六章 西の賢者が死んだ②
学校で千葉と会った日から二日後、久我山は事務所の前に来ていた。
いつものようにコートの内ポケットから鍵を取り出し、事務所へと入ろうとした時だった。
「久我山さん」
横を見ると、いつの間にか北野が立っていた。
「おお、こんにちは」
「ええこんにちは、じゃありません。昨日一昨日となんで事務所に帰って来なかったんですか?」
「ああ、悪かった。強烈な眠気に襲われてしまってな。でも一応連絡はしただろう」
「そうですけど、いえ、もういいです」
少しつっけんどんに答える北野。久我山は微笑しながら言った。
「そこに突っ立ってても仕方ないだろう。取り敢えず中に入れ」
「相変わらずインスタントで悪いな、お嬢様」
「相変わらずお嬢様扱いしなくてもいいんですよ、久我山探偵」
テーブルに紅茶を置く久我山に北野は微笑して言うと、久我山は苦笑する。
「私は馬鹿舌だから、お紅茶も珈琲の良し悪しも分かりませんよ。多分、このインスタントの紅茶だって高級品だと言われたらそう信じ込んで飲むでしょうし」
「あらら、そりゃ勿体無い事したな。じゃあ高級品って言えば良かった」
「でも、嘘は良くないと思います」
そう言って北野はカップを口元に運ぶ。
「それで、千葉先生から聞いた話、その情報共有をしてほしいのですが」
「ん、ああ」
久我山は北野に千葉から聞いた事を話す。北野は話を聞いていく内に、眉をひそめていった。
「西の賢者は生きて、いるですか」
北野は何度か首を傾げる。
「ああ。本当かどうかは知らんがな」
「でも他に当て、ないんですよね」
何度か目を閉じたり開いたりしながら、北野は言った。
「まあな。だから俺は、賢者とやらが根城にしていた場所に行く」
「大月山公園でしたっけ? 噴水広場です、ね」
「そうだ。千葉の話を信じるなら、彼処の何処かに奴の棲家にアクセスするためのポイントがある」
「なら早速、ん、今夜乗りこ、んで、か?」
ふらふらしていた北野の頭が一瞬かくっとしたが、すぐに元のように頭を元の位置に戻す。
「ああ。さっさと面倒な事は済ませたい」
「そう、っか」
再び北野の頭がかくっとする。今度はすぐにではなく、ゆっくりとした動きで頭を元に戻した。
その表情はぼーっとしているようで、しかし目だけはその怠惰に抗おうとする意思が見て取れた。
「ねえ、こ、って……」
強烈な眠気に抵抗しようとしているのだろう。北野は自らの意思に反して閉じようとする眼を精一杯開けようと努める。
しかしその抵抗も虚しく、彼女の眼に深々と
「悪いな。こうでもしねえとお前はついて来るだろ」
久我山は静かに寝息を立てる北野をゆっくりとソファに寝かし、毛布を被せる。
「じゃあな。生きていたらまた会おう」
そう言い残し、久我山は事務所を後にした。
○
悪く思わないでくれよ。久我山は深夜の、人気の無い道路を車で走りながら心の中で呟いた。
まだ子供だからなどといって低く見ているわけではない。北野には思慮があるし、力も度胸もある。だが、やはりこんな事に首を突っ込ませるべきではないのだ。彼女には、彼女の活躍するべき場がある。
パーキングエリアに車を停め、黒い布袋を抱えて外へ出る。久我山が横を向くと、そこには塀に囲まれた大きな施設があった。
「ここが、大月山公園か」
久我山は感心したように言った。
大月山公園は丘の上に建てられた広大な公園である。公園はいくつかのエリアに分かれており、それ故に入り口はいくつか存在していた。
久我山は公園の南側の門を通ってすぐの所に立ち、辺りを見回す。周囲は広場になっており、売店が公園の門の近くにあるが、深夜のため勿論人はいない。
久我山には建築の意匠は分からない。そのため、通り過ぎるだけであろう入り口にやや広い空間が取られている理由は分からなかった。
何かしらの必要性に迫られての事だろうか。それとも、ここを設計した者が入り口に関して何かしらのこだわりがあったのか。
