四章 交差⑥
夕刻、少女は高校近くにある三階建ての建物の屋上にいた。理由は単純だ。護衛対象である少年から、とある教師の様子を観察するように頼まれたからだ。
道路を隔てて建っている校門。内と外を分ける特別な結界。
昔は近付く事さえ忌避していた。理由は決まっている。自分とそこに通っている彼らとの落差を見て、嫌な思いをしたくないからだ。しかし、最近は以前より成長したと思うからと、少女はあえてそこから逃げるような事はしなかった。
少しは落ち着いて見れるようになったかな、そう少女が思った時であった。ふと、下方を歩く人達に気付いた。彼らは男女別に一様の服を着ており、帰宅途中の学生である事は少女にはすぐに分かった。
彼らはあるいは気怠げに、あるいは談笑に耽り、あるいは互いに照れくさいのか言葉少なめであった。
少女は幾度となく繰り返されているその陳腐な光景に目を奪われた。
青春。
そんな言葉が自然と自分の口から漏れていた。決して自分の手に届かぬ甘美な体験。
もし姉の凶行が無ければ自分にも訪れていたかもしれない光景。自分は一体どんな学生生活を送っていたのであろうか? 部活というものがあるらしいが、自分は一体どんな部活に入ったのだろうか、それとも入らなかったのだろうか? どんな友人が出来たのだろうか。その友人達と、一体どんな会話を交わすのであろうか? 自分にも、恋する相手が出来たのだろうか。告白する事が、告白される事があったのだろうか。他人の書いた創作物で擬似的にしか体験した事がない光景。実際にはどんなものなのか、彼女には想像もつかない。
少女は思わず自分の服装を見る。制服もどき。少しでも学生気分を味わってみたくて、よく着ているもの。これを着ると、少しだけ空想に浸れる。自分が女子高生になった気分に浸れる。
でも現実の彼らを見た時、少女は劣等感に
――いい加減に身の程を知りなさい。貴方は! 私と同じ穴の貉なの!
「ああ……」
その通りだ。少女は静かに俯いた。自分は定員のあるあの目映い世界から弾き出された、いやそもそも行く事すら許されなかったはぐれ人間で、人を殺したという事実を持っている殺人者。殺した人間は死刑になって当然の人間だから、なんてそんな言い訳は通らない。只々、殺したという事実は変わらないのだ。いくら理屈をこねても覆しようがない、圧倒的な現実。それ以上でも、それ以下でもない。
学生生活。決して自分には届かないもの。あまりにも
彼女の立っている乾いたコンクリートの地面がぽつ、ぽつ、と湿っていく。
夕日が俯く少女の体をオレンジ色に染め上げていた。
〇
「千葉先生、どうだった?」
九時を過ぎた夜、坂見北高校の校門の近くで杜ノ宮と落ち合った高村は言った。
「昨日の夜から特に目立った様子はありませんでした。教務を淡々とこなされているようで」
杜ノ宮はそう言って校舎の方を見やった。
「まだ職員室にいるのかな」
「はい。今は使い魔を使って見張らせてますが、まだ帰る気配はないみたいです。通勤用の車もあります」
杜ノ宮は言った。彼女によると使い魔は黒猫で、首輪に小型のビデオカメラを付けさせており、そこから定期的に送られてくる情報を携帯で受信しているという事だった。
「そっか、ありがとう。今更だけど、ごめんな、杜ノ宮さん。余計な事に付き合わせちまった」
「いえ、私は別に構いません。それよりさっきの話は本当なんですか?」
「ああ。千葉先生が魔術師だってのは先ず間違いなく事実だと思う」
「北野万智さん、からの情報だからですか」
「ああ。知ってるのか?」
「会った事は無いですが遠目に見た事はあります。なんだか、お人形のように綺麗な人でした」
