、少女がそう考えてることはセイには手に取るように分かった。
自信のなさげなその表情がそれを裏付けている。
「大丈夫だって。ほら、さっき一緒にやったのを思い出しながらさ」
「うん……」
セイに促されて、少女がノートに向き直り手を動かす。
文字が、ルーン文字がノートに書き上がっていく。
セイと共に書いた字とは比べ物にならないほど酷い字だ。
だが、一番初めに書いた物よりはずっとましになっていた。
「何か考えがおありなのですか?」
少女の様子を見ているセイの後ろから、ハコが声をかけてくる。
「お考え? そうだね。それは今考え中……」
「考え中でございますか……。ははぁ……。なるほど? お考えあそばれているというわけですか?」
「何さ、ハコさん。言いたいことがあるならはっきり言ってよ」
「なら言わせていただきます。顕現までしてする事が、小娘に字の書き方を教えるなど命を投げ捨てているようなものです」
「それはまぁそうかもね……」
セイがハコの言葉に同意する。
顕現すれば世界への干渉が増える。
つまり、今まで以上に体を維持するのに力を使うということだ。
現に今、セイはただ立っているだけだが、残っていた神の力は半透明だったころに比べて倍以上の早さで目減りしていっている。
「先ほど言ったように、さっさとこの小娘を超絶強化して恩を吹っかけましょう。そうしてから、権能探しに付き合えと言えば、まさか断ったりはしないでしょう。我々は恩人になるわけですし」
「そういうのも一つの手だねぇ」
「逆に聞かせていただきますが、それ以外に手がおありですか?」
「そうだねぇ……。今は上手く言葉に出来ないからまとまったらちゃんと言うよ。あ、違うよ。そこはそんなゆっくり書くんじゃなくてもっと早くペンを動かさないと……! 違うって、もう! そうじゃなくて! ああ! 違うったら! もう、ちょっと手に触るよ! ペンを持つ力加減から教えてあげるから!」
ハコの言葉を無視するような形で、セイは少女の方へと意識を戻す。
その様子を見て式神はもう一度ため息をつくと、主の行動をただ見守ることに決めたようだ。
表面に描かれた鳥も胡乱気な顔つきをして枝の上に横になってしまった。
神の個人授業は、月が中天をまたいで、少女が本当に寝落ちするまで続いた。
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