第13話 胸の痛み

「じゃ、行ってくるから。留守の間は頼んだよ」

「はい。いってらっしゃいませ、ご主人様」


 オレは、朝早くから出かけないといけなかった。

 昨夜急きょ、出張しての書類作成の依頼が入ってしまった。


 近場だから、マリアと一緒でなくてもいいだろう。

 それに仕事の内容も、そんなに難しいものではない。


 そう思ったオレは、朝早くにマリアにそう伝え、1人で依頼人の元へと向かっていった。




 ご主人様が出かけた後、残されたのはわたしだけになりました。

 しかし、だからといってわたしのやることに変わりはありません。


 いつも通りの仕事を、こなしていくだけです。


「まずは、お洗濯とお掃除と……」


 わたしはやることを確認し、さっそく仕事に取り掛かりました。




 午前中に、掃除と洗濯が終わりました。

 あとは午後になってから、夕食の食材の買い物に行くだけです。


「さて、そろそろ……」


 わたしは一息つこうと、紅茶を淹れに行こうとして、立ち止まりました。

 ご主人様のお部屋でもある書斎の掃除が、まだでした。


 これをやらないことには、掃除が終わったとはお世辞にも癒えません。

 書斎は、ご主人様にとって大切な場所です。

 ちゃんと綺麗にしておくことが、メイドとしてのわたしの務めです!


 急いでわたしは、書斎へと向かいました。




 書斎の掃除を終えて、あとはベッドを直すだけになりました。

 ご主人様が毎日お休みになるベッドです。

 ちゃんとシーツを変えて、乱れた布団を直し、今夜もぐっすり寝てもらえるようにしないといけません。


 ベッドに近づきますと、ふとベッドからご主人様の匂いが漂ってきました。

 わたしは自分しかいないのをいいことに、ベッドに鼻を近づけ、臭いを嗅いでしまいました。


「ご主人様の匂い……」


 思いっきり吸い込みますと、なんだかとても安心できました。

 しかし同時に、どういうわけか胸が苦しくなってきてしまいます。これは一体、どうしてでしょうか?


 もしかしたら、少し疲れが溜まっていたのかもしれません。


「少しだけ……休憩します」


 わたしはゆっくりと、ご主人様のベッドに寝転がりました。

 ご主人様には申し訳ありませんが、少しだけベッドを使います。

 メイドのわたしが倒れてしまっては、ご主人様に迷惑をかけてしまいます。それにベッドは、休んだ後でも直せます。


 目を閉じたわたしは、そのままいつしか寝息を立て始めてしまいました。




 わたしが目を覚ますと、そこには信じられない光景が広がっていました。


 起き上がったわたしが見たのは、たくさんの無機質なベッド。

 寝床は固く、シーツはあちこちに得体の知れない汚れが残り、洗濯などされていないことが分かりました。


 わたしはその場所に、見覚えがありました。


「ここは……!」

「おい、売女狐!」


 わたしを呼ぶ、男の声。救貧院の職員であることは、すぐに分かります。

 そしてわたしが最も呼ばれたくなかった、その呼び名を口に出してきました。


「は……はい……」

「はいじゃねぇ!! さっさと起きろ売女狐!」

「わたしは……わたしはマリアです! 売女狐じゃありません!」


 聞き捨てならず、わたしは抗議します。

 わたしは一度も、男の人に対して身体を許したことなどありません。売女などと呼ばれる理由は、どこにもないのです。


 しかしわたしを待っていたのは、謝罪の言葉などではありません。

 男からの鉄拳制裁でした。それを身体に受けたわたしは、ベッドから転がり落ちて、床に叩きつけられました。


「ゴホッ……!」


 胃のあたりに痛みが走り、口の中に血の味が広がります。

 どうやら、口の中が切れてしまったみたいです。


「口答えしてんじゃねぇ!! さっさと起きて仕事をしろ! わかったか売女狐!」


 わたしがバカでした。この男は、聞く耳など持っていませんでした。

 わたしは痛みを堪えて、立ち上がります。


「さっさと食堂で飯を食ってこい! 食ったら仕事をしろ!!」

「はい……」


 イラついている男の前を通り、わたしは食堂へ向かいました。



 救貧院での日々は、本当に酷いものです。

 食事は少ないうえに、どう見ても残飯です。同じ収容者で過去に刑務所に入ったことがある人は、みんな口をそろえて「刑務所のほうがマシな食事を出す」と云います。刑務所に入ったことがないわたしでも、それは真実だろうと思います。それほどまでに、救貧院の食事はひどいのです。

