三章 キメラの少女⑤

 煌々こうこうと灯っていた家屋の灯りもぽつぽつと消え始めた頃、一人、人の気配のない二車線の道路を歩いている男がいた。

 グレーのワイシャツにベスト、ジャケットを羽織った男は髪を整髪料で整えており、日中に歩いていれば一角の勤め人であると余人は判断したであろう。しかし、それだけに夜中に道路を徘徊はいかいしている様は酷く違和感を感じさせる光景であった。

 唐突に男は立ち止まった。そして、いつの間にか背後にいた人物を確かめるためにゆっくりと振り向いた。

「中恩寺類だな?」

 高村がそう問いかけると、男は表情も変えずに、只高村の方を見て「如何にも」とだけ答えた。

「私が中恩寺類だとして、君になんの関係がある?」

「あるさ。大人しく付いてきてくれるなら危害は加えない。だが、もし抵抗するなら」

「斬る、といったところか」

 中恩寺は背後に突き立てられた刀を意にも介さずに淡々と言った。

「あんたが碌でもない人間かどうかは知らないが、別に命まで奪うつもりはないよ。だが、目も当てられない事になるかもな」

 高村は少し語気を強めて告げた。しかし特段、高村は中恩寺を酷い目に遭わせようという意思は無かった。これは只の脅しである。中恩寺がそれに屈してくれるならよし、そうでなくても、中恩寺を捕まえて賢者の石を持っているか調べるまでだ。

 中恩寺の居場所を突き止められたのは、杜ノ宮が彼の居場所を把握していたからであった。杜ノ宮は日中、市内を視察していると言っていたが、それは単に地形などの把握だけではなく賢者の石を狙う者達の居場所の把握も兼ねていたのだろう。結果、中恩寺の居場所はあぶり出され、こうして彼に接触を図る事が出来た。