「まあ、いいや」
今の自分には関係の無い事だ。久我山はボソリと呟き、公園の中へと歩き出した。
この公園の何処かに隠れ家へと至る場所があり、そこに賢者がいる。少し骨は折れるが、ここまで地点を特定出来ていれば見つけ出せない事はないだろう。何かしらの魔術的な痕跡が何処かにある筈。それを目ざとく見つけて、隠れ家へと至るのだ。
ふいに、背後に悪寒を感じた。
振り返ろうとする。しかし、振り返りきる前に、久我山は吹き飛ばされてしまった。
背中から地面に叩き付けられた久我山は、痛みを堪えながら立ち上がってそれを見た。
久我山は舌打ちする。そこにいたのは、異形の化物であったからだ。
化物は久我山の見る限り三つの生き物から成り立っていた。内一つは獣。元は熊か狼か。残る二つは人間だ。いずれも
「絵本から飛び出てきたのかよ。だったら頼むから帰ってくれ」
久我山は下らない冗談を言ってみるが、その巨人は持ちうる全ての瞳で只々久我山を観察するばかりである。
「そんなに見つめないでくれ。照れるじゃねえか」
言いながら、久我山は布袋を解いていく。
そこから現れたのは銃剣であった。銃身よりはむしろ刀身が目立つそれはしかし、一見して普通の武器ではないと思わせるものがあった。持ち手の部分より刀身、銃身にまで赤い葉脈のようなものが這っており、まるで生きているのとでもいうように規則正しい鼓動をしているのだ。
その銃剣は知己だった呪術師から受け取ったものだ。これを以て、久我山は何十もの怪事件を解決してきた。
慟哭する巨人。人の叫びと獣の唸り声が、しかし調和しないノイズとなって辺りに木霊する。巨人は手に持っていた鉈を振り上げて久我山に斬りかかった。
久我山は銃剣でそれを防ごうとするが、踏ん張りがきかずに吹き飛ばされてしまう。
追い打ちをかけようとする巨人に対して、久我山は銃弾を放つ。それらは全て巨人に命中するが、一瞬だけ巨人を怯ませたくらいで、再び巨人は久我山に斬りかかる。
久我山はそれを体を反らす事で躱す。
まともに当たれば、文字通り体がバラバラになってしまうだろう事は明白であった。
「スプラッターは御免だ」
久我山は呟きながら、巨人に斬りかかる。巨人は雄叫びを上げながら己の得物を久我山に向けて振り下ろすが、それも彼は躱し、銃剣を横に薙いだ。
吸い込まれるような黒い刃がその硬質そうな脇腹に食い込んでいくが、巨人は意に介さず、鉈を横に薙いだ。
「くそ」
久我山は銃剣を離し、後ろに飛び退く。
巨人は腹に突き刺さっていた刃を抜き、後ろに放り投げた。それは石畳を砕き、地面に突き刺さった。
巨人は興奮したように鼻を鳴らし、久我山に向かって駆け出しながら鉈を振り上げた。しかし、久我山は不敵な笑みを浮かべたまま手を前にかざし、ぶつぶつと何かを唱えた。
巨人の刃が振り下ろされる。それは、本来であれば久我山を斬り潰していた筈であった。
しかし、巨人は斧を振り上げた体勢のまま止まっていた。
胸の辺りから血が流れる。巨人の胸から顔を出していたのは、久我山の銃剣であった。
「生きてるんだよ、そいつは」
巨人が人間的な叫びを上げて構わず鉈を振り下ろす。それを久我山は横に転がる事で躱した。
巨人の体を裂いて銃剣が久我山の所へと戻っていく。
よろめき、呻きを上げながら巨人はその場に倒れてしまった。
「なんだ、大した事ねえな」
久我山は歩き出した。こんなのにかかずらっている場合ではない。さっさとこの件を終わらせて、酒を呷ろう。やはりウィスキーがいい。湿気た事務所じゃなくて、全道のアジトを使わせてもらおう。夜景を見ながらの酒なら、格別な味がするだろう。料理もだろうが、やはり酒は、演出や雰囲気が大事だ。
そんな事を呑気に考えていた時だった。ふと、久我山をある種の胸騒ぎが襲った。
ひょっとして彼女が、北野万智が自分の後を付いて来ているのではないだろうか?
