5

 最初に目にしたのは、相も変らぬ薄暗い空だった。

 若かりし頃の光景を見た後に見る物がこれとは即ち、死後の世界に放り込まれたのかと目を動かすと、揺れる焚火の炎と悲壮な面持ちでこちらを見つめる友人の姿。

「……アニー、お前も死んだのか?」

「なわけないでしょう!」

 問うた瞬間、視界に星が飛ぶ。

 容赦なく引っぱたかれたことで、真っ当な思考を取り戻したディンクは跳ね起き、そして周囲を見渡してもう一人の姿も認識して、硬質な地面にへたり込んで安堵の息を吐く。

「三人共助かったのか」

「何とか、ね。あんまり嬉しくはない生き延び方だけど」

「贅沢言うなって、アイツと出くわして生き延びたんなら、割と胸張れる話だぜ」

「生き延びただけじゃ意味ないでしょ……」

 アニーが絞り出した指摘は、男二人を纏めて沈黙させた。

 指摘通り、最大の障壁カレル・ガイヤルド・バドザルクはディンクが意識を手放す瞬間まで無傷。逃走の瞬間までそれは変わらなかったのだろう。

 火山に生息する凶悪な生物との戦闘で消耗する期待も、魔剣継承者が相手では抱ける筈もない。

 無傷のカレルを打倒する指し手は、役者がこの三人では生まれない。愛や勇気が織り成す大逆転劇の脚本が仮に存在していても、敵の持つ圧倒的な力を前に破り捨てられるだろう。


 進む先に待つのは地獄。

 なら、常識に基づいて退くのはどうだ?


 先んじてその結論を出していた二人の表情が、ディンクに無駄な思考の時間を与えなかった。

 依頼の失敗は賞金稼ぎの世界ではありふれた話で、当人達が生存していれば依頼主に契約金を返還し、契約条項に従って違約への賠償を行えば良い。

 今回の依頼はバザーディ到着まで詳細が明かされなかった上、スタンスの問題で契約金を受け取っていない。ここで放り出しても何一つ問題ないと見る事も出来る。

 逃げを否定する規則はこの場にない。三人に決断を躊躇わせる理由は、別の角度にある。

 噂とは恐ろしいもので、どれだけ隠蔽を図っても大体は何処かで尻尾を掴まれ、負の色を含んだ話は美味しい餌として世間の人々に駆け抜ける。

「あの人はそのような真似をしない」と強く擁護される良き人間性や功績も「そんな話は妬みに起因する捏造」と、強者への自己同一化や媚びを売る為に多用される罵声に守られる権力も無い三人は、悪意が上乗せされた事実に叩き潰される。

 元々社会的な立場など無に等しくとも、それに耐えられるか否かは別問題であり、受け入れられる物ではない。

 完全無欠の足手まといだったディンクを捨てず、二人が退かなかった理由の一つがこれだ。

 更に、二つ目にして最大の理由を言葉を交わさずとも三人は共有していた。

――ここで逃げて、俺達は胸を張れるのか?

 敵が強く依頼の達成が困難だから余計な危険を避け、時には逃げる。

 実に常識的な判断だ。百人に聞けば、頭の螺子が飛んだ奴が混ざっていなければ全員から肯定される判断だろう。

 しかし、その判断に従い続けていれば、三人は未だにヒルベリアで『塵喰い』で糊口を凌いでいた筈で、その怠惰な日々を抜け出すべくこの道を選んだ。

 とすると、答えは分かり切っているはずだ。

「俺は――」

「その先は今言うな」

 眼前に分厚い掌が掲げられ、ディンクは口を閉ざす。

 覚醒当初の戯けたやり取り以降、何処か遠くを見つめていたクラックは、バークガーを片手で回しながら肩を竦める。

「お前の腹が大体決まってるのは分かる。ただ、完全に何もない状態で怪物に挑んでも、さっきの二の舞になるだけだ。今度は全員が死ぬぞ」


 ――あーうん、大体分かった。もう良いわお前。


 心の底からの落胆と軽蔑と、圧倒的な力の差が齎した処刑が蘇り、体温が急速に低下したディンクは身を震わせ、前のめりになっていた精神が引き戻される。

「……言い過ぎ」

「言いたかないけど一応な」

 一応反論したアニーも、クラックの言葉を明確に否定出来ない。

 負傷して除隊された挙句、妻に逃げられヒルベリアに流れ着いたとは言え、アークス国軍に所属していた父からノウハウを叩き込まれたクラックは、戦闘能力以外は中堅程度の力量を有している。

 ディンクが気絶している間も彼は勝ち筋を模索し、どんな指し手を用いてもカレル相手に勝ち目が見えない現実を、二人より遥かに正確な構図で捉えたのだろう。

「予測の範疇を出ないが、完全覚醒にはまだ猶予がある。せめて、一晩ぐらいは頭を冷やして決めないか」

 今はこれ以上話せないとばかりにクラックは背を向け、急造の寝床に入って行く。友人を責めることなど、当然出来なかった。

 クラックの指摘は単に『常識』や『良心』だけの判断ではない。ほぼ固まっていた友人の決意を読み取った上で、先走りからの自滅を封じる為、敢えて反感を買う言葉を放ったのだろう。

