第8話 風邪をひいたシリウス
「ゴホッゴホッ!」
オレは連続して、咳を出した。
完全に、風邪の症状だ。
そう、オレはあろうことか風邪をひいてしまった。
風邪の原因となったことは、ある程度推測がついた。
少し前の日のことだ。依頼人の元まで出張して仕事を終えた後、オレが帰るときに土砂降りの雨が降っていた。
傘を持ってきていなかったオレは、その中を駆け抜けて帰ってきた。当然、ずぶ濡れになることは避けられない。
そこまでは良かったんだが、問題はその後だった。
マリアから着替えるように勧めてきたが、オレは疲れていたからか、着替えることもせずにベッドに横になった。
そして、そのまま眠ってしまったのだ。
それで今や、このザマだ。
これでは代書人としての仕事も、執筆の仕事もできやしない。頭はボーッとするし、関節という関節が痛くて、万年筆を手にすることもままならない。
ちゃんとマリアから勧められたように、着替えてからベッドに横になるべきだった。
今になって後悔しても、遅すぎるが。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
マリアは付きっきりで、オレの看病をしてくれている。
それがオレには、とてもありがたかった。
「だ、大丈夫……ゲホッゴホッ!!」
激しい咳が出てしまう。
その時の動きで、乾きかけていた額のガーゼが、枕元に落ちてしまった。
「大丈夫じゃありません!」
マリアがガーゼを拾い上げてくれ、洗面器で濡らし、絞ってオレの頭に乗せてくれる。
冷たさが戻って、気持ちが良かった。
「し、仕事だ……仕事をしないと」
オレはついいつもの癖で、起き上がろうとする。
仕事をしないといけない。
そんな自分の感情が、オレを動かそうとしていた。
しかし、マリアがそれを許してはくれなかった。
「ご主人様、今は仕事をしている場合じゃありません。まだ提出期限はあるはずです」
「それはそうだが……」
「それに、もしも書類への記入を間違えたりして、それを依頼された方にお渡ししてしまったら、大変ですよ!」
「うぐぐ……」
オレは反論できなかった。マリアの云っていることは、正しかった。
「とにかく、今はごゆっくりとお休みください」
マリアはオレにそう告げると、書斎を出て行った。
オレは一人、熱にうなされながら天井を見つめていた。
頭は熱いが、身体は寒気を感じている。
「うう……仕事をしないと……」
仕事ができない。
それはオレにとって、かなり重大なことだった。
仕事ができなくなると、途端に収入がストップしてしまう。
オレだけが困るのなら、まだ許容できた。
しかし、今のオレにはマリアがいる。
仕事ができないということは、マリアを守ることができないことでもある。
マリアは救貧院から逃げ出して、オレの所へメイドとしてやってきた。
今オレがマリアを守ることができなくなったら、マリアは再び救貧院に戻るか、もしくは娼婦になるか、最悪の場合は犯罪者となってしまう。
そんな過酷な運命を、マリアに味合わせたくはなかった。
だけど、どうしようもない。
今のオレは、身体が思うように動かない。仕事なんて、できるわけがないのだ。
いいだろう。
こうなったら一刻も早く風邪を治して、バリバリ仕事をこなすだけだ。
そのためには、何よりも身体を休めることが最優先だ。
オレは布団を直して、ゆっくりと目を閉じた。
とにかく眠れば、体力も回復するはずだ。
いつしかオレは、意識を失った。
「……あれ?」
気がつくと、オレは事務所にいた。しかし、すぐにオレの事務所ではないことに気がつく。
「ここは……代書人協会!?」
代書人協会の事務所。
そこは、かつてのオレの勤め先だった。
代書人の試験に合格し、代書人手帳を交付されてから、初めて代書人として働いた場所。
そして同時に、オレが事務所を1人でやっていかなくちゃいけなくなった場所でもある。
「おい、何ボーッとしてんだ!?」
突如としてオレは怒鳴られる。
「さっさと書類を作れ! まだまだ仕事はあるんだぞ!」
「はっ、はいっ!」
「ったく、この忙しいときに……!」
オレは慌てて、目の前の書類作成に取り掛かる。
とてもじゃないが、代書人協会の事務所にいるメンバーだけでは処理しきれないほどの依頼が、溜まっている。どんなに残業したとしても、これでは依頼を納期までに終わらせることができない。このままでは、依頼人に迷惑が掛かってしまう。
それだけはどうしても避けたい。建前上、そうなってはいるが、誰一人としてそれを意識しているようには見えない。
「この書類じゃ、ダメだね」
問題なく作り上げた書類を、ダメだと破り捨てる上司。
「どうして、ですか!?」
「そんなもん自分で考えろ、クズが!! 依頼人に迷惑かけるな!」
あんたが破いたせいで、また依頼人の所に署名を貰いに行かなきゃならなくなったじゃないか。
依頼人に迷惑かけてるのは、誰か分かっていってるのか。
オレはそう毒づきながらも、口には出せなかった。
「……はい」
頭を下げ、机に戻って書類を作り直す。
どうして、こんな仕事を続けなくちゃいけないんだ?
