四章 交差⑨
竹刀入れを一回り大きくした黒い布袋を片腕で抱えながら、久我山は坂見北高校の裏口を入ってすぐの所にいた。近くに街灯があるためか、薄っすらとだが周りの様子が見渡せる。
『なんで私は待機なんですか』
携帯から明確な不満の意思を訴える声音が漏れてくる。電話の相手は北野であった。
「そりゃあお前、現役で学校に通ってるってのにこれから影を落とすような事をしたくないからだよ」
怪訝そうな声を漏らす北野。やれやれといったように久我山はすっかり白くなってしまった自身の髪を
「千葉は仮にも嬢ちゃんの高校の教師だぞ。お前が千葉を嫌っているならともかく、そんなのと最悪殴り合いになったらお互いしこりが残るだろ」
『私も千葉先生もそんな事は気にしないわ』
「まじか、いくらなんでもサバサバし過ぎだろ。兎に角、お前には俺と違って将来があるんだ。仕事を手伝わせるとは言ったが、今回に関しては我慢してくれ」
『我慢って』
「それに今、丁度目当ての魚が引っかかったんだ。悪いが切るぜ」
『え、ちょっと!』
北野が何か言っているようだったが、久我山は構わず通話を切ってしまった。
コツ、コツ、と規則正しく心地の良い革靴の音が辺りに響く。久我山がその音の主を見て笑みを浮かべる。
「どうも、千葉先生。夜分遅くに失礼します」
「これはご丁寧に。それで、なんの用かな」
千葉は久我山の前で止まり、彼の抱えている黒い布袋に視線を向けながら言った。
「ああ、大した事じゃないんですがね。ちょっといくつかお聞きしたい事があるんですよ」
「内容によりますね。なんでしょうか?」
「ええ、今とある者を追っていてね、ちょいと情報提供をしてほしいんだ」
「具体的には? 事前に伝えておくと、当校の生徒に関する情報や内部事情は一切お伝え出来ませんよ。進路情報や行事に関してなら、ホームページの方をご覧いただきたい」
「それがホームページじゃ手に入らない情報なんですよ。だから、こうして足を運んでいるわけです」
「これは失礼しました。それで、知りたい情報というのは?」
「ええ。教えてほしいのはですね、賢者の石に関しての事ですよ」
「賢者の石、ですか」
「よくご存知でしょう」
「ええまあ。私の話せる事ならなんでも話しますよ」
「ほお、そいつは有り難い。しかし意外ですな」
「何がですか?」
「だってそういうのはもう少しばかり渋るものでしょう」
「手を引きましたからね。もう惜しくもなんともないんですよ」
「そうですか。まあいいや、じゃあ話してもらいましょうか?」
「ええ、分かりました」
空を鳥が飛んでいた。暗いのでなんの種類かは分からなかったが、中型位の大きさである事から、どうやら鳩や烏の類であろう。久我山は一瞬の間訪れた静寂の内に、そんな呑気な事を考えた。
久我山のそんな呑気な推測を打ち破るかのように、千葉は口を開いた。
「西の賢者は生きている。恐らく、何処かに身を隠してこの争いが終わるのを待っている筈だ」
「生きてる? どういう事ですか? 賢者は死んだという話ですが」
「賢者を目撃したからです。昔と何一つ変わらない姿で」
「ほう、成程ね」
考え込むように目を伏せる久我山。やがて顔を上げて言った。
「死は偽装、という事ですかね。賢者の石を奪った人間を欺くための」
「分かりません。只一つ言えるのは、賢者の死ぬ所を見た人間もいないし、死体を見た人間もいないという事です」
「へーそれはいい情報だ。そうですか。感謝します。さて、他に何か知っている事はありませんかね?」
そう聞かれて、千葉は眉をひそめる。
「と、言いますと?」
「それだけじゃないでしょう。まだ何か隠してますね」
「そう思う根拠は?」
そう聞かれると、久我山はくっくっ、と笑みを浮かべる。
「勘と経験だよ」
「これはまた随分と曖昧な」
「ですが、これが案外当たるんですよ。それにね、先生。おかしいんですよ。見ず知らずの、こんな面相の男にあっさりと情報を教えてくれるなんて、虫が良すぎる。そういうわけなので当然、こう考えるわけだ。取り敢えずそれっぽい情報を渡して、満足してお帰りいただこうって考えてるんじゃないか、ってね」
「そんな事は」
「知ってる事洗いざらい話してもらいましょうか?」
千葉が言い終わるのも待たず、久我山は語気を強めて言った。
「知ってる事は全部話したつもりですが」
「いいんですか? 私は見ての通り、碌でもない奴かもしれませんよ。そうだ例えば、貴方の生徒に非道い事をしでかすかもしれませんね」
「脅す気ですか?」
「別にそんなつもりはないですよ。只、貴方の返答次第で私の気持ちも変わるかもしれませんねー」
それを聞いてほんの少しだけ口角を上げる千葉。それを久我山は怪訝な目で見る。
「どうしました? 何か可笑しな事でも?」
「いえ、別に。只、貴方はそんな事をするようには見えないものでね」
「ほお、変わった観察眼をお持ちですね。自分で言うのもなんですが、私みたいな人間は如何にも非道い事をして喜んでそうな面持ちをしていると思うのですが」
「雰囲気ですよ。人は変わっていくものだから、人間を決め付けるのは良くないとは分かっています。だが、誤解を恐れずに言うと貴方は善人だ。そんな人間が、己の快楽のために他人を傷付けるとはとても思えない」
「つまり、直感ってやつですか?」
「そうとも言えるが、自信はありますよ」