 友人の気遣いは痛いほど理解出来る。内在する感情が、従う訳にいかないと叫んでいるのが大きな問題なのだが。

 言葉を吐こうにも形にならず、無意味な口の開閉が繰り返される結果に終わり、二人は沈黙し、火の粉が散る音が場の全てを支配する時間が流れ続けていた。


                   ◆

 

 星一つない空に、紫煙が一筋揺らいでいる。

 ヒルベリアでも楽に買える、低級の煙草を咥えて座すディンクは、先刻のやり取りからずっとこの姿勢を保持していた。

 友人の指摘を覆す何かを捻り出そうと、案が浮かんでは消える。あまり意味のない物ばかりが浮かび上がる現実に、己の浅さを突きつけられているような錯覚も、彼の中を巡り始めていた。

 戦闘能力は生来の才覚と鍛錬、そして実戦の経験を掛け合わせて磨かれると言ったのは、教科書に住まう英雄だっただろうか。

 この論に基づけばカレルを破る筋など存在せず、運命も決定しているとするのが妥当な話になってしまう。

 どう筋を辿っても、同じ結論に至る現実に頭を抱えるディンクの頬が、不意に熱が届く。

「……起きてたのか」

「一応ね。クラックも起きてるみたい。ディンクと同じように、ああでもこうでもないって唸ってる」

 紅茶の入ったカップを差し出しながら、アニーはディンクに対面する形で腰を降ろし、ほつれた金髪を弄りながら煙草に火を灯す。

 甘みと、鼻を叩く強烈なハッカの匂いを散らす紫煙を吐きながら、隊で唯一の後衛はゆっくりと口を開く。

「思っていたよりとんでもない事になったね」

「……すまん」

「ディンクのせいじゃない。私とクラックは、あんたの提案に自分の意思で乗っかった。自分の力量不足を恨むことはあっても、あんた個人に何か言うなんて思ったこともない」

 流石に今回は、ちょっと動揺してるけどね。

 苦笑混じりにそう締め括ったアニーの言葉を受けても、ディンクの表情は微動だにしない。目の前の問題にどう挑むか、どう足掻いても届かないのでは。

「……どうやったら、アイツを倒せるんだ」

 行き詰まりの極致に辿り着いて零れ出た声を受け、アニーの目が丸くなる。

「……え、倒すつもりだったの?」

「そりゃそうだろ」

「……出て来なくて当然ね。私達の目的は、竜の覚醒を押し留める事。カレルを倒す事じゃない筈。……それで、クラックもあんな悩んでる訳ね」

 今度はディンクが目を丸くする番だった。

 確かに、目的は託された結晶を火口に投げ込んで、火竜の覚醒と暴走を止めること。カレルの登場と彼の煽りを受け、無意識に目的が擦り替わっていた。アニーの言葉から推測するに、クラックも似たような膠着に陥っていたのだろう。

 一をこなすにも命を賭す必要がある自分達が、二を追うなど土台無理な話。名案など出る筈もなかった。

 苦笑しながらテントに視線を向ける。

「何とかなりそう?」

「ゼロから一にはなった」

「心細い話ね」

「俺達のやることなんて、全部綱渡りだからな」

 煙草を揉み消して、二人はテントへ向かう。

 不安は巣食い続けているが、先刻までよりほんの少しだけ、内在する物は変わった。

 後は、それをどう転がすか。

 軌道修正された目的への道を描きながら、ディンクはテントへ潜り込んだ。


                    ◆


 徐々に大地の鳴動が大きくなり、地面から噴き出す溶岩の量が増しているグラグス火山頂上。

 退屈そうに欠伸を零したカレルが、不意に立ち上がって下方へ視線を向ける。

 赤銅色の瞳に映る物を捉えた彼の表情が、楽し気に歪む。

「逃げずに来たか。一応褒めてやるよ」

 先日魔剣継承者が完膚無きまでに叩きのめした、ヒルベリア出身の三人は、カレルの言葉にも反応せず、彼へ接近していく。

 相手の足運びや体内の魔力流を短時間で観察した結果、相手の戦闘能力に全く変化が無い事を理解したカレルは、無手で前進を開始。

 魔剣継承者の足元が弾け飛んだのは、その時だった。

 咄嗟に右足を跳ね上げて『牽火球フィレット』による爆裂を躱し、次いで生じた爆裂も無効化して着地したカレルの四肢を『鉄射槍ピアース』の雨が襲う。

 ドラケルンの猛者が持つ強靭な皮膚は、低級の魔術攻撃を易々と弾き、ほんの僅かに注意を逸らす以外の意味を為さない。

 だがこの瞬間、僅かな隙こそが三人に最も必要な物なのだ。

 『怪鬼乃鎧オルガイル』で全身を肥大化させたディンクがカレルの脇を駆け抜け、猛然と火口へ向かう。無論凡人の肉体強化などたかが知れており、即座に反転したカレルはディンクの背に狙いを定めて地を蹴り――