どうしてどうしてどうして……?
足りない人手、オーバーすぎる仕事量、それをほったらかしにしている現状。
そして、それを解決しようとしない代書人協会。
……そうだ。
こんなところで、依頼人に迷惑をかけながら仕事をして金を貰うなんて、間違っている!
オレは、こんなことをするために代書人として働いているんじゃない!
困っている依頼人を助けるために、代書人として働くことを選んだ!
それなのに、ここはオレの考えとは真逆で動いている!
ついこの間だって――!
「もう限界だ!」
オレが叫んだ、そのときだった。
上司が突如として、オレの目の前に現れた。
「シリウスくん、君はもう不要だ」
突如として告げられた、解雇。
「うわああああああ!!!!!!」
オレは耐え切れなくなり、叫んだ。
「わああっ!」
オレは起き上がる。
辺りを見回すと、先ほどまでいた代書人協会の事務所ではなく、自宅のベッドの上だった。
あの上司も、どこかへ消えてしまった。
辺りが暗いことにすぐ気づき、オレは枕元にある読書灯のスイッチを探す。
すぐにスイッチは見つかり、オレは明かりをつける。
淡い光が、オレの暗闇になれた目を刺激した。
「……夢か」
嫌な夢を見たもんだ。
「もう二度と、あんなところで働かないようにするには、どうすれば……」
……そうだ。やることは1つだ。
オレが今、依頼人から依頼されている仕事を、なんとしても仕上げて依頼人に届けることだ。
早ければ早いほど、依頼人からは感謝されて、おカネを貰えるし、それに信用も上がる。
幸いにも、事務所の経営はそこそこだ。
だが、それで留まっていてはいけない。
マリアと自分を守るためには、もっと働かないといけない。
そんなことを考えていると、部屋が明るくなった。
入り口を見ると、そこにはマリアがいた。プレートを持っていて、プレートの上には、湯気の上がる食器が乗っている。
「ご主人様、起きたのですね」
マリアがオレの枕元までやってきて、ベッド横のサイドテーブルにプレートを置く。
ベッドの横でしゃがみ込んで、マリアはオレの顔を覗き込んだ。
「ご主人様、お粥を作ってきました。食欲はありますか?」
「ありがとうマリア。だけど……」
オレは起き上がり、ベッドから出ようとする。
「仕事……仕事をしないと……!」
「ご主人様、まだ安静にしてください!」
「仕事をしないと……オレはマリアを……」
なんとかして事務所に行こうとするが、身体が思うように動かない。
だけど、オレは仕事をしないといけない。
そんなことを考えていると、マリアが口を開いた。
「ご主人様!!」
「!?」
マリアが、怒鳴った。
これまでに一度も怒鳴ったことがなく、大人しくて控えめだったマリアが、怒鳴った。
オレは仕事のことを忘れて、茫然とマリアを見つめる。
マリアの目には、怒りの感情が浮かんでいた。
「ご主人様、いい加減にしてくださいませ!!」
「マリア……」
「仕事なんかより、今は自分の身体を大切にしてください!!」
初めて見た、マリアの起こった姿。
オレに出る幕は無く、完全にマリアに会話の主導権を握られてしまう。
「ご主人様が、もしも死んでしまったら、わたしはどうすればいいんですか!? 仕事よりも、今のご主人様は自分を大切にしてください!」
だんだんと、マリアの声が涙声になり、瞳がうるんでくる。
涙をこらえていることが、熱を帯びた頭でも分かった。