 高村と杜ノ宮が中恩寺の反応を待つ中、中恩寺はやはり表情を変えずにこう言った。

「では追いかけてくるといい」

「え」

 突如、周囲が発光した。杜ノ宮は目を細めながらも中恩寺を峰打ちにしようとしたが、既に中恩寺が立っていた場所には誰もおらず、虚しく刀は空をいだ。

 間も無く光が収まる。高村が辺りを見回すと、道路の向こうに中恩寺らしき人影が走っているのが見えたので、二人はすぐさま後を追った。

「俺の事はいいから先に行ってくれ」

「分かりました」

 杜ノ宮はペースを上げ、あっという間に高村を引き離していく。

 高村は高村でなんとか杜ノ宮を見失わないように必死に駆け続けた。

 くそっ、高村は舌打ちする。足が以前のままだったなら、もう少し早く走れるのに。

 だが。もう少し早く走れたところで、やはり杜ノ宮には到底追い付かないであろう。それ程までに、杜ノ宮の走りは人間離れしていた。

 高村の目にやがて、公園の名前が入って来た。大倉台おおくらだい公園、そこは、陸上競技場やテニスコートなどを併設へいせつした大きな公園であった。

 グラウンドの前で杜ノ宮が立っている所に高村は足早に駆け寄る。

「杜ノ宮さん」

「すみません、見失いました」

 杜ノ宮は申し訳なさそうに言った。

「いや、大丈夫。それだけ相手が用心深いって事だろう」

「ありがとうございます。一旦戻りましょうか」

「ああ」

 歩き出そうとした杜ノ宮、しかし、急に立ち止まり、同じく歩き出そうとする高村を止める。

「どうしたんだ?」

「下がって!」

 怪訝な顔をする高村に杜ノ宮は言った。

 突如、何かが放物線を描いて高村達の近くに落ちてきた。

 それは人間の男であった。

 高村はそれを見て思わず後退る。

 男は片足と片手が欠けていた。欠損部分から漏れ出た血が、欠損の時期を生々しく物語っている。

「助けないと!」

「待って下さい」

 駆け出そうとする高村を杜ノ宮は止める。

「なんで!」

 言い終わるか終わらないかの内に、黒い影の塊が公園の林から飛び出てきて、男を掴み上げた。

 あれは。高村は一瞬、全身を硬直させた。街灯に照らし出されたそれは、以前高村達に襲いかかったアトラスという化け物だったからだ。

「もう駄目です。助けられません」

 杜ノ宮は淡々と告げた。多分、彼女にとっては新聞やテレビのニュースくらいにしか感じていないのだろう。だが、その淡々と告げられた事実は高村に重い言霊となって響いた。

 死ぬのか、目の前でこんなにも簡単に?

 男がうめきを上げる。その呻きが、助けてくれという悲痛な叫びとなって高村の頭に響いてくる。

 嫌だ。まだ死にたくない。

「一ノ目秀一郎、はぐれ魔術師です。貴方が気に病む事はありません」

 高村の様子を察したのか、杜ノ宮は静かにそう告げた。

「遊んでいるのね。駄目よ、そんな畜生みたいな行いは私のミニオンに相応わしくないわ。ああ、それとも」

 アトラスが出てきた暗闇の林の中から少女が姿を現した。

「貴方の中のどっちかが、そいつに恨みでもあるのかしら」

 時上鈴。無邪気な笑みを浮かべながら、少女は姿に似合わぬ台詞を吐いた。

「もう十分気は済んだでしょう。さっさと引導を渡しなさい」

 少女による無慈悲な宣言。化け物は男を掴んでいた手を離すと、手に持っていた大きななたで振り上げた。

 あ、そんな抜けた声が高村の声から漏れた。

 死んだ、高村は自らの目の前で初めて人が死ぬのを目撃したのだ。

 それはいくつかの塊として辺りに散らばり、物言わぬ只の肉の塊と成り果てた。

 亡骸なきがらの眼と目が合い、激しく目眩がした。最早只の物体、人間を成り立たせるために必要な最低条件を満たしていないであろうそれに、高村は胸を射抜かれるようだった。

 不意に肩に手を置かれる。それは、杜ノ宮だった。

「落ち着いて。心を冷たくして下さい。貴方が余計な事を考える必要はありません」

「あ、ああ。もう、大丈夫」

 高村は息を吐き、そして吐き出す。それから目の前の相手を見た。時上の方も、先程手にかけた男の事などもう関心などないとでもいうように、じっと二人の方に視線を注いでいた。

「こんな所で遭うなんて奇遇ね。いいえ、偶然にしては出来すぎかしら。ひょっとして誰かの差金?」

 時上は問いかけとも、独り言ともとれない口調で言った。

「ああ、ひょっとしてあの人形師かしら。手駒を粗方潰してしまったからこうやってけしかけてるとか。まあいいわそんな事。少年少女達、あれから貴方達に興味が出て色々調べさせてもらったのよ。そうね、例えば貴方」

 そう言って時上は杜ノ宮の方へと視線を向ける。杜ノ宮は刀を抜き、その切っ先を時上達に向けていた。

「杜ノ宮一さん、貴方は普通の人生に未練があるのね」

「なんでそんな事が貴方に分かるんですか?」

「あ、やっと返答してくれた。そりゃそうよ。貴方のその女学生みたいな服装を見ていれば分かるわ。貴方はそんな服を着ているのに調べる限りでは学校には通っていないし、ハンター、だなんて薄ら暗い事もやってる。故に一さん、貴方のその服装は普通の人生への憧憬どうけいの表れなのよ」

「だから、どうしたというんですか?」

「どうしたって、ねえ。悪い事言わないから、真っ当な人生なんてものにしがみつくのはお止めなさいよ」

「……何故?」

「この世界は落伍らくごした者には徹底的に厳しいわ。常識的に考えてみなさい。一度脱線した列車が元の車線に戻る事なんて出来る? 出来ないでしょ。結局無駄なのよ、一回社会の体制から外されてしまったはぐれものが真っ当な暮らしに戻ろうなんて、勘違いも甚だしいわ。そういう人間はね、真っ当じゃない人生を這いつくばってでも懸命に生きるしかないの。慣れてしまえばそんなに悪くはないわよ。ほら、お釈迦様も言ってるじゃない。執着を捨てなさいとかなんとかって」

