第7話 美術館
「ご主人様、ここってもしかして……」
「その通り、美術館だ」
仕事が休みのある日。
オレはマリアを連れ、美術館を訪れた。
オレの代書人事務所は、年中無休というわけではない。
週に1度ある『太陽の日』と呼ばれる日には、オレは事務所を閉めていることが多い。書類を提出する役所が休業するだけでなく、依頼人となる人のほとんども休みになるからだ。そんな日に事務所を開けていても、依頼人はやって来ない。そうなれば、緊急の要件でもない限り事務所を閉めて労働から解放されたほうがいい。
今日美術館にやって来たのも、営業などではない。
マリアと共に、純粋に芸術鑑賞を楽しむためであり、マリアの慰安でもあった。
「ご主人様、わたし美術館に入るのは……初めてです」
「そうかぁ。実はオレも、ずっと昔に一度入った以来なんだ」
オレはマリアと共にインフォメーションセンターの窓口に並び、そこでチケットを購入する。
料金は、オレとマリア2人で大銀貨4枚だった。
「ご主人様、わたしのようなメイドが、美術館のような高貴な建物に入ってもいいのでしょうか?」
マリアは、自分がメイドだから美術館にはふさわしくないかもしれないと、思っているようだ。
しかし、そんなことを気にする必要はない。
「マリア、大丈夫だ。ちゃんと料金を支払って、チケットを買ったんだから」
オレはそう云いながら、マリアにチケットを手渡す。
チケットを持っていれば、美術館から見れば貴族でも使用人でも、同じ1人の観客である。そこに上も下もない。
「入らなかったら、せっかくのチケットが台無しだぞ? それとも、オレと一緒に芸術鑑賞は、お望みじゃなかったか?」
「いえ、そんなことはありません!」
マリアが、はっきりとそう云った。
「ご主人様のおかげで、美術館に来れたんです。それに初めてですから、一緒だと安心できます」
「それは良かった。それじゃ、行こうか」
「は……はい……!」
オレはマリアと共に、美術館に足を踏み入れた。
美術館の中には、いくつもの絵画、彫刻、陶芸作品、アート作品が並んでいた。
物静かな美術館ではあるが、作品が多く展示されているスペースは、人が少なくても作品からの主張が強く、オレにはどこか騒がしいような印象を覚えた。
こういう作品の中には、何をテーマにしているのか、何を伝えたいのかよく分からない作品もあったりする。
しかし、そうした作品も、見ているだけで楽しいこともある。
マリアはオレの隣で、オレが見た作品の1つ前の作品を鑑賞していた。
時折、食い入るように見入ったり、周りを人に囲まれるまで作品の鑑賞を続けたり、触ろうとして自分がしようとしていることに気づき、手を引っ込めたりしている。
そんなマリアに気を配りながら、オレは芸術鑑賞を再開した。
わたしは初めて入った美術館に、胸が高鳴っていました。
美術館の中は隅々まで掃除が行き届いています。そして白く、美しい壁には、たくさんの絵や写真が展示されていました。
絵や写真だけではありません。陶芸作品や、金属で作られたよく分からないものも、作品として展示されています。中には黒いインクで文字だけが書かれたものもあり、これも作品だと美術館の人の説明で知りました。とても作品とは思えないようなものまで、作品として展示されています。
その中でわたしは、ご主人様の後に続くようにして、芸術鑑賞をしていました。
正直、わたしには展示されている作品が何を伝えようとしているのか、よく分からないものも少なくありません。読み書きはできますが、ご主人様のように高い教養などは持ち合わせていないのです。
それでも、ご主人様と一緒に芸術鑑賞ができるというだけで、わたしは満足でした。
時折投げかけられる、わたしに対する視線が気になりました。
しかしわたしは、すぐに忘れてしまいました。
美術館に来れる機会なんて、滅多にありませんから。
「……ご主人様、きれいな絵でございますね」
わたしは隣にいる、ご主人様にそう申し上げます。
しかし、返事がありませんでした。
聞こえなかったのかもしれません。
直接、ご主人様を見て申し上げたほうが、ちゃんと伝わてくれるのかもしれません。
「ご主人様、きれいな絵で――」
わたしはそう申し上げながら横を見て、絶句しました。
そこに居たのはご主人様ではありませんでした。
どこの誰かも分からない、初老の男性だったのです。
初老の男性は怪訝そうな顔をして、その場を立ち去っていきました。
慌てて辺りを見回しますが、ご主人様の姿はどこにもありません。
とんでもないことに、なってしまいました。
またしても、ご主人様と離れ離れになってしまったのです。
つい先日、迷子になったばかりだというのに……!
心細くなってきたわたしは、ご主人様を探しに行こうとしました。
まだご主人様は、美術館の中に居るはずです。
「ご主人様……!」
わたしが駆け出そうとした、そのときです。
突然誰かに、手を握られました。
「!?」
驚いたわたしは振り返って、目を見開きます。
わたしの手を握っていたのは、探しに行こうとした、ご主人様でした。
オレはどこかに行こうとしたマリアの手を握った。
「マリア、オレは近くにいるから」
「……はい!」
また迷子になってくれたら、かなわないからなぁ。
オレはマリアの手を握り直す。
すると、マリアの方からも握り返してくれた。
「ご主人様……」
「さて、芸術鑑賞を再開しようか」
「はい!」
オレはマリアと共に、芸術鑑賞を再開した。
一通り見終わると、もうそれ以外に美術館でやることは無くなった。
マリアも満足してくれたみたいで、オレはマリアと共に美術館を後にした。
ちょうど昼時でもあった。
帰り道にあるレストランで、昼食を食べていくことにしよう。
そう提案すると、マリアは信じられないといった様子で、オレを見つめていた。
芸術鑑賞をした上で、レストランで昼食というのが、とてつもない贅沢に思えたらしい。
「ご主人様、本当にありがとうございました」
レストランで料理が運ばれてくるのを待っていると、マリアがオレにそう告げてくる。
オレは新聞から顔を上げて、首をかしげた。
「美術館に入れる日が来るなんて、思ってもいませんでした。でも、ご主人様のおかげで貴重な体験ができました。今日は、わたしの人生で最高の日です。ご主人様、本当にありがとうございました!!」
オレに向かって、深々と頭を下げるマリア。
人生で最高の日だなんて、大げさな。
オレはそう思いながら、新聞を畳んだ。
「マリア、そんなことはないよ」
「ご主人様……?」
顔を上げたマリアに、オレは云った。
「確かに、マリアはこれまでの人生で美術館に入ったことは無かったかもしれない。しかし、これからはそうじゃない。行こうと思えば、いつでも行ける。だから、また来ような」
「……はい!」
マリアは満面の笑みで答えた。
それとほぼ同時に、オレたちのテーブルに注文した料理が運ばれてきた。
ちょうどいいタイミングだ。
オレとマリアは、カトラリーを手にした。
「さぁ、食事を始めようか」
「はい、ご主人様!」
オレの言葉で、オレとマリアは食事を始める。
なんだか、オレとマリアって、あんまり雇用主と使用人っていう感じがしないなぁ。
傍から見ればそうなのかもしれないが、オレからすると恋人や夫婦に近いような――。
「……って、オレは何を考えているんだ!?」
そんなことを考えて、何になるというんだ。
オレは自然と考えていたことを頭の中から振り払い、食事を進めた。
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