久我山は酷薄そうな笑みを浮かべ、静かに笑い出した。
「成程ね。そんな風に私を評価してくださるとは、流石は教育者といったところですか。ですが、貴方は一つ思い違いをしている」
久我山は突如千葉に接近し、千葉が抵抗する間もなく胸ぐらを掴みあげた。
「善人だから人に非道い事をしないってのは、早計じゃあありませんか」
「それはまた、変わった意見、ですね」
千葉の顔を一筋の汗が流れ落ちていく。
「いいですか、先生? 仮に警察や軍隊でも手に負えない殺人鬼がいたとします。その殺人鬼は百人の人間を人質にしてこう要求するんです。高校の生徒を一人を差し出せば、人質は全て開放する、と。繰り返しますが、殺人鬼は警察や軍隊では手に負えない化物です。生徒を犠牲にするか、人質百人を犠牲にするか。さて、その判断を委ねられた男がいたとして、彼はどうしますかね?」
問いかけられるが、千葉は答えない。
「沈黙、まあいいでしょう。ですが、仮に彼が生徒を犠牲にする選択をしたとして、誰か彼を責められますかね。彼は極悪人だ、などと言えるでしょうか?」
「まさか」
「生徒を犠牲にするのが正しい、なんて言ってません。只、人は善人だろうとなかろうと、場合によっては命の数や質を秤にかけてそういう選択も取りうる、って話です」
「つまり」
千葉は目を逸らす。理解したのだろう、久我山の意図を。
「私は善人かもしれません。だが、そんな事は今はどうでもいいんですよ。賢者の石なんて危険物を悪党の手に渡らせないならね、先生、俺は多少非道い事でもやりますぜ。百人、一万人の善人の犠牲が未然に防げるなら、俺は一人を犠牲にする」
「喩え話でしょう」
「喩え話? はあ、やれやれ。仕方ありませんね。では先ず手始めに貴方の受け持つクラスメイトの一人を手にかけてご覧に入れましょうか。ええと、確かこの近くに住んでるのは出席番号四番の栗原君だっけか。書道が上手いんだってな、いや、
「ま、待ってくれ! 分かった、済まない。全部話す。だから、生徒には手を出さないでくれ」
久我山はにい、と口元の笑みを深める。
「おや、私はそんな事をするような人間には見えないんじゃなかったでしたっけ?」
「なんとでも言ってくれ。兎に角、話すから、それだけは止めてくれ」
少しの躊躇の後、千葉は口を開いた。
「
「公園?」
「ああ、賢者の
「公園に家なんて、変な嘘を言っちゃいけませんね」
「隠しているんだ。八意先生の棲家は異界と思しき場所にある。あの公園にはそこにアクセスするためのポイントがある筈だ」
「ほー、そうですかい。しかし、筈だ、というのはどういう事ですかな? あんたは教え子なんでしょう? なら先生の居場所を把握していてもおかしくはない。筈、という言葉にはどうも引っかかるな」
「八意先生は定期的にアクセスポイントを変えているからだ。自分以外の他者に無断で立ち入られないようにね。だから本来、私は先生の棲家へと至る場所は分からない筈だったんだが、三日位前の夜に偶然、八意先生が公園に入っていったのを目撃してしまった。故に、公園の中にアクセスポイントがあると私は考えた。だがこれはあくまで憶測だから、筈、だと言った」
「妙ですね。目撃したのに、挨拶はしなかった?」
「信じてくれないかもしれませんが、あの時会った先生はなんか妙な雰囲気だったんです。先生なのは間違いないのですが、人が変わったような。だから下手に接触するのは避けたかった」
「解せないが、そういう事にしておきましょう」
久我山は掴んでいた胸ぐらを離した。
「私が知っているのは以上だ。ああ、賢者の石と直接は関係ないが、はぐれ魔術師とは明らかに異なる、異質な何かが街を徘徊している。一般人は襲わないみたいだが、貴方も気を付けた方がいい」
「お気遣い痛み入る。では先生、夜分遅くに失礼した」
踵を返し、歩き出す久我山。
「もし」
「ん?」
久我山が振り返ると、千葉が久我山の方をじっと見据えていた。
「もし、私が頑として情報提供を渋っていたら、貴方は本当に生徒を手に掛けたのでしょうか?」
「さて、ね」
久我山は曖昧な返事をして、その場を去っていった。
学校の敷地内にある駐車場、そこに駐車中の自分の車へと歩いていた久我山の携帯が振動する。電話の相手は案の定、北野からだった。
『どうでした?』
「お前はエスパーか」
『え、なんの話ですか?』
「いや、なんでもない」
『そうですか。それで、どうだったんですか?』
「後で話すよ。通話料金も只じゃないだろう」
『分かりました。はぐらかさないで下さいね』
「ああ、勿論だ」
後で、と言って電話を切ろうとした時、何やら騒々しい音が響いてきた。
それは、先程まで千葉と会話をしてきた辺りからのようであった。
電話から何やら騒ぐような声が聞こえてきたが、久我山は構わず通話を切り、全速力で走り出した。
「待てっ!」
裏門の入り口付近に辿り着いた久我山は何か大きな影のようなものを捉えたが、既に遅く、それは闇に溶け込むように学校の外に消えてしまった。
久我山は視線を落とし、舌打ちする。
そこには、まだ生暖かさの残る赤い液体が残っていた。
「賢者だと、笑わせんじゃねえよ」
そう言いながら、けたたましく持ち主を急かす携帯を手にとった。
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