 食事の間でも、気を抜くことはできません。常に職員から見張られていますので、ゆっくりと食事をすることなどできません。食事の量が少ないことで、最初のうちは喧嘩が起きたりもしました。それも、今では起きなくなりました。わたしは喧嘩を起こしたことはありませんが、喧嘩が起きると、起こした人はしばらく立ち上がれなくなるほど職員から暴行を受けます。そして今では、喧嘩を起こす元気さえ無くなった人がほとんどです。


 そして食事が終わりましたら、労働の時間がやってきます。

 労働はほとんど、意味をなさないものばかりです。荷物を運べといわれて運んだら、今度は元の場所に戻すことになったりします。わたしはいつも、穴を掘っては、その穴を埋め直すことをしていました。

 少しでもミスをすれば、ムチで容赦なく叩かれます。これは老若男女問わず、収容されている人はみんなムチで打たれます。

 そんなことを、朝から夕方まで、クタクタになるまでさせられました。

 給金も出ますが、雀の涙ほどです。1日に大銅貨2~3枚。良くても銀貨1枚だけでした。


 夜になると、夕食が出ます。

 夕食も、残飯でした。いったいこれほどの人数を賄う残飯を、どこから仕入れてくるのでしょうか。

 しかし、そんな疑問など湧き起るはずもありません。わたしは疲れ切った身体を押して、味も感じられない残飯を口に運んでいくことしかできませんでした。


 そして疲れ切ったまま、寝床となるベッドへと戻ります。

 隣に置かれたベッドでは、すでに誰かが眠っています。夜中にはいびきが聞こえることもあり、話し声やすすり泣く声も筒抜けです。プライベートなんて、夢のまた夢です。

 わたしはそんな中で、消灯時間を過ぎて灯りが落ちますと、毎日枕に顔を押し付け、泣いていました。

 そうしないと、わたしの中に溜まっていく苦しみを掃き出せなかったのです。


 眠っている時も、決して油断はできませんでした。

 一部の若い収容者は、職員から最も過酷なことをさせられることがありました。


 それは、夜中にこっそりと行われる、性的虐待です。


 わたしは幸いなことに、性的虐待を受けることはありませんでした。

 しかし、わたしと同じ孤児院から救貧院に来た友達の中には、救貧院の職員から毎晩のようにオモチャにされて、ボロボロになって亡くなった子もいました。

 その子は今、救貧院の一角にあるブーツヒルという墓地で眠っています。

 そしてその子を埋めるための墓穴を掘ったのは、わたしでした。


 ここは、まさに地獄と呼ぶにふさわしい場所です。

 これ以上に地獄らしい場所があるとは思えないほど、地獄に近い場所でした。


 きっと、ここで一生を終えることになるんだろう。

 そしていつかあの子と同じように慰み物として弄ばれ、ガラクタのように捨てられていくのだろう。

 わたしにはもう、夢も希望もありませんでした。


 どうやったら、楽に死んでしまえるのだろうか。

 そんなことを考えながら、寝る毎日でした。



 しかしある日の夜、わたしの人生は大きく変わりました。


「火事だー!」


 突如として聞こえてきた怒号に、わたしは飛び起きました。

 見ると、管理棟の方から火が上がっています。

 管理棟はかなりの勢いで燃えていて、サイレンがどこからか鳴り響いています。家事を救貧院全体に知らせるためのサイレンに、間違いありません。


「助けてくれー!」

「火事だ火事だぁーっ!」

「キャーッ!」

「水を持ってこーい!」


 救貧院の中では、職員も収容者も大パニックに陥っています。

 そして、火の手はわたしがいた場所にも迫ってきていました。


 わたしは、ベッドのマットレスの下に手を入れ、おカネが入った袋を取り出します。

 救貧院に来た時から、ずっと貯め続けていた日当です。

 こういう時のために貯めておいたわけではなく、使う場所が無かったから溜まってしまっただけです。

 わたしには、自分の身体とこのおカネ以外に、持ち出したいものがありません。


 混乱に乗じて、わたしは救貧院の外へと出ました。



 外に出て、わたしは目を見張りました。


 救貧院のほとんどの建物に火が移り、消し止められるどころか、より一層大きく燃え上がっていました。

 これではもはや、消し止めることなど不可能でしょう。火災の経験がほとんどないわたしでもそう思ってしまうほどでした。


「やったぜ!」


 聞き覚えのある声が、わたしの耳に聞こえました。

 声がしたほうを見ると、そこには黒狼族の少年がいました。


 彼のことは知っています。

 わたしと同じ孤児院から、この救貧院にやってきた子です。


 わたしと同じ年ですが、頭の回転が速く、いつも自分でいろいろと問題を解決してしまうタイプでした。