感慨深げに言う杜ノ宮。多分、杜ノ宮は目がいいのだろうと高村は思った。だから遠目でも彼女の目鼻立ちをしっかりと捉える事が出来たのだ。しかし成程、と高村は思う。詳細に見てはいないのだが、確かに北野は綺麗な目鼻立ちをしていた気がする。
「いつかお話が出来るといいな、と思ったりします。向こうは嫌がるかもしれませんが」
「嫌がるって事はないさ。ちょっと話しかけづらい雰囲気はあるけど、北野は多分そんな奴じゃないよ。俺も大して話したわけじゃないけど」
そう言って苦笑する高村。それから彼は空を見上げた。月は雲に隠れており、姿を見る事は出来ない。しかし、月の明かりはなくとも街灯や建物の明かりが地上を照らしているので、周囲の闇に恐怖する事はない。ただ、四方坂の家からは良く見えた星空も、ここでは薄っすらとしか見る事が出来なかった。町の明かりとやらは余程夜の世界を変貌させてしまうものらしい。
「それにしても虐め、ですか」
杜ノ宮が告げると、高村はこくりと頷く。
「馬鹿馬鹿しい事だろうと思うけどさ、高校生ってのは意識的にそういう幼稚な事をする奴もいるんだ」
高村の頭をよぎったもの。それは虐めをした人間に対する千葉の制裁であった。虐めの対象は中村だ。
以前放課後に中村と話した時、最後まで教室に残っていた中村は自分の事を日直だと言っていた。だが、その日の黒板の日直には中村の字は書いてなどいなかった。これは簡単だ。日直の人間が中村に日直業務を押し付けたのだ。坂見北高校の日直は二人制である。だから、仮に一人に緊急の用事が出来たとしてももう一人が業務をこなせばよい。日直の仕事などたかが知れているから、一人欠けてもどうという事はない。では二人に緊急の用事が出来た場合は? 確かにそれも無いわけではない。だが、日直でない者に頼むとしてそれは誰に頼むか? 無論、気の知れた友人だ。しかし、あの日の日直の二人が特に中村と親しげに言葉を交わしている様子など高村は見た事も無かった。
何故親しくもない中村が日直業務を肩代わりしているのか、それは簡単だ。それが、中村に対する嫌がらせになるからだ。
どういう風に頼んだかは知らない。断り辛い雰囲気でも作ってさり気無く頼んだかもしれないし、そもそも中村に断りなど入れずにさり気無く中村の机に日誌を置いたのかもしれない。
中村はヒーローなどという単語を何度か口にした。これは、中村が虐められている事のサインだったのだろう。
千葉は高村や中村の担任である。あからさまに行われているわけではないので気付きづらいが、虐めの事を把握していてもおかしくはない。そして、千葉は正義感の強い男だ。それは以前、体格の良い暴漢から見知らぬ中年の男を守った事などが証明している。故に、虐めなどという
「ここまで付き合ってくれる杜ノ宮さんには悪いけど、俺の思い過ごしであってほしい」
「私もそれが一番いいです」
その時であった。高村のクラスの教室である四階部分が紫色の鈍い光を放ち、やがて収まった。
「杜ノ宮さん、千葉先生は」
高村は唖然としながら尋ねると、杜ノ宮は首を振って言った。
「いえ、まだ職員室の中です」
「じゃあ、一体何が起きて――」
言いかけて、高村は止めた。ああ、そうか。それで筋が通る。
「高村さん?」
「すまん、杜ノ宮さん」
「え?」
「君は千葉先生の事を見張っていてくれないか」
「は、はい」
高村の様子に戸惑いながら応える杜ノ宮。
「俺は、さっき光ってた教室に向かう」
「いえ、でも」
心配そうな顔をする杜ノ宮。しかし、高村はそれに対して微笑で返した。
「大丈夫だよ。あそこにやばい奴はいない」
「ですが」
「頼む、俺を信じてくれ」
高村をじっと見る杜ノ宮。やがて、頷きながら口を開いた。
「分かりました」
「じゃあ、行ってくる」
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