一章 奇妙な事件と深海魚達②

「ここか」

 上司から電話があった日の翌日、浦上は市内繁華街の一角にある七階建ての雑居ビルを訪れていた。目的は上司から紹介された探偵、久我山真之くがやまさねゆきとの接触で彼の営む興信所は七階にあった。

 時代に取り残されたかのような薄れた煉瓦色のビルはどこか陰鬱としていて、前を通ろうものなら思わずそこだけ距離を取りたくなるような場所だと浦上は思った。事実、実際に入るのを一回は躊躇ためらった程だ。

 浦上が事務所の中を窺う。入り口はパーテーションで仕切られていて中の様子はうかがえないが、電気は点いているようだった。

 まさか自分が興信所というものと関わりになるとは浦上は思ってもいなかった。そういうものは大抵ドラマや小説の中だけの話であり、現実には起きえないファンタジーだと思っていたからだ。

「さて、何が出て来るのやら」

 浦上は扉の傍に置かれている、素っ気ない来客用電話機の受話器を手に取る。

 受話器からコール音が耳に鳴り響く。浦上はしばらく待ってみたが、規則正しい無機質音が十回程鳴り響いたところでそっと受話器を置いた。

 誰もいないのか、浦上は扉の奥をいぶかしげに窺いながら溜息ためいきをつく。きっと電気は消し忘れたのだろう、そう考えて、浦上はきびすを返そうとした。

 ふと、背後から肩を叩くものがあった。咄嗟とっさに浦上は振り返る。

 でかいな、浦上が最初に抱いた印象はそれであった。実際、後ろに立っていたその男は背が高かった。百九十を越えているであろう背丈に服の上からでも分かるがっしりと引き締まった身体付き、そして、肩にかかるか、かからないかくらいの白い長髪。

「どうも。ひょっとしてあんたが浦上さんかい?」

 男は陰気そうな雰囲気を放ちながらも、しかしハッキリと聞こえる声で言った。

「あ、ああ、そうです。ひょっとして、貴方が久我山さんですか?」

 浦上は警察手帖を取り出しながら言った。

「如何にも。ここで立ち話もなんだから、取り敢えず中で話しましょう」


 事務所の中は取り立てて変哲もない部屋だった。入って左手奥に重厚な机と椅子があり、その前に応接用のテーブルと黒のソファが二つ。扉の向かいの壁には本棚があり、参考資料と思しき本やファイル類が整理されて置かれている。

「申し訳ない。言い訳がましい事ですが、ここの近くで急病人に出くわしたから少し看護していたもので」

 そう言いながら事務所のオーナー、久我山は浦上にコーヒーを差し出した。

「いえ、大丈夫です。私も今さっき来たばかりですから」

 浦上はふと見ると、向かいの壁の一角に扉がある事に気が付いた。なんとなく見てみたい気もしたが、別に家宅捜査をしているわけでもないのに見るのは流石不味いと思い、視界に入らないように目を逸らした。

「お一人でやっておられるんですか?」

「いいえ。実は一人助手がいてたまに手伝ってもらってるんですがね、生憎今日は休みでして」

 久我山はテーブルに置いたノートパソコンを操作しながら言った。

「そうですか」

「浦上さん、いくつくらいですか?」

「俺は今年で三十七です」

「ほお、じゃあ私とあまり変わらないくらいですね。仕事の方はどうですか?」

「可もなく不可もなくですよ。別に華やかに事件を解決したりするわけでもなし。久我山さん、知ってましたか? 現実は犯人逮捕の時も湿っぽいBGMは流れないんですよ」

 そんな下らない冗談を浦上は自嘲気味に言うと、久我山は口元をほころばせた。

「それは悲しい。折角のクライマックスだってのに、無音じゃ締まりがないですね」

「誰か気を利かせて流してくれたら最高なんですけどね。ま、実際そんな事したら不謹慎でしょうが」

 はは、と久我山は静かに笑う。

「久我山さんの方こそ景気はどうですか? パソコン、中々いいものを使ってるみたいですが」

 浦上はちらとパソコンを見ながら言った。実際、浦上の知識が正しければ久我山が使っているノートパソコンは数十万は下らないものだった筈だ。P社の製品で、しばしばエリートっぽい雰囲気のビジネスマンが使っているのを浦上は見た事があった。

「ぼちぼち美味しい話にありつかせてもらってますよ。実はここだけの話、前職より数倍稼ぎは良くなったんです」

「そいつは羨ましい。前職は一体何を」

「ちょっと言いにくいんですが、警察を、ね」

 そう答えて、久我山は口を閉ざしてしまった。あまり聞かれたくない事でもあるのだろう、そう思って浦上もこれ以上は聞かなかった。

「すみません。話を脱線させてしまいました。それで用件なのですが」

「死体の消失、でしたか?」

「はい。変な話だとは思うのですが、その、死体が見つからないんです。何処を探しても」

 久我山はパソコンのモニターを見ながら「ふむ」と口に手を当てる。

「大量の血溜まりね。血液センターなり、裏口なりからかっぱらってきた血をそこにぶち撒けたとかそういう事は?」

「いえ、その血の持ち主も調べましたよ。間違いなく被害者本人のものです。DNAの判定とやらが間違ってるなら別ですけどね」

「そうですか。まあいずれにせよ、死体の捜索は続けなければいけませんね。万が一、という事もありますから。それで本題に入りましょうか」

 久我山のノートパソコンを操作する手が止まり、じっとその黒い眼が浦上を見つめてきた。浦上はその瞳に思わずたじろいでしまう。失礼だとは思いながらも、その目はまるで、途方も無い深海から這い上がってきた生き物のような、得体の知れない目だと彼は感じた。

 唾を飲み込み、浦上は口を開く。

「資料にもあるように、目撃者は、目の前で化物が死体を食べたと証言しています。だから死体が無いのも当然だと。これについて、貴方の見解をお聞かせ願いたい」

「化物が死体を食べた、ねえ」

 久我山は口元を手で覆い、目を伏せる。少し時間がかかるかと浦上は思ったが、久我山はすぐに顔を上げる。

「ま、そういう事もあるでしょう」

 淡々と久我山は言った。

 浦上の背筋を生温い汗が伝う。久我山が、簡単にその異常を肯定したからだ。何処とも知れない人間の肯定ならなんとも思わない。だが、久我山は信頼していた上司が信頼している男だ。そんな男の言葉ともなると、狂言や冗談では済まない。

「じゃあこの件についても、そうだと考えてますか」

「確信はしてません。まだ、可能性はあると申し上げたまでです」

「そうですか」

「ああところで、その目撃者ってのは今はどうしてるんで?」

「カウンセリングですよ。まあ仕方ないでしょう。化物が人を喰ったなんて証言、それが真実であれなんであれ、精神的なものが心配になってきますから」

「成程。あー、浦上さん?」

「はい、なんでしょう」

「あまり宜しくないとは思いますし、不躾ぶしつけも承知なのですが、出来ればその証言者に会わせてはくれませんかね?」

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