「どうしたの?」

「孤児院に火をつけたの、実はオレなんだ」


 黒狼族の少年による犯行声明。

 わたしは耳を疑ってしまいました。


 しかし、それが真実らしいことは、彼が持っている松明ですぐに分かりました。

 松明の先端には布がまかれ、その布からは微かに油の匂いがします。


「どうして火をつけたりしたの!?」

「へへっ。いつもオレを殴ってくるバカが、今日は当直なんだ」


 彼の言葉に、わたしは思い出します。

 彼はいつも、ある特定の職員から暴行を受けていました。かなり理不尽な内容で虐待されていましたが、いつも彼は少しも反抗するような素振りを見せませんでした。


 でも、それは間違いだったみたいです。

 彼はじっと、機会を伺って耐えていたみたいです。


「だから焼き殺そうと思って、こっそりと管理棟に油をまいて火をつけてやった。面白いように燃えてくれたよ。それにマリアを虐待していたバカも、さっき焼け死んだぜ!」

「そ……そう、ありがとう……って、どうしてわたしの名前を!?」


 若干引きながら、わたしは彼に問いました。

 どうしてわたしの名前を知っているのでしょうか。


「いいってことよ! あぁ。オレの名前は――」


 しかし、その名前を聴くことはできませんでした。


 バァン!


 直後に轟いた銃声が、彼の命を奪い去ってしまったのです。

 銃を撃ったのは、辛うじて助かった職員でした。


「このガキぃ……!」


 職員の目からは、殺意しか感じられません。

 このままでは、わたしも彼と同じように殺されてしまうでしょう。


 嫌! わたしはまだ死にたくない!!


「キャアア――――ッ!!!!」


 わたしは叫びました。

 自分でも驚くほど、高い声で叫んでいました。


 その声を聞きつけ、他の逃げた収容者が駆け寄ってきました。

 そしてすぐにその状況を理解したらしく、一斉に職員に対して怒りを沸き上がらせていました。


「こいつ、人を殺したぞ!」

「野郎、もう我慢できねぇ!!」

「血祭りだ!!」

「絶対に生きて帰すなぁ!!」


 一斉に職員に襲い掛かる人たち。

 職員はすぐに見えなくなり、人だかりの奥から鈍い音が微かに聞こえてきました。


 恐ろしくなったわたしは、混乱の中で救貧院から逃げ出しました。



 手持ちのおカネだけを握り締め、わたしは駅へ走りました。

 そして切符を買い、行き先など見ることなく夜汽車に乗り込みました。


 安心したわたしは、夜汽車の中で眠ってしまいました。

 どこからか、わたしを呼ぶ声が聞こえるような気がします。




「マリア!!」


 聞き覚えのある、優しい声。

 わたしはその声に反応して、起き上がりました。


 そこは夜汽車の中でも、救貧院でもありません。

 わたしが住み込みでお仕事をしている、ご主人様のお部屋でした。


 わたしは起き上がり、それまでのことを思い出します。

 どうやらわたしは、ご主人様のベッドで眠ってしまい、夢を見ていたみたいです。


「マリア、眠っていたのか……」

「ご主人様っ!」


 わたしは思わず、ご主人様に抱き着いてしまいました。


「わっ!?」


 ご主人様が驚いた声を出して、わたしはしでかしてしまったことに気がつきます。

 すぐに、ご主人様から手を放しました。


「もっ、申し訳ございません!」

「マリア、何かあったのか?」

「はい。実は――」


 わたしは、先ほどまで見ていた夢の内容を、ご主人様にお話ししました。



「……そうか。それで抱き着いてきたのか」

「はい、本当に申し訳ございませんでした」


 ご主人様に、わたしは頭を下げます。

 ベッドをお直しするどころか、ご主人様のベッドで眠ってしまいました。

 お仕事をサボっていたと思われても、無理のないことです。


 すると、ご主人様がわたしの頭に手を置いてきました。

 そしてゆっくりと、わたしの頭を撫でてくれました。


「マリア、大丈夫」


 ご主人様はそう、わたしに云ってくれました。


「ここでは、そんな悲惨なことは起こらない。だから、安心していいんだよ」

「ご主人様……」


 ご主人様からの優しい言葉に、わたしは安心できました。

 そしてご主人様がわたしの頭から手を離しますと、わたしは立ち上がります。


「ご主人様、ありがとうございます!」


 すっかり元気になりました。

 少しだけ胸の痛みが気になりましたが、まずはお仕事を片付けることが先です。




 さぁ、お仕事の再開です!

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