「勝手に決め付けないで下さい」

「じゃあ聞くけど、なんでそんなに真っ当な人生にこだわるの?」

「え?」

「貴方は何故か普通の人生とやらに幻想を抱いているようだけど、そんなにいいものとは限らないわよ」

「なんでそんな事言い切れるんですか。貴方だって、まともな人生を送ってきたようには見えない」

「貴方それ本気で言ってる? 送らなくても分かるわよ。真っ当な人生っていってもね、結局は鬱屈うっくつしたものを抱えている人だらけなのよ。毎日仕事に怯えている人なんてざらだわ。表沙汰にされない陰湿いんしついじめを受けてる人だって大勢いる。誰かの青春の陰で誰かは青春を踏みにじられているかもしれない。あまりの単調さから逃れるために、夢を叶えるだとか言って自分から破綻はたんの道に進む人間だって数えきれない。貴方の夢想している真っ当な人生なんてそんなものはね、社会のごくごく一部の人間達だけが享受しているものなの。何不自由ない温かい家庭があって、家族に愛され、甘酸っぱい青春時代を過ごして、大人になって絵に描いたような温かい家庭を築く。そんなもの、選ばれた人間達だけに許された特別な営みよ。大多数の真っ当な人間なんてね、零落れいらくしたくないから必死でしがみついているだけ、アウトローよりは幾分かましだから仕方なく我慢してるだけよ。それでも貴方は真人間になりたいの? いいえ違ったわね。貴方は貴方の妄想したまともな人生を送りたいだけ。無理よ、無理無理! そんなの、普通の真っ当な人間だって喉から手が出る程欲しいものなのに、ましてはぐれ者の貴方なんかが手にできるものなんかじゃないわ。いい加減に身の程を知りなさい。貴方は! 私と同じ穴のむじななの!」

 まるで演説のように滔々とうとうと放たれた言葉。しばしの間、静寂がその空間を支配した。その静寂を、しかし杜ノ宮は打ち破った。

「言いたい事はそれだけですか」

「なんですって」

「貴方になんか言われなくても、分かってますよそんな事。自分の方が社会の事知ってるだなんて思い上がらないでください」

 杜ノ宮がそう言うと、時上は静かに笑みを浮かべる。

「そう、それは野暮やぼったい事を言ったわね。ごめんなさいおじょうさん」

 アトラス、そう少女は告げると、少女の傍らに控えていた巨人が静かに体を震わせる。

「高村さん」

「何?」

「少しの間、彼女の相手を。刺激しないように」

 高村が小さく頷くのを確認すると、杜ノ宮は跳躍して次の瞬間にはアトラスに斬りかかっていた。

 アトラスは持っていた鉈で刀を受け止め、上から斬りかかった杜ノ宮を体ごと吹き飛ばした。約五メートル程離れた場所に着地する杜ノ宮、アトラスは横へと跳躍してすかさず鉈を振り下ろすが、杜ノ宮は体を反らしてそれをかわす。彼女はアトラスを引き付けながら徐々に高村と時上のいる場所から遠ざかっていき、やがて高村の視界から消えてしまった。

