第5話 女教師の憂鬱


「馬鹿なことをしたものです……」


 宵闇の中廊下を自室へ向かいながら、王立マギアフィリア魔法学校の女教員シンシア・ギグラシアムが自嘲するようにそうつぶやいた。


 手には今日の召喚の儀式で触媒として使われた銀色の棒が握られている。

 いや、元銀色の棒と言うべきか。

 召喚の影響を受けてか、黒く濁った汚れが棒全体についてしまっていて擦っても落ちない。


 何らかの魔法的作用による汚れだ。

 術式による洗浄を行うつもりだが落ちるかどうか分からない。


「家宝をこんなにしてまですることでは……」


 ため息をつき、廊下を歩く。

 その先に人影が映った。

 女教師が素早く手に持つ棒を袖の中に隠す。


 背の高い金髪の男性だ。白いスーツのような服を身にまとっている。

 王都で今はやっている服であった。シンシアが着ているような、ローブを基調とした古式に乗っ取った魔法使いの服ではない。


 シンシアがしかめていた顔を更に険しくすると足を止め、その人物へと話しかける。


「ディートフリート先生。こんなところで何をしているのですか?」


 影が一歩前に出る。廊下に掲げられている燭台の火に当たって、顔がはっきりと映るようになった。

 髪を丁寧に撫でつけた優男風の美男子だ。


 ディートフリート・エーデルクロス。

 マギアフィリア魔法学校の教員のうちの一人だ。

 魔法の腕前についてはそれなりだが、人に取り入る才能は高い。

 顔がよく応対が柔らかいことから生徒からの人気もあった。

 今最も注目を浴びている魔法である精霊魔法の教師であることも、この人気の一助となっていた。


 だが、シンシアは彼の事を好んでいなかった。

 むしろ毛嫌いしている節さえあった。


 シンシアは実力主義者だ。

 魔法使いにとって最も大切なことは魔法の実力であって、ディートフリートが得意としているような話術や政治能力の高さではないとそう思っていた。


 その考えが態度に出るのか、シンシアは彼に対して随分ときつい態度を取り続けていたが、この男性教員がそれに何か特別な反応を返すことはなかった。


 ディートフリートが薄く笑みを浮かべながら、シンシアの問いに答えを返す。


「いえ、月が綺麗だったもので少し散歩を……。シンシア先生は例の劣等生の付き添いでしたか? 確か使い魔召喚の儀式の……」


「……えぇ、今終わったところです」


「ほう、成功しましたか?」


「……いいえ」


「なんと……?!」


 ディートフリートが大仰な仕草で口に手を当てると、シンシアの側に近寄り彼女の正面に立った。

 前に立つ彼からシンシアは視線を逸らす。


「あなたが側にいながら失敗するとは、あの少女は本当に愚図なのですね」


 それには同意する。

 使い魔召喚の儀式は失敗するとしても一回か二回だ。六回も失敗するというのは学校の歴史を紐解いてみても存在しないだろう。


「しかしまさかといった所ですね……」


 ディートフリートが腕を組んで考える様な仕草を取る。

 芝居がかったそのしぐさに少し苛立ちながら、シンシアは彼の横をすり抜け歩き出した。


「今回の儀式のために、シンシア先生が実家から触媒を取り寄せたという話を小耳にはさんだもので……。まさか失敗するとは……」


 聞き捨てならない言葉が女教師の耳に入る。

 確かに今回の儀式で使用した触媒は学校で用意された物ではない。

 シンシアが自身の実家から特別に準備したものだ。


 誰にも知られないように届けられたはずなのに、何故この男性教員はそのことを知っているのか。

 シンシアは表情にこそ出さなかったが心中で狼狽した。


 無視しようと思っていたが、そういう訳にもいかなくなった。

 反論しなければそれは認めてしまうのと同じだ。

 シンシアが足を止め、振り返ると口を開く。


「儀式のために触媒を取り寄せた? 何のことです? 確かに実家から触媒に使える魔法具を取り寄せはしましたが、それは至極個人的な研究に使うための物です。使い魔召喚の儀式に使うためのものではありません」


「ほう、そうですか? それは良かった!」


 ディートフリートが一歩前に進み、シンシアのその顔を覗き込みながら続ける。


「シンシア・ギグラシアム先生ともあろうものが、まさか個人的感情から一部の生徒をえこ贔屓するようなことがあれば、それは大きな問題になりますからねぇ……」


「その通りです。教員としての中立性は守られなければなりません。ですから、私が一人の生徒に対して個人的な感情から贔屓するなどありえないことです」


 シンシアの顔付きは変わらない。

 それに追い打ちをかけるようにディートフリートが続けた。


「その通り。生徒をえり好みして贔屓するなどあってはならない事。全くもってその通りです。ところで話は少し変わりますが、私と先生がここで会う前に、あなたは手に何かを持っていらしたように見えましたが、あれは一体何だったのでしょうか?」


 シンシアが内心で舌打ちをする。


 この男は自分の弱みを握ろうとしているのだ。

 そのためにわざわざこんな夜中まで、この暗い廊下で自分が歩いてくるのを待っていた。

 そうに違いない。そうとしか思えない。


 そして自分はその罠に片足を取られてしまっている。彼女はそう自覚した。


「見ていた物ですか?」


「そうです。何か持っていたように私には見えましたが……。それはもしかして先ほどの術式で使った触媒なのではないかと思いまして、よろしければ少し拝見させていただけないでしょうか?」