「隠し玉はな、こっちにもあんだよトカゲ男ッ!」

 野太い絶叫と共に、複数の鉄球がカレルを殴りつける。

「今だ、行けッ!」

「分かってる!」

 体勢を崩したカレルに向け、バークガーから更なる鉄球を撃ち出しながらの怒鳴り声に応じ、『鋼縛糸カリューシ』が伸びる。風切り音を引き連れて伸びた鋼糸はカレルの全身に絡み付き、巨体が地面に沈む。

 幸運の助力もあるだろうが、面白いほどに足止めが決まったと気配で察したディンクは、尚も増大する恐怖を捻じ伏せ更に加速。

「ルぅあああああああああああああアァッ!」

 竜同然の咆哮が、大気を、地面を震わせる。

 小規模な地震を引き起こした上に溶岩の噴出を誘発する、理不尽な無形の力に背を殴打され、無様に転倒したディンクは、機敏に体勢を立て直して反転。

 そうして捉えた、カレル・ガイヤルドが全ての縛めを破壊して立つ様に瞠目する。

「不意打ち上等。それに、お前らの意思も尊重してやる。だからよぉ……」

 暴風を浴び視界が暗転。

 紅の彩が添えられた黒の空と、見る者の心身を凍結させる黄金を、視界の回復が成ったディンク達は目撃する。

 黄金の邪竜の手に、やはり黄金の輝きを放つ歪んだ二等辺三角形が屹立。儀礼用か装飾用と錯覚する美しさを持つ物体の名を、三人の希望を砕く為か、カレル丁寧に紡ぎ出す。

「当代『ケブレスの魔剣』最強、かつ最高の剣『散竜剣クレセゴート』だ。お前ら全員、コイツの餌になれや」

 処刑宣告と同時、音もなくカレルの手が振られる。


 転瞬、刃から放たれた豪風に呑み込まれ、クラックの姿がディンクの視界から消失。


「何をした!?」

「万が一の連携を潰す足止めだ。死んじゃいねェだろ多分」

 アニーが再度伸ばした『鋼縛糸カリューシ』を指を弾くだけで千々に刻み、辛くも立ち上がったディンクにゆっくりと近づいていく。

 ギセッファを構え、ほんの僅かでも威力を上乗せすべく習得途中の『不視凶刃スティージュ』を紡ぐが、危機にこそ平時の積み重ねが物を言う。

 道理に従って構築に失敗し、反動で無様に体勢を崩したディンクにクレセゴートが振られ、黄金の刃は狙いを一切過たず右腕を駆け抜ける。


 確実に腕は斬られた。にも関わらず、痛みがない。


 疑問を抱く彼を他所に、ギセッファが重力に従い地面に落ちる、乾いた音に釣られ彼の目が右腕に向かう。

 その動きを待っていたとばかりに、刃が抜けた場所を起点に右腕の輪郭が緩み、塵芥に転じて風に流されていく。

 十秒にも満たない短時間で、彼の右肩から先は元々存在していなかったように消え失せた。

 呆然とした面持ちで硬直したディンクの顔面を、黄金の手が掴み、彼の肉体が浮上。逃れようと足をバタつかせ、残る左手で魔術を放とうと足掻く彼を嘲笑うように、カレルは迷いなく軽やかな足取りで歩む。

「お前程度なら、普通は全身が埃になる筈なんだけどな。右腕だけで済むって、なかなか強運じゃねぇか。宝くじでも買っときゃ、こんな死に方しなくても良かったのにな」

「何、を、した……!?」

「クレセゴートの真髄は結合崩壊。刃による斬撃の前に、俺と剣自体の魔力が接触面から体内に流れ込み、肉体の構成を破壊と解体、そして世界から痕跡さえ消し去る仕事を果たす。刃を殆ど使わずに済む、財布と惑星環境にも優しい力が『散浄哭竜蝕』って訳だ」

「……」

「どんな魔術を使っても、お前の右腕はもう戻ってこない。世界から消されたんだからな。まぁ、今から全身無くなるんだから大したことないか」


 朗らかに放たれた宣告に、ディンクの全身が強張る。


 剛力を前に成す術のない自分。全身が無くなるという宣告。そしてここは、鉄をも溶かす紅色の物体が満ちる場所。

「止め……」

「敗者の意見を聞く馬鹿はいねぇだろ」

 足元から異様な熱が届いたと同時に視界が開け、笑顔で手を振るカレルの姿が目に映るも、それもすぐに遠ざかっていく。

「俺は平等主義者だからな。仲間も同じようにしてやるから安心しろよ」

 理不尽極まる言葉に抗弁する暇も与えられず、ディンクの身体は溶岩に呑み込まれた。



 

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