「あの子が動き辛い場所への誘導かな。前より動きも良いみたいだし、考えるじゃない」

 時上は感心したように呟く。それから、ゆっくりと高村の方へと顔を向けた。

「高村幸太郎君。そういえば貴方に謝っておかなくてはいけない事があるわ」

 高村は無言のまま時上に意識を集中していた。余計な戯言ざれごとを聞いている余裕などない。言うならば勝手に言えばいい、適当に聞き流してやるから。

「貴方を襲った化け物だけど、あれ、私が使役してる別のミニオンだったの」

 淡々と放たれた告白、それは辛うじて一定のリズムを保っていた高村の心臓を大きく乱した。

「貴方をこんな争いに巻き込んでしまったのは私だった。つまり貴方の仇は私というわけね」

 少女の言葉に高村は何も返答しない。ただその場に硬直したまま、鋭さを増した眼光で時上を見据えていた。

「苦し紛れの言い訳をさせてもらうと、あのミニオンは誰かにやられて少し暴走気味だったの。そうでないと私が止めていたわ。だって関係ない人間を巻き込む程、私も馬鹿じゃないから。それでどうする? 貴方から何もしない限り私は貴方に危害を加えるつもりはないわ。私はどちらでもいいけどね」

「どうもしない」

 高村の言葉に時上は首を傾げる。どうもしない、と自分でもその言葉を口にして、時上はその言葉の意味を探っているようだった。

「そのままじっと突っ立ってるって事? それは何か婉曲えんきょく的な意味はあるのかな、それともやっぱりそのままの意味? 教えてほしいな」

 少女は愛らしい笑みを浮かべて問いかける。呑気なものだと高村は思った。彼女は確信しているのだろう。あの巨人、アトラスが杜ノ宮に討たれる事はないだろうと。そしてわざわざ一人で高村の前にいるのは、高村を退けるくらいの魔術的な備えを持っているからなのだろう。

 そう慢心してくれるならそれでいい。高村は内心でほくそ笑んだ。こうして対峙して、彼女の注意を引き付けておけばいいのだから。

「時上鈴。どっちだと思う?」

「あ、名前で呼んでくれた。嬉しい」

 そう言って時上は満面の笑みを浮かべる。一瞬、その笑みに高村は心を奪われてしまった。

「そうね。貴方は一見すると無鉄砲な男子学生に見えるけど、でも思慮深いところがあるのよね」

 時上は視線を落としたり、高村を見たりしながらやがて「ああそうか」と呟いた。

「少年。貴方がそこでじっとしているのって、ひょっとして、そこでじっとしている事自体に意味があるからかな。そう、例えば時間稼ぎとか」

 その時上の言葉に、高村は心臓を鷲掴わしづかみにでもされたようだった。高村はその動揺を必死に顔に出さないようにしたが、しかし、生暖かいしずくがその心理状態を表すかのように頬を伝っていった。

「ふうん、図星みたいね」

 目を細める少女に、高村は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。こんなにも緊張するのは自分達の策が見透かされているからなのか、それとも、この少女の気紛れで簡単に自分の生が握り潰される事に怯えと恐怖を覚えているからなのか、高村には分からなかった。

 何か言わなくては、気の利いた事を。高村は必死に脳内で言葉を探し始める。高村の方から何もしない限りは危害を加えるつもりはない、そんな事を時上は言った。だがそんなもの、「何もしない」のちょっとした解釈の仕方や、そもそもの心変わりで簡単にくつがえる。

 落ち着け、高村は大きく息を吸い込む。いざとなれば闘うだけだ。危険なのはアトラスというあの巨大な化け物であって、この少女ではない。魔術師とはいっても所詮は人間、付け入る隙はいくらでもあるのだと四方坂は教えてくれた。自分の装備は化け物には脆弱ぜいじゃくだが、魔術師相手ならばなんとか出来ない事もない。

「来るなら来いよ」

 ただ、高村はそう告げた。彼にはこれが最善の策か分からない。ただ、何も呟かないよりは幾分かましだと確信してこう告げた。

 あまり大きくはない、少し震えのこもった声。しかし時上はそれが聞こえたようで、口角を上げる。

「へえ、勇敢ね。どうしよっかなー」

 その時であった。時上の背後に人影があった。それは杜ノ宮であった。彼女は街灯の明かりを反射させて鋭く光る刀の切っ先を、その少女に向けて突き出そうとしていた。その動作に迷い、躊躇などという人間的な感情は一切窺えない。少女であろうと危険ならば例外なく相手を葬るという明確な意思を持ったその切っ先は、しかし、時上鈴の首筋に到達する事は無かった。

