五章 自動人形⑤

 くそ、高村は走りながら悪態をついた。義足は難なく走れるように出来ているが、だが、もう片方の足と微妙にタイミングが合わず、ふとした拍子にバランスを崩しそうになってしまう。

 だが、高村は歯を食いしばる。止まるつもりなど毛頭ない。たとえ心臓が破裂してでも走り続けてやる。でなければ、待っているのは死なのだから。

 キメラの巨人、アトラスは執拗に高村を追ってくる。何故だか動きに精彩さが欠けているのは、動力源たる魔力が切れ始めているからなのか。既にアトラスは時上鈴の支配下を外れている。つまりそれは、鈴からなんらかの形で提供されていた魔力が止まるという事だろう。いや、それに加えて久我山から渡されたナイフの効き目が出始めたのもあるかもしれない。

 兎に角、このまま逃げきるんだ。高村は公園の入口に停めていた自転車に走りながら乗り、緩やかな坂道を猛スピードで降っていく。彼が向かうのは四方坂邸。

 何故そこに向かうのか。それは以前、四方坂がこんな事を高村に口にしていたからだ。

『何故ここが安全なのか、それはね、幸太郎君。ここにはとっておきの結界が張ってあるからなのよ。どれくらい凄いのかというと、そうね、たとえ神霊、いえ、神様の類であってもここには容易に入る事は出来ない位凄いのよ。高村君達が入れたのは、単に私が許可したからね』

 高村には結界などというものが張られているようには微塵も感じられなかったが、四方坂が嘘を言う理由も無いので、まず間違いなく結界は存在するだろう。ならば、今のこの状況ではそれをあてにするしかあるまい。

 なんという長い道のりか。もう随分と進んだ気がする。四方坂邸の塔が見えているから、物理的な距離にして後一キロにも満たない筈の距離、しかし、高村にはその距離が異様に長く感じられた。

 早く。早く。早く着いてくれ。

 高村の鼓動は疲れと焦りと恐怖と興奮とが混ざり合った奇妙なリズムを刻んでいた。酷く意識させられる、心臓の鼓動。自分の生存がこんな繊細なもので保たれているという事に心底吐き気を覚えた。しかし、今は兎に角どんなに無様でも駆け続けなければ。そんな吐き気を催す事すら出来なくなってしまう。

 働け。働け。俺の足だろう。今は俺の足だろう!

 背中を叩き付けるような風圧が高村を襲った。その原因がなんであるのか、高村には振り返らずとも分かった。

 高村は自分の体が自転車から浮いている事に気付いた。そのままあっという間に地面に叩き付けられる。鼻孔に嫌な匂いが充満したが、そんなもの今は構ってられるものか。視界の端に四方坂邸の門がちらつく。

 迷うな。立って、走れ。

 すぐ背後を圧倒的なまでの暴虐と殺意が襲いかかった。相変わらず全身の皮膚を刺々しく戦慄させるような威圧感。果たして自分の愛車はどうなってしまったのか。見てみたい衝動にも駆られたが、恐らくスクラップとすら呼べない状態になっている事は想像に難くない。

 外から見える居間スペースには電気が点いている。おそらく、四方坂がまだ本でも読んでいるのだろう。

 よし、高村は思い切り跳躍して門の上を飛び越える。

「ってえ!」

 着地に失敗して、衝撃が背中から伝わる。激痛が走ったが、自分の体に鞭を打たせて立ち上がった。

 門の中だ! 高村は心の中で歓喜の声を上げた。アトラスは門の中には入ってこない。それどころか、高村の居場所が分からないとでもいうように辺りをきょろきょろとし始めた。

 これが結界なのか、高村は巨人の様子を見ながらぽつりと呟いた。

 やがてアトラスは諦めたかのようにゆっくりと体の向きを変えると、何処かへ向かって飛び去っていった。

「助かった、のか」

 高村は深呼吸をした。それからゆっくり立ち上がると、屋敷の方へと歩を進める。

 これからどうするべきか、高村はそんな事を考えながら屋敷の玄関の前に立ったが、ふと、とある事が引っかかった。

 何故、四方坂は外に出てこないのか?

 四方坂は耳が遠いわけではなさそうであったし、目も悪いわけではない筈。そもそも結界を張るくらいなのだから先程の異常くらい気付くものではなかろうか。

「いや」

 高村は呟いた。考え過ぎだ。結界を張っているからこそ油断が生まれるという事もあるだろう。それに四方坂は少し抜けている所がある。

 玄関のドアを開け、中に入る。

 一見すると特に変化は見られない。

 やはり思い過ごしか。高村はほっと安堵しながら居間の方へと赴いた。

「は?」

 高村は目を疑った。なんなんだ、これは。

 四方坂円がソファに体を預けるように座っていた。いや、

 四方坂円だったものが、座っていた。

 薄い緑のゆったりとした服、その胸の部分が赤く染まって大きな斑点を作っている。下へちろちろと流れるその赤い液体は、それが起きた時期を高村に静かにそして鮮明に訴えていた。

 まだ、中にいるかもしれない。

 嗚咽おえつしている暇などなかった。慟哭どうこくする暇など、喪失を味わう暇など高村には無かった。

 目の前の脅威に対抗しなければ。

 高村は息を殺す。もし中にいるのならもうこちらの居場所は把握されているだろう。ならば、今更息を殺したところで仕方が無いのかもしれない。だが、高村は少しの気休めでもいいから安心感が欲しかった。

 とん、とん、と二階からそんな音が聞こえてきた。

 そこか。高村は足音をなるべく立てないように四方坂の座っていたソファの後ろに隠れ、静かに撃鉄を起こす。

 異変に気付いたのか、それとも単純に一階に用があるのか、徐々に階段を降りる音は大きくなっていった。

 来るなら来い! 高村は心の中で叫んだ。今度はあんたの番だ。

 やがて階段を降りる音が大きくなっていき、そして遂に降りきった事が分かった。

 少しの間の後、その人間らしい足音は居間の方へと向かってきた。

 高村はそっと様子を窺う。

 そこにいたのは浅黒い肌をした男であった。背の丈は百九十を越えているだろうか、パナマハットにステッキをついているその男は居間をゆっくりと見回しているようであった。

 高村は顔を引っ込める。

 ソファに向かってきた時が合図だ。先にこっちから仕掛ける。

「そこに誰かいるのか?」

 男の声がソファの方へと投げかけられた。

 今しかない、高村はソファから飛び出し、銃口を声のする方へと向けた。

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