 優男が笑みを浮かべてシンシアにそう言う。

 顔こそ笑い顔になっているが、まるで獲物を前にした肉食獣のような印象を女教師は受けた。

 弱みを見せた獣に飛びかかろうとする猛獣のような気配を感じ取る。


 シンシアは努めて冷静に、自身のローブの袖を探ると左手で大きな銀色の何かを取り出し彼に見せた。


 ディートフリートが片眉を上げてそれを見てからつぶやく。


「髪留め……ですか?」


 手のひら大の凝った装飾の入った銀色の髪留めだ。シンシアが今している物によく似ている。


 その髪留めを左右に振りながら、ディートフリートに彼女は答える。


「ええ。私も女ですから……。身だしなみには多少気を使っているのです」


「なるほど……。先生がお美しいのには理由があるというわけだ」


「何を……。誉めても何も出ませんよ」


「いえ……本心ですよ」


 言葉を告げた後、ディートフリートがシンシアの髪留めを持っている手を右手で握った。その後女教師の身動きを封じるかのように体を近づける。

 男物の甘い香水の匂いが濃厚に香り、シンシアは一瞬顔をしかめさせた。


 体を近づけ、女教師の顔に自分の顔を近づけさせその瞳を覗き込むと、ディートフリートはささやくようにして言葉を続けた。


「先生……。あなたは本当にお美しい。まるでこの宵闇を照らす月の女神のようだ」


 冷静な声でシンシアは言葉を返す。


「あら? そうですか?」


「えぇ、もし今この瞬間に、私と先生が世界で二人きりになったとしても、後悔などしないでしょう」


「お上手ですこと」


「冗談ではありませんよ。あなたは強く、そして美しい。私が知るどのような芸術品よりも秀麗で、それでいてどのような人物よりも気高い」


 言葉を続けながらディートハルトは握っていた右手を離し、左手を女教師の肩に置く。

 ごく自然な動きのように見えたが、よく見ればその右手はシンシアのローブを気付かれないように触り何かを探すような素振りを見せていた。彼女が持っているはずの触媒を探しているのだ。


 ローブの袖の辺りをディートフリートの右手が触れる。


 その手が堅い何かを捉えた瞬間! 

 白い何かが探られていたシンシアの袖から飛び出し、男性教員の腕から首筋に向かって絡みついた!


「…………ッ!」


「おやめなさい! エイジア!」


 女教師の声を聞いて白い何かが止まる。驚いた表情のままディートフリートが横目で確認すると白蛇が牙をむいて今にも自分に噛みつこうとしているのが見えた。

 シンシアの使い魔の蛇だ。


 彼女の声を聞いてか白蛇は牙を収め、シンシアの袖の中へと戻っていく。

 ゆっくりと、ディートフリートを睨みつけたまま瞬きもせずに袖の中へ消えていった。


 硬直する男性教員の手を丁寧に肩から外すと、一歩後ろに下がりシンシアは頭を下げて謝罪した。


「失礼しました、ディートフリート先生。この子はどうも過保護みたいで。無暗に触ろうとする殿方に噛みつく癖があるのです」


「……なるほど。いえ、私こそ少々軽率でした。突然このようなことをして、嫌われなければいいのですが……。もしよろしければまたゆっくりと、今度は食事でも取りながらお話したいですね」


「ええ、機会がありましたら……。それでは……」


 シンシアが別れの挨拶を告げ、ディートフリートを背にして歩き出す。


 背中に猛禽類にも似たするどい視線を感じた。

 シンシアは振り返らずともあの男性教員が、自分のことを苦虫をかみつぶしたような顔で見ているのが分かった。


 内心でため息を吐く。

 人が三人いればそこに社会が生まれ、その中で政治を行おうとする者が出るというのは理解が出来ることだ。

 それが多くの人間や権力者たちの子供が入り乱れる魔法学校ならなおの事そうであろうとは思う。


 だがこの魔法学校で、国家の未来のために必要不可欠な教育機関の中で、そのような政治ゲームを行う輩がいるのは問題だ。


 あの男は危険だ。

 自分の派閥を作るために生徒たちに優しい顔をして、じわりじわりと勢力を伸ばそうとするならまだ可愛いものだが、今のように他者を蹴落とそうとするなら話は別である。


 魔法使いというのは学者気質の人間が多く、あの男の動きに対応できる人間は少ない。

 ディートフリートの勢力が大きくなり権力が集中して、魔法学校での評価基準が実力ではなく、いかにあの男に気にいられるかに変わってしまったら、学校としての存在意義が消えてなくなる。


「厄介な……」


 毒づく。しかし何をすればいいのか具体的な対策までは頭が回らない。

 彼女もまたただの魔法使いの一人であって、政治家ではないからだ。


「校長はこんな時にどこに行かれてるんだか……」


 今はいない学校の長の事を考えて頭を抱える。

 マギアフィリア魔法学校の校長が用事があると言ってどこかに出かけて既に二ヶ月が過ぎていた。

 そのせいもあってか、今まで以上にディートフリートは勢力拡大にいそしんでいる。


 シンシアが焦りに似た苛立ちに眉を逆立てていると、ローブの首筋から白蛇が顔を出し、女教師の顔をその小さな舌で舐めた。

 使い魔のエイジアが主の事を心配しているらしい。


「いい子ね……」


 眉間のシワ緩めるとシンシアはそう言って白蛇の首元を撫でた。使い魔が目を細めて嬉しそうに体を震えさせる。


 ひとしきりそうした後、軽く息を吐き意識を切り替え、自室への道を急ぐ。


 考えても仕方ないことだ。今は明日に備えて休もう。一朝一夕でどうにかなるような問題ではないのだから。

 そう考え、シンシアは足早に薄暗い廊下を前に進みだした。

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