 杜ノ宮は時上から距離を置き、大きく後退していた。

 杜ノ宮は首を片手で触る。ほんの僅かばかりだが、その首筋は確かに切れており、そこから少しばかりの血が滴り落ちていた。

「残念。もう少しで貴方の首は地面に転がっていたのに」

 時上鈴はそう言った後、愛らしいが、ナイフのような鋭さを持った瞳で高村の方に視線を向けた。

「少年、やっぱりこういう事だったのね。無垢そうな顔をして悪知恵が働くなんて、悪い子」

 薄っすらと笑みを浮かべる。なんて子供らしくない、作り込まれた笑顔だと高村は思った。

「ミニオンはどうしたのかしら?」

 時上は杜ノ宮に問いかけるが、杜ノ宮は何も答えない。

「まあいいわ。仮にあれを潰されたところで、また作ればいいだけだもの」

「また?」

「ええ、また作ればいいのよ。むしろあれはまだ発展途上だったから、失敗を活かしてもっといいものを作るわ」

「次なんてないですよ」

「へえ、それはどういう意味かしら」

「そのままの意味です。貴方はここで倒れる」

 少しの間があった。遠くから車の音が聞こえてきたが、それ以外に音らしき音は無かった。

「杜ノ宮一さん。貴方の覚悟は素晴らしいわ、それは紛れもない事実よ。いくら適正があったとはいえ、後天的にデミヒューマンになるだなんて普通は考えない。でもね、それでも私には決して届かない」

 そう言うと、時上は徐に上の服のボタンに手をかけ、脱ぎ始めた。

 杜ノ宮は刀を構えその様子を見据え続けた。高村も、その少女の挙動から目を離さないようにしていた。

 しかし少女が肌着をめくりあげ、その素肌を晒した時、高村は瞳孔どうこうを大きく開き「え」とかすれた声にならないような声を口から漏らした。

「これが私の覚悟の証よ」

 少女は無邪気に言った。

 その服の下の素肌は青紫色に薄い輝きを放つ異物に侵されていた。胸から肩下辺りにかけては葉脈のようなものが体にへばりついており、胸の中心にはホラー映画やファンタジー映画にでも出てくるような怪物の目がぎょろぎょろと動いている。

「キメラよ。私はキメラの権威の跡取りだから、これくらい朝飯前ってわけ。ちなみにこの子はね、この国のとある山奥でくすぶっていた神代の魔物よ」

 少女は杜ノ宮に微笑みかけた。そうして、また服を元のように着直した。

「ね? だから半端な貴方じゃ私を殺せないわ。だって、覚悟の度合いが一段階違うもの。私は真人間なんて目指さない。だから、それに未だにすがる貴方では私を倒す事は決して叶わないのよ」

 杜ノ宮はしかし、その言葉に答えず、ただ一直線に視線を、切っ先を時上鈴へと向け続けた。

 時上の手が怪しくうごめく。その時、手を引っ込めた袖の辺りがぐにゃぐにゃと怪しげに動き始めた。そしてその手はやがて、人の体を鷲掴わしづかみ出来る程の大きさを持った怪物の手へと変貌した。

 高村は全身にこれまで感じた事のない種類の悪寒を感じた。一方で、これまでこんな恐怖を感じた事がないのも無理はないと納得もした。これまで感じてきた恐怖は、言わば生命の安全が確保されていた上での恐怖であった。それがお化け屋敷であれジェットコースターであれ、身の安全には最大限配慮された上で恐怖を演出されるのだ。幼い頃に父親に叱られた時の妙な恐怖だってトラウマになりそうなものだったが、それだって生命に関わる事では決して無かった。だが目の前で起きようとしているものはどうだ。少女の左手、これは、生命の保護など微塵みじんも感じさせない程の不安と恐怖、そして死の気配を周囲に撒き散らしているではないか。