オレは、マリアを悲しませてしまったのだろうか。
そんなことを思いながら、オレはマリアの声に耳を傾けていた。
一言一言が、耳に突き刺さるように痛い。しかし、それから耳を閉ざすことができなかった。
「ご主人様、ご主人様はお優しいお方です。自分が大変な状況なのに、わたしやほかの人のことを気にかけてくれます。でも、あまりにも自分に厳しすぎます!」
ついにマリアの目から、涙が零れ落ちた。
「わたしは……そんなご主人様を見たくはありません。どうか、今は仕事のことは忘れて、ゆっくりしてください! でないと……本当に死んでしまって……わたしはまた、救貧院に戻らなくてはならなくなります。わたしはもう……救貧院に戻りたくはありません」
「マリア……」
オレはやっと、気づいた。
今までオレは、自分を大切にしてこなかった。
そして、それが偉いことと勘違いしていた。
マリアが今まで、どれほどオレのことを心配してくれたのか。
それらを、マリアが教えてくれた。
なんてオレは、バカだったんだろう。
オレはマリアに、謝らないといけなかった。
「……マリア」
オレは涙をこぼすマリアの頭に、そっと手を置いた。
そしてマリアの頭を、優しく撫でる。
「マリア……すまなかった」
オレの言葉に、泣き止むマリア。
「オレが間違っていたよ。仕事を優先しすぎて、大切なものを見失っていた。それをマリアが教えてくれた。本当に、すまなかった」
「ご主人様……」
「それと……ありがとう」
オレはそう云うと、そっと手を引っ込めた。
「ご主人様……」
マリアは顔を赤らめて、オレを見つめてくる。
照れているのか、それとも泣いたことで赤くなっているのか、ちょっと分からなかった。
「……お粥、冷めちゃったかな」
「だ……大丈夫です。まだ温かいですよ! 召し上がられますか!?」
「あぁ。食べたい」
すぐにマリアは立ち上がり、プレートごとオレにお粥を差し出した。
オレはスプーンを使い、お粥を口に運んでいく。
「……美味しい」
一口食べてそう云うと、オレは二口目を食べていく。
「ご主人様……」
お粥を食べ始めたオレを見て、マリアも安心したようだった。
先ほどまでの怒りと悲しみのマリアは、すっかり元のマリアに戻っていた。
もうマリアに、あんなことを云わせるようなことをしちゃいけないな。
オレはそう思いつつ、お粥を食べ進めた。
そして全て食べ終えると、マリアは安心しきった表情でガーゼを替え、空になったお粥が入っていた器を持って書斎を出ていった。
翌日。
身体が軽くなり、熱もすっかり下がったオレは、服を着替えて部屋から出てきた。
「マリア、おはよう」
「ご主人様!」
朝食の準備をしていたマリアが、オレに駆け寄ってくる。
「ご主人様、もう風邪は治ったのですか!?」
「あぁ。もう大丈夫だ!」
オレは腕を動かし、風邪から回復したことをアピールする。
「これでやっと、仕事ができるようになった。遅れてしまった分を、取り返さないとな!」
「ご主人様……まだ治ったばかりですので、無理だけはなさらないでくださいね」
「ありがとう。無理はしないよ。約束する」
オレのその言葉に、マリアは笑顔で頷く。
さて、朝食を食べたら、仕事を進めるとするか。
窓の外には、青い空が広がっていた。
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