すぐさま久我山はかぶりを振る。そんな筈はない。念には念を、気が引けたが彼女には睡眠薬で眠ってもらったのだ。故に、ここに来る事は考えられない。
起きて夜明け頃か。下手すると翌日の学校まで響くかもしれないが、命には代えられないのだ。多少恨みを買ったところで構うものか。
しかし、何故こんなにも胸騒ぎが収まらないものなのか。
「やっぱりやってくれましたね」
そう、そんな風にいきなり声をかけられるのではないかとずっと確信があったからだ。
いや、何故彼女の声がするのか。ハッとして、久我山は後ろを振り返った。
信じられない。しかし、一方で思った通りだとも思った。
北野万智が、そこに立っていたのだ。
「どうして」
「お前は眠った筈じゃ、って?」
久我山は眉をつり上げる。
「お生憎様、私も間抜けではないって事ですよ。こういう肝心な事、きっと貴方は一人で済ませようとするのは目に見えていたから、私も警戒してたんです。そうしたら案の定、貴方は手垢の付いた古典的な方法で私を舞台から強制的に引きずり下ろそうとしてきた」
「万智、お前高校生だよな?」
「ええ、高校生ですよ。ですから、なんだというのでしょうか?」
北野は久我山を見据える。
「私を只の世間知らずの小娘だと思っていたなら、当てが外れましたね」
「は、言ってくれる、な」
久我山はふと、北野の背後に黒い影がある事に気が付いた。そして瞬時にそれが何であるのかを気付いた時には、彼は力の限り叫んでいた。
「え?」
異変に気付いた万智は後ろを振り向く。
無慈悲にも、その凶刃は振り下ろされた。
詰めが甘かったのだ。
巨人はまだ生きていた。剥き出しになった赤黒い心臓が雄雄しく鼓動を続けている。
そして、久我山は自分が仰向けに倒れている事に気付いた。胸から腹にかけてが沸騰したように熱くなっている。無意識に胸を大きく上下させているのは、酸素が足りないからか。
「ドジッたな、こりゃあ」
ふと視線の端にいる少女に気付く。少女は血の気の引いた顔で自分を見ているようだった。
なんだ、歳相応の反応をするんじゃないか。久我山は自分の惨状に気付いていながら、それでもなお笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。
「そんな、このままじゃ」
北野が我に返ったように言った。
「おい、万智。深海魚はタフなんだ。何せ深い海で生き延びてんだからな」
よろつきながらも久我山は手にした銃剣を構える。
巨人が久我山を六つの瞳で睨み付けて咆哮すると、鉈を振り上げ、力の限り振り下ろそうとした。が、その腕の動きは次第に緩慢になり、やがて、何かに引っ張られるように後ろへとその軌道を変えた。
見ると、巨人の腕に赤い糸のようなものが絡み付いていた。
「心臓を狙いなさい」
少し幼げな少女の声。
誰だか知らないが恩に着る。久我山は口角を上げて、その得物に込めた銃弾を化物の胸に打ち込んだ。
化物の胸に穴が空いた。暫く藻掻いていた巨人はやがて動かなくなり、膝を突き、そして力なくそこに倒れた。
「今度こそ、くたばってくれよ」
ポツリとそう呟くと、久我山はゆっくりと後ろに倒れた。
「終わったわ。もうアトラスは立ち上がらない」
アトラス。それがこの巨人の化物の名前か。久我山は最早肉塊と化したそれを見ながら、ぼんやりと考えた。
「しかし、参ったなこりゃ」
ここは通過地点であり、最終目的地ではないのに。久我山は胸を大きく上下させながら少女の声のした方に視線を注ぐ。
そこにいたのは、身長が百四十にも満たない程の小さな少女だった。
「時上鈴よ。助けてあげるわ」
少女、時上は言った。
「そいつは、なん、でだ」
「借りを返すだけよ。貴方は私の不始末を片付けてくれたから」
「成程、ね。嬢ちゃんが、あんなもん作った、のかよ」
時上は苦笑する。
「嬢ちゃんじゃないわよ。もう三十過ぎてるから」
「へ、まじか」
「久我山さん!」
北野が駆け寄ってくる。
「ちょっと! しっかりして」
「済まん。少し休みたいんだ」
「そんな巫山戯た事言ってないで――」
「大丈夫よお嬢さん。彼は私が死なせないから」
「って、わけだ」
北野は久我山をじっと見つめる。
「死んだら呪いますからね」
「おいそれ、あんたが言うと、洒落にならんな」
少しの間があった。
後は任せた、久我山は北野に告げた。
北野はハッとして、それから口元を引き結んだ。
それから彼女は、目を閉じながら久我山の額に自分の額を当て、言った。
「少しの間だけ、お借りします」
そうして久我山の手に持っている銃剣を手に取り、立ち上がった。
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