 やばい。高村は震える足を手で思い切り叩く。何故人間はこうも不出来なのか。高村は人間の体に対して無意味な悪態をつく。恐怖を感じるのであれば、こういう時こそ普段は奥深くに閉まっている運動能力を開放しなければならないだろう。何故逆なのか。恐怖が運動神経を鈍らせ、緩慢かんまんな動作へと誘い、身体を硬直させる。これは生命の危機にあってはならない人間の重大な不具合であろう。

「高村さん、下がってください。絶対に私が守ります」

 杜ノ宮が丁度高村の盾になるような形で前に出る。一体、何故彼女はこうも整然と動く事が出来るのだろうか。全くもって、人間としての出来が違うのだと高村は思った。

「勇敢な事ね。巴御前ともえごぜんも斯くや、といったところかしら」

 時上は静かに歩き出す。コツ、コツ、と軽やかな音が周囲に響く。

「準備はいいかしら」

 そう時上が言い終わるか終わらないかの内に、杜ノ宮は既に走り出していた。時上は目の前に来た杜ノ宮に異形の手を振るった。その鉤爪かぎづめが杜ノ宮の首筋を捉えようとした矢先、杜ノ宮は瞬く間もない程の敏捷さで時上の背後に回っていた。

 横に薙がれる少女の刀。人間であれば如何な達人といえど対応出来ないであろうその一閃を、小柄な少女はその手で受け止めた。いや、正確にはそれは手ではなく刃であった。先程まで怪物の手であったそれは、気が付けば青い刀身を持つ刀になっていた。

 杜ノ宮は動じない。そんな事など些末な事だと言わんばかりにすぐ次の行動に移っていた。時上から少し距離を置き、背後に回り込みつつ斬りかかった。時上もそれを当たり前のように躱し、杜ノ宮に反撃を行う。

 しばらくそうして何度も切り結ぶ両者。その様子を高村は、綺麗、だと感じてしまった。白刃の切っ先がかすめる髪の毛、せわしく動く四本の足、甲高い金属音の連なり、衣擦れ、地面を蹴る靴の音。流れるような一連の動きがあったかと思うと、一瞬静止画のように止まり、そこから再び激しい音が響く。

 見とれている場合ではないのだ、命がかかっているのに。そう言い聞かせながらも、その立ち合いは息を呑む程に美しく、高村の行動を縛り続けていた。

 杜ノ宮が大きく後退した。高村はハッと我に返る。杜ノ宮の呼吸は乱れ、胸を大きく上下させていた。

 押されているのだ、杜ノ宮は。高村は杜ノ宮の様子でようやくその事実に気付いた。

「実を言うとね、貴方が奇襲をかけてくる事は予想していたのよ。私のミニオンはどうにか出来なくても、私を倒すなら造作もないだろうってね。でもそれこそが私の狙い。ひ弱そうな少女に奇襲をかけて油断しきった相手を討ち取るのが私の定石。ミニオンが危険なのであって、少女自体は大した事はない。その思い込みを利用するの。そうして何人かは簡単に引っかかってくれたわ。魔術師なんて単純よね。頭は良くても戦うための勘も機転もてんで駄目。度胸もない。即席の魔術が得意なはぐれ魔術師もいたけど、ちょっと本気出したらすぐに腰を抜かしてしまったわ」

 少女は滔々と語る。こんな緊張状態で多弁なのはそれだけ余裕がある事の証左なのだと高村は思った。

 だが、一方では油断しているともとれる。

 俺に出来る事はないのか? 高村は考える。ちょっとした差なんだ。時上鈴と杜ノ宮一の隔たりは。だから、一瞬だけでも注意を引き付ける事が出来れば。

 よし、高村は心の中で呟いた。賭けかもしれないが、やってみるしかない。上着の内ポケットの中に手を入れて、そっと銃を取り出し、静かに構えた。

 既に撃鉄げきてつは起こされている。後はタイミング、つまり両者が動き出そうとするタイミングを見計らって引き金を引くだけだ。杜ノ宮なら瞬時に意味を察してくれるだろう。時上にとっては他愛のない横槍かもしれないが、一瞬、注意をこちらに引き付けられる。

 そして時が来た。こんな所を誰かに見られでもしたら自分は愈々取り返しが付かなくなるな、そんな呑気な事を考えながら高村は銃弾を放った。

 銃身から飛び出した銃弾は殆ど正確に時上の元へと軌道を描いた。しかし、それが時上鈴の関心を一瞬たりとも惹く事は無かった。時上は杜ノ宮に襲い掛かる一連の動作の中でそれを処理し、銃弾など無かったとでもいうようにただ目の前の曲者へと関心を払っていた。

 歯牙にもかけないのか。高村は微かな絶望を感じた。杜ノ宮は自分を助けてくれるのに、自分はそれに応えられない。このままでは、杜ノ宮が。

 その時、時上は杜ノ宮から顔を背けた。

 始めは何が起きたのか高村には分からなかった。しかし、間もなくその理由を理解した。矢だ。北西辺りから飛んできたらしい、およそ明確な形を持っていないであろうその矢は時上の関心を最大限にまで惹きつけた。いや、それだけではない。彼女はそれを防ぐために大きくその異形の腕を振るおうとした。

 正体不明の矢と杜ノ宮の太刀。恐らく、時上はそれでも防げると踏んではいたのであろう。だが、時上が防いだのは矢だけであった。これに対処するために、時上は殆ど反撃の時を割いてしまったのだ。

 杜ノ宮の太刀が時上を襲う。時上は避けようと後ろに後退したが、その逆袈裟の切り上げは正確に彼女を捉えていた。

 鮮血が飛び散る。よろめく時上、そこへ追い打ちをかけようとする杜ノ宮。しかし、それは時上の牽制けんせいによって失敗に終わった。

 ぽつ、ぽつ、と時上の立っているアスファルトが赤黒いシミに濡れていく。時上は胸の辺りを抑え、額に球粒程の汗を浮かべていた。

「やってくれるじゃない。逆手に取ったつもりが、更に逆手に取られてたってわけね」

 時上は懐から黒い石を取り出し、それを空中に投げた。

 それに見慣れない文字が刻まれていたと高村が分かった時、既にそれは発光を始めていた。

 次の瞬間、立っていられない程の強風と目を開けていられない程の光が辺りを襲った。その最中、微かに地面を蹴る音がした。

 間もなく光が収まったかと思うと、既にそこに時上の姿はなくなっていた。

「さっきの光の矢みたいなのは、一体」

 高村が呟くと、杜ノ宮は首を振った。

「分かりません。意図も不明ですが、結果的に助かりました」

「時上鈴は」

「すみません。逃げられました。捨て身覚悟で踏み込めば倒せたかもしれませんが」

「いや、やめてくれそんな事」

「は、はい」

 やけに強調するような物言いに、杜ノ宮は思わず頷いた。

「彼女はしばらく私達を襲ってこないでしょう」

「え?」

呪詛じゅそを刻みましたから」

「呪詛、呪いか?」

「はい。私の持っているこの刀はちょっと変わったまじないが施されてあるんです。効果としてはよどみ、といえばいいですかね」

「つまり、動きを鈍らせるのか?」

「はい。これを受ければ激しい動きは出来なくなりますし、数日から一週間は魔術のまともな行使は出来なくなります。体感的にはそうですね、体がやけに重くなって、頭に常にノイズが混ざっている感じです」

「そうなのか」

 動きが鈍くなるというのなら、確かに彼女はしばらく襲ってこないのだろう。

 だが、高村はアスファルトに残った赤黒い斑点を見つめる。

 いずれはその効能も消えて再び二人の前に姿を現すのであろう。今度はなんの遠慮もなしに、